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ミセリコルディアと罪の星  作者: 涼風てくの
デンドロビウム編

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第47話「慈悲という名の剣」

 金属音なき衝突。ラインツファルトは、儀式の激痛に焼かれる腕を無理やり動かし、切っ先を紙一重で逸らしていた。だが、それだけだ。重い。細腕から繰り出されたとは信じがたい質量が、彼の生存本能を軋ませる。

「あなたは一体……ッ」

 脂汗にまみれたラインツファルトの問いに、アグライアは一瞬、陶器の人形のように動きを止めた。彼女の瞳の中で、慈愛と使命がせめぎ合うような、微かな葛藤の光が揺れる。だが、それは瞬きする間に「聖性」へと塗りつぶされた。

「……わたくしはミセリコルディア。最弱の者に力を与える魔剣です」


 その言葉を聞いた瞬間、ラインツファルトの脳内で電撃が走った。勝機が見えた。彼は、震える唇を吊り上げ、ニヤリと嗤った。

「……そうか。なら、話は早い」

 彼は抵抗の力を抜き、あえて無防備な胸元を晒した。簡単な賭けではないが、やるしかない。

「見ろよ、ミセリコルディア。今の俺は儀式の反動で指一本動かせない。魔力防壁もない。赤子以下の存在だ。……これ以上の最弱がどこにいる?」

 アグライアが小首を傾げる。

「お前がその剣の定義(ルール)に従うなら、今の俺は『力を与えられるべき対象』であり、『排除すべき敵』ではないはずだ。……違うか?」

 それは、究極の詭弁だった。相手が「システム」に準じる存在ならば、それを逆手に取って行動を縛る。

 聖堂に張り詰めた沈黙が落ちる。シュテュンプケは息を呑んだ。この極限状況で、こいつは敵の「慈悲」を利用しようとしている。


 アグライアは、悲しげに眉を寄せた。その瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちる。

「ええ。……その通りです。この剣は、弱き者にこそ振るわれるべきもの」

 彼女は剣を引いた。ラインツファルトは安堵の息を吐きかけ――


「ですから、差し上げます。……貴方が、この地獄から抜け出すための『翼』を」


 ――思考が、凍りついた。


 アグライアは、満面の、それはもうとろけるような慈愛の笑みを浮かべていた。


「貴方は弱く、苦しんでいる。自力では死ぬことすらできないほどに。……ならば、わたくしが手を貸して差し上げます。この苦痛に満ちた肉の檻を壊し、魂を解き放つこと。それこそが、弱き者への最大の『慈悲』でしょう?」

「な……ッ!?」

 論理が反転した。彼女にとって「慈悲」とは「生き延びさせる」ことではない。「死という安息へ飛び立つための推進力を与える」ことだった。

 ラインツファルトは戦慄した。話が通じないのではない。言葉の定義が、生物として決定的に食い違っている。

 彼女は悪魔でも死神でもない。ただ、「死こそが救済」と信じて疑わない、純粋培養された倫理観なき概念。

「おやすみなさい、ラインツファルト様。……良い夢を」

 白銀の閃光が走る。回避不能。防御不能。説得という最後の盾も砕かれた。


 ズブリ。


 聖剣ミセリコルディアが、ラインツファルトの心臓へと吸い込まれる。痛みはなかった。あるのは、魂が溶けるような喪失感だけ。

 その瞬間。

 シュテュンプケの「仮死魔法(魂の剥離)」と、アグライアの「慈悲」が衝突した。生かすための仮死と、殺すための力。矛盾する二つの概念が特異点を生み出し、世界そのものを歪める。

 カッッッ!!

 視界を焼く白光。因果がねじ切れ、ラインツファルトの存在が「ここではないどこか」へと弾き飛ばされた。

 光が収束した時、祭壇の上には誰もいなかった。ラインツファルトは消えていた。

「ああ……。よかった」

 アグライアは涙を拭い、満足げに微笑んだ。

「これでやっと、あの方は自由になれました」

 彼女は一礼し、踵を返す。

 シュテュンプケは、呆然とはしていなかった。即座に杖を突き立て、空間に残り続ける「歪み」に向けて魔力を注ぎ込む。

「ふざけやがって、あのアマ!」

 叫びと共に、重力魔法が展開される。だが、それはアグライアへの攻撃ではない。ラインツファルトが消えた座標を、無理やりこじ開けたまま維持する「空間固定」だ。

「逃げるのか! 私が動けないのをいいことに!」

 シュテュンプケの罵倒にも、アグライアは立ち止まらない。彼女にとって、仕事は終わった。残された者が何をしてようと、もはや興味の対象外なのだ。


 ラインツファルトが目を開けた時、そこは見知らぬ荒野だった。

「……はっ、ぐぅッ!」

 肺が焼けるように熱い。

 大気に満ちるマナが腐っている。吸い込むだけで内臓を蝕むような、濃厚な死の瘴気。彼は体を起こし、空を見上げた。

 そこには、太陽も月もなかった。あるのは、血を流したような燃えるような赤い空と、空を裂く巨大な亀裂だけ。

「ここは……」

 死者の世界。生身の人間が存在してはならない、終わりの場所。

 ズズズ……。

 地面から、無数の亡者たちが這い出してくる。生者の匂いを嗅ぎつけたのだ。ラインツファルトは構えようとするが、体が鉛のように重い。ミセリコルディアの力の残滓が、生身の肉体を蝕んでいるのか。

 その時。赤い空を切り裂いて、一つの影が降ってきた。

 ドォォォォン!

 着地と同時に衝撃波が走り、群がる亡者たちを粉砕する。土煙の中から現れたのは、ボロボロの布を体に巻き付けた、小柄な人物だった。顔は泥と返り血で見えない。だが、その獣のような構えからは、凄まじい剣気が立ち上っている。

 その手に握られているのは、赤錆びて原型を留めていない、かつての王家伝来の聖剣。

「……助けてくれた、のか?」

 ラインツファルトが声をかける。だが、その人物――レティシアの成れの果ては、ぎらついた瞳で彼を睨みつけた。理性はない。ただ、生者を排除する防衛本能と、終わらない戦いの狂気だけがそこにあった。

「ァあ゛あぁぁぁッ!」

 絶叫と共に、錆びついた剣が、ラインツファルトに牙をむいた。

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