第11話「イオ、ハルトマン」
宴が終わり、場の喧騒も次第に静まりつつあった。
これからの予定について確認したいことがあり、ラインツファルトはハルトマンの姿を探した。
しかし、どこを探しても彼女の影は見当たらない。思い返せば、しばらくの間、彼女は皆の前から姿を消していた。一体どこへ行ったのか――まるで夜の闇に溶け込むように、忽然と消えていた。
(もしや……)
胸騒ぎを覚えたラインツファルトは、宿へと足を向けた。
宿はしんと静まり返っていた。深夜の冷えた空気が、外の喧騒とは別世界のように漂っている。だが、ある部屋からろうそくの明かりが洩れているのが見えた。
足音を殺して近づくと、ドアの向こうからくぐもった声が聞こえた。女二人の会話。そのうちの一人は、間違いなくハルトマンの声だった。
言葉の文脈こそ曖昧だったが、その会話は妙に引き寄せられるものがあった。
「指示がない限り、私から危害を加えるつもりはありません。もちろんあなたがそのつもりなら、私も全力で戦うまでですが。
あなたは気丈な風でいながらかつての面影を残していますし、私に危害を加えたりはしないはずです。まだ過去に囚われているのでしょうか?」
「忌々しい女め」
ハルトマンは毒づいた。
「すべてを打ち明けてしまったらどうですか?」
「……それはできない。彼を不幸にするわけには、いかない」
「ここまで連れてきておいて、ですか?」
「……」
沈黙が落ちる。
ラインツファルトは息を詰めた。
ハルトマンの胸の内に渦巻く矛盾――それが言葉の間に滲んでいる。彼は彼女の態度を知っていた。ラインツファルトの生まれや能力に何かを期待している一方で、その身を案じてもいる。
だが、それが何を意味するのかは、彼にはわからない。
イオはその様子を見て静かにほほ笑んだ。
「<<未練の街>>デンドロビウムはいつでもあなたたちを歓迎します。世界の運命さだめに抗う人間は、多ければ多いほどいいですから」
それだけを言い残し、イオは扉を開けて部屋を出た。
ラインツファルトは廊下の影から、彼女の背を見送る。
彼女に興味はない。興味があるのは、ハルトマンの方だ。
――因縁のある女。彼女は何かを隠している。
そう確信しながら、彼はじっと扉が開くのを待った。
やがて、ゆっくりと扉が開く。
彼女はラインツファルトの姿を認めると、はっと動きを止める。
「聞いていたのか」
「ええ。気づいたときにはもう話は終わってましたが」
ハルトマンの瞳が揺れる。その瞳を見据えながら、ラインツファルトは問いかけた。
「隊長、あなたは何を隠しているんですか?」
ハルトマンは視線を下げた。それだけの動作でも、いつになく弱気に見えた。
ラインツファルトは、正直に言えば期待していなかった。
エリザを殺した女を、信頼するつもりはない。それに、彼女が自分から何かを明かすとは思えなかった。
だが、ハルトマンはその予想を裏切った。
「……レティシアの記憶を、断片的に思い出すことがある」
「……は?」
「その記憶は、私がレティシアだと囁いている」
言葉の意味を理解しようと、頭が急速に回転する。だが、どれだけ思考を巡らせても、納得のいく答えにたどり着けない。
おだやかで優しいレティシアの面影が、峻厳なハルトマンの姿に重なる。だが、同じだとは到底思えなかった。
見た目の違い以上に、決定的なのはその内面。レティシアは、ハルトマンのように峻厳な性格ではまったくなかった。
それを、どうやって同じだと思えというのか――?
沈黙するラインツファルトを前に、ハルトマンは言葉を続ける。
「私たちはハーフエルの河岸で、王になることを誓い合った。お前には幾度となく剣を教わった。消えたグスタフ翁の代わりに。そして、最後はお前とアリオストが戦い、私は自らの血を飲んで果てるつもりだった……」
彼女の声音は、遠い記憶を探るかのように慎重だった。しかし、突如として苦悶の表情を浮かべ、頭を押さえながらその場に崩れ落ちた。
「ッ……!」
「大丈夫ですか? 部屋に戻って休みましょう。肩を貸します」
「いや、構うな。時おりこうなるんだ。この頭痛が……記憶を引き戻すことがある」
そう言いながらも、立ち上がるのは容易ではなかった。結局、ラインツファルトが彼女の肩を支え、二人は部屋に向かった。
道中、ハルトマンは静かに語り始めた。
「私は魔力濃度の濃い自分の血を飲んで、すっかり死ぬものだと思っていた。だが私は死ななかった。一度は気を失ったが、私は魔力の濃い血に適合した。血の適合者だったんだ」
「血に適合すれば、血を飲んでも死なずに済む、ということですか?」
「ああ、だがそれだけじゃない。私には何の変化もなかったが、それに目を付けたアリオストは、私の血を採取して何人かにそれを飲ませた。血を飲んだ者はみんな死ぬか、卒倒した。ラインツファルトに対抗する方法を血眼になって探していたアリオストは、自分自身もその血を口にした」
「……それで?」
「奴は、力を得た。強大な、恐るべき力を」
部屋につくと、ラインツファルトは彼女をベッドに横たえた。
「ハハハ……。ベッドに横になったのは何十年かぶりだ」
「やっぱり、眠らないというのは本当なんですね。今は体を労わってください」
ハルトマンは彼のことをじっと見つめた。
「私の顔に何か?」とラインツファルト。
「いや、何でもない。……そう、アリオストは私の血に含まれていた魔力を取り込むことで、力を手に入れた。もう彼はかつてのように、お前が太刀打ちできる存在ではない。今のアリオストはまさに怪物だ。地の底に巣くう、化け物だ」
その時だった。役場の方角から、鋭い悲鳴が響いた。
「私が見てきます。隊長はここで休んでいてください」
「いや、構わなくていい。もう十分動ける。騒ぎが大きくなる前に向かおう」
気配を殺しながら、慎重に役場の影に回り込む。内部は静まり返り、人の気配はほとんどない。彼らは慎重に足を進め、気づかれないように中へと滑り込んだ。
唯一、明確な気配が漂う部屋の前で二人は立ち止まる。宴会場の扉の横に立ち、腰の剣に手を添えた。
「やはりこの部屋です。私が先に入ります。隊長はその後に」
「ああ」
中へと踏み込むと、剣を抜き構える。その鋭い視線が、室内の者たちを捉えた。
そこにいた二人が、驚いたようにこちらを振り返る。ハロルドとヴェイスが、荒れ果てた部屋の中に立っていた。ヴェイスの手には茶色い猫が抱えられていた。
「お前ら、何をしてるんだ……?」
「猫が入り込んできたんすよ! かわいいっすね~!」
言いながら、彼はニコニコ顔で猫の背をなでた。
「さっきの悲鳴は?」
「この猫がメリッサの服の中に飛び込んだんすよ。メリッサは床でのびてるっす」
ヴェイスが指さした先には、床に伸びきったメリッサの姿があった。彼女は目を回して動かない。
「メリッサが隠し持ってたクリームパンがべちょべちょになってるから、抱き起したくないんだよね」とハロルド。
「仕方ない。俺が魔手で何とかする。お前たちは部屋を片付けておいてくれ。……って、隊長?」
ラインツファルトが見ると、ハルトマンの髪の毛が猫のように逆立っていた。
だが、よくよく見るとそれは髪の毛ではないと分かった。一つ一つが繊細な魔手だ。まるで蜘蛛の巣のように、繊細かつ不気味な魔手の動きを見せていた。
ハルトマンはメリッサに近寄り、一瞬のうちに上衣をひんむいて下着姿にしてしまった。
「とっとと片づけておけ」
「ハレンチな……」
誰かのつぶやきを最後に、伸びたままのメリッサを含めた四人全員が沈黙した。
その間、ラインツファルトはふと窓の外に目をやった。そこには、見覚えのある女の後ろ姿があった。
(イオさん……?)
一瞬の幻影、か。彼は深追いしなかった。




