第9話「グスタフ」
ハロルドが、壁に描かれた花の紋様を指さした。
「あの印、あれはグラジオラス教団のシンボルですよね?」
老人は薄く目を細める。
「元々あったものではない。おそらくやつらが書いたのだろう」
すると、イオが横から口を挟んだ。
「魔の森の呪いにあてられた人は、常人よりも長く生きることが多いんです。もしかすると、この中には王国が成立する以前の、古代グラジオラス帝国の時代を生きた者もいるのかもしれません」
「なるほど。古代史を研究する人間として、話ができるならぜひ聞いてみたいね……」
ハロルドは自嘲気味に言ったが、牢にいる彼らが人語を解せるとは到底思えなかった。
するとそのとき、床の上で何かが蠢いた。丸い胴体から手足が奇妙に生えた、異形の生き物だ。
腐肉の塊かと思われたそれは、だらりと伸びた手を使い、もぞもぞと動いている。
アンデッドのたぐいは、ときに人以上に魔力に反応することがある。ラインツファルトの強力な魔力に引かれていてもおかしくはない。
ラインツファルトはふと、異変に気づいた。
自分たち人間からだけではない。牢の中からも魔力を感じる。
アンデッドとは異なり、牢の中の彼らが魔力を操ることはない――そう、老人は言っていた。だが目の前の蠢いている塊からは、確かに魔力を感じる。
ラインツファルトは、無意識のうちに足を踏み出していた。うめき声と腐臭が充満する牢の中、服が汚れるのも顧みず、彼は一直線にその塊へと歩み寄る。
「ラ、ラインツファルト!」
メリッサの叫びが響いた。
しかし、彼は聞いていなかった。
膝をつき、目の前のもぞもぞ動いているそれをじっと見つめる。無秩序に配置された顔のパーツ――目、鼻、口。だが、その歪んだ造形の中に、確かな特徴があった。
緑色の右目、その真下についた、刃による切り傷。その下の二つのほくろ。
「先生……?」
老人たちも彼の側に寄り、それを覗き込んだ。
「なんじゃ、そいつに見覚えでもあるか?」
老人が尋ねる。
「……ええ。この顔のパーツ、この特徴。間違いありません。かつての私の剣術の師と、同じなんです」
イオが息を呑む。
「そっ、そんなことがわかるんですか……?」
彼女の驚愕をよそに、ラインツファルトは歪んだ顔を凝視した。
「お前は先生、なのか」
「ヴぅぅ……」
するとその塊は突然火を吹いた。ラインツファルトは「あっつ!」と短い悲鳴を上げて塊を床に放り投げた。
「び、びっくりしたっす! 言葉に反応してるんすかね?」
「先生は森に行ったきり帰ってこなかったんだ。このパーツといい魔力の感じといい、間違いない。こんなところにいらっしゃったのですね……」
ラインツファルトの喉が震えた。
「その剣術の師とは、一体誰なんじゃ?」
老人が思わず尋ねる。
「……グスタフ・ガープ、魔剣を所有していた一族の一人で、王国最強の剣士といわれていた人です」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
九十年前、まだ世の中に電灯の影も形もなかったころのこと。
澄み渡る空の下、宮殿の列柱回廊を騎士たちを従えて歩く男がいた。
「騎士だんちょー!」
幼い少女の声が響く。
まだほんの子供であるレティシアが、先頭を行くグスタフ・ベネットを見つけるやいなや、小さな足をばたつかせて駆け寄り、勢いよく抱きついた。
普段は職務に忙殺され、宮殿に姿を見せることの少ないグスタフだったが、レティシアはそんな彼を心から慕っていた――もっとも、剣士としてではなく、気のいいおじさんとして、ではあったが。
「レティシアちゃんはかわいいでちゅね~! うーヨシヨシ!」
グスタフは膝を折り、少女の髪を無造作にぐしゃぐしゃと撫で回す。
「ぎゃはは! きもいー!」
レティシアははしゃぎながら庭園へ駆けていった。
そのやりとりを間近で見ていた青年、ラインツファルトは、思わず苦笑を漏らす。
「いつ見ても、先生が嫌われているんじゃないかと心配になりますよ。お久しぶりです、ベネット近衛騎士団長。半年ぶりでしょうか?」
グスタフは胸を張り、にやりと笑った。
「ああ、久しぶりだな。しかし、お前も随分と口が達者になったじゃないか、ラインツファルト。この私が嫌われるはずがないだろう? 何しろグスタフ・ベネット近衛騎士団長だぞ?」
「だといいんですが」
ラインツファルトはくすくすと笑い、軽く肩をすくめる。
グスタフは腕を組み、じっと彼を見つめた。
「図体はまた大きくなったようだが、剣の方はどうだ? 少しは上達したか?」
「ええ。先生や近衛騎士団、ひいては国王陛下のお役に立てるよう、鍛錬を重ねています。もっとも、魔術ほどの面白みは感じませんが、それでも怠ったことはありませんよ」
その言葉に、グスタフは満足げに頷く。
「なるほど。せっかくだ、その実力のほど、見せてもらおうか」
そう言うと、彼は付き従っていた騎士たちに手を振り、先に行くよう促した。
二人は庭の中央に移動し、向かい合った。
剣を抜き、互いに構える。
グスタフが先に動いた。
一瞬で距離を詰め、上段から鋭い一撃を振り下ろす。
常人の剣士ならば捉えきれぬ速度。しかし――ラインツファルトは寸分違わず剣を合わせ、その攻撃を受け止めた。
金属が鳴る音が回廊に響く。
「魔術が存在する状況において、剣術の優位性は何だったか、覚えているか?」
グスタフは矢継ぎ早に連撃を繰り出しながら問いかける。
「はい。相手に思考の隙を与えない、反射的な攻撃が行えることです!」
ラインツファルトは冷静に応じ、すべての斬撃を受け流してみせる。
この世界において魔術は万能だ。攻撃にも、防御にも、そして日常生活においても幅広く活用できる。しかし――剣術は違う。剣の腕を極めるには、生まれ持った才覚が必要だ。努力だけでは到達できない領域が、そこにはある。
そして今、ラインツファルトはその才を証明していた。
グスタフは満足げに笑みを浮かべ、後方へ跳ぶ。
「悪くない。では、魔術剣の腕も見せてもらおうか」
彼はおもむろに剣を掲げた。
その刃が、熱を帯びる。
魔術剣――剣に付与された魔術の力は、刃を熱や冷気で包み込み、切れ味を鋭くし、質量すらも変化させる。鍛え抜かれた剣士同士の戦いで、魔術を纏った一撃は致命傷となり得る。
グスタフは一切の躊躇もなく剣を振りかざした。
ラインツファルトはその動きを正確に見極め、最小限の動きでかわす。無駄のない防御――まさにグスタフから学んだ技だった。
魔術剣の攻撃は、刃がかすっただけで深い傷を負う。ゆえに、ただ避けるだけでは意味がない。剣を巧みに使い、魔術の効果ごと打ち消しながら防ぐ必要があった。
グスタフは力を込めた重い一撃を叩き込んだが、ラインツファルトはそれすらも見事に受け流す。
そして、反撃に転じる。その剣先は、グスタフをわずかにとらえた、が、手ごたえはなかった。
ふむ――
グスタフはいたって冷静に数歩飛びのくと、剣を静かに鞘へと収めた。ラインツファルトの剣先は、わずかに軍服をかすめただけだった。
「まだまだ青いが、悪くない剣筋だ。やはり、近衛騎士団長の座はお前に継がせるのが適任だな」
「そんな。しばらくは先生がその任を全うしてください。王をお守りする名誉ある職務なのですから」
ラインツファルトは軽い冗談のつもりで受け流そうとした。だが、グスタフの表情は変わらなかった。
グスタフは近くの木陰を指し示し、座るよう促す。
二人は並んで腰を下ろした。
「私がいつまでもその座に居座っていれば、後進の成長を妨げることになる。それに、私にはやらねばならないことがある」
彼の視線は遠く、庭園の片隅を遊び回るレティシアへと向けられていた。少女は無邪気に花を摘み、風に舞うそれを楽しげに追いかけている。
「あとを託したぞ、ラインツファルト。もしもの時が来たら――騎士団のことを頼む。そして、王と、あの子のことも」
ラインツファルトは眉をひそめた。
「神妙な物言いですね。何かあったのですか」
グスタフは静かに息を吐いた。




