第29話「エリック・アンドラス」
メリッサは父の前に立ちはだかるように詰め寄った。
「ちょ、ちょっと、本当にやるつもりなの!?」
その声は震えていた。しかしエリックは、娘の動揺を気にも留めない。蒼い瞳は静かで、むしろ炎のような決意を宿している。
「丁度いい。――私の威厳を示す、絶好の機会だ」
二人は庭へ続く外階段を降りた。肌寒い季節だが、色とりどりの花が咲いている。トレニア、ゴンフレナ……本来ならこの気候では見られぬ花々が、まるで春の陽気に誘われたかのように色彩を競っていた。それも、すべて魔術のなせる業だった。
共和国で、このような幻想的な光景に出会える場所は限られている。ここ、アンドラス邸と、もう一つは魔術学院くらいのものだ。街で無闇に魔術を振るえば、即座に警官に拘束される。それほど、魔術という存在は人々にとって遠ざけられた力となっていた。
二人が進む先には、石畳の広場が待っている。庭の中央を貫く小径を歩き抜けると、開けたその場所は、戦うために設えられたかのように障害物が一切なかった。風が静かに吹き抜け、咲き誇る花々を揺らしている。
――決闘には、悪くない舞台だ。
エリックはそう心の中で呟く。だが、その胸に過るのは苦い記憶だった。
学院時代。若き日のエリックは、己の才覚に絶対の自信を抱いていた。だが、その自負をことごとく打ち砕いた存在が一人だけいた。
ティアレット・ハルトマン――学院最強の名を欲しいままにした、孤高の魔術師。
あの日は、冷たい雨の降りしきる、陰鬱な一日だった。エリックはずっと、機会をうかがっていた。自分の中で膨れ上がる劣等感を断ち切るため、彼女と相まみえる時を。
廊下で見つけた彼女の背に、ためらいなく声をかける。
「やっと見つけた……ハルトマン、私と戦え。学院の生徒として、嫌とは言わないだろうな」
「なぜ?」
彼女はゆっくりと振り返った。白磁のような肌、冷ややかな光を宿す灰銀の瞳。その目は、エリックを見ているようでいて、何も映していないようでもあった。抜け殻のように虚ろで、どこか、壊れかけの人形を思わせる。
その無関心さに、エリックは苛立ちを覚えた。
「お前のような無名の家の出身者に――格下に甘んじるわけにはいかないんだよ」
言葉を投げると、彼女は小さく首を傾げ、さも不可解な現実を何とか咀嚼するように間を置いてから、低く言った。
「……無意味だ」
「何?」
「どれほど力を持っていようと、すべて無意味だ」
淡々とした声。感情を欠いたその言葉が、かえってエリックの神経を逆撫でした。
「つい先だっても、アンデッドの討伐に出ていたな。一体、何がお前を突き動かすんだ?」
「……つまらない問答をする気はない。私はただ、成すべきことを成すだけだ」
吐き捨てるように言い残し、ハルトマンは決闘場へと向かう。エリックはその背を睨みつけながらも、何故か胸の奥に拭えぬ違和感と、微かな憐憫を感じていた。
――この女は、何を背負っている?
広場に立ったハルトマンは、雨に濡れた長剣を腰に下げ、無造作に言った。
「面倒な形式は省こう。――手短に終わらせてくれ」
その口調に、エリックの怒気が再び高まる。
「……望むところだ」




