ノクス教団の仲間たち。
礼拝堂の空気が、まるで静かに息を吹き込まれたかのようにゆっくりと変わり始めた。
先ほどまでの静寂に包まれていた空間に、目に見えない何かが流れ込み、肌を撫でる空気そのものがわずかに重く、そして心地よい温もりを帯びていく。
祭壇の四隅にそびえ立つ白い石柱も、それに反応するように淡い光を宿し始め、それぞれの頂上に浮かぶ四色の結晶が、まるで生き物の鼓動のように一定の間隔で静かに点滅を繰り返していた。
それぞれの結晶は同じ光ではなく、一つひとつが異なる性質の力を放ち、色が変わるだけではない神秘的な存在感を漂わせている。
赤い結晶から溢れる光は、炎そのもののように揺らめきながら周囲の空気をわずかに熱し、肌に当たるだけで焚き火の前に立った時のような穏やかな温もりを感じさせた。
青い結晶から流れ出る光は、水面に月明かりが映り込んだように透き通っており、見つめているだけで心が静まり返り、頭の中から雑念が少しずつ洗い流されていくような不思議な感覚になる。
緑の結晶は春風のような柔らかい輝きを放っており、その光が礼拝堂の中を流れるたびに草原の香りのような爽やかな空気が漂い、まるで生命そのものが呼吸しているかのような活力を感じさせた。
そして黄色の結晶は四つの中でも一番落ち着いた光を放ち、大地のような力強さと揺るぎない安心感を周囲に広げながら、祭壇全体を静かに支えているようにも見えた。
やがて四つの結晶から伸び始めた細い光の帯は、ゆっくりと祭壇の中央に向かって集まり始め、それぞれ違う色を保ったまま絡み合いながら、一枚の巨大な魔法陣を空中へ描き出していく。
魔法陣は円を幾重にも重ねた複雑な構造をしており、見たこともない古代文字が円周をゆっくりと回転し続け、その中心には星を思わせる六角形の紋様が静かに輝いていた。
光は決して眩しすぎることはなく、目を閉じたくなるような強さでもない。
ただ見つめているだけで心が落ち着き、自然と胸の奥が温かく満たされていくような、不思議な安らぎだけが礼拝堂全体を包み込んでいた。
アステルは思わず息を呑む。
これまで魔法を見ても驚いてきたが、今目の前で起きている現象はそれとはまったく異なっていた。
これは戦うための力ではない。
神そのものが、この世界に確かに存在していることを証明する奇跡だった。
自分が今、本当に神の加護を受ける存在になったのだという実感が、ゆっくりと胸の奥から込み上げてくる。
「綺麗でしょう?」
隣に立っていたノクスが、少し得意そうな笑みを浮かべながらアステルの横顔を見つめていた。
「……ああ。」
思わずそう答えることしかできなかった。
どれだけ言葉を並べても、この光景の美しさは表現しきれない。
ノクスは祭壇へ優しく手を置くと、その表面を指先でゆっくりとなぞりながら説明を始める。
「これは神ごとに違う祭壇なんだよ。」
「神ごとに違うのか?」
「そう。」
ノクスは静かに頷いた。
「祭壇は神様と信者を繋ぐ扉のようなものだから、信仰する神様が違えば形も、流れる神力も、刻まれる魔法陣も全部違うんだ。」
「同じ祭壇は一つもないということか。」
「その通り。」
彼女はどこか嬉しそうに笑う。
「何百柱もの神様がいるんだから、その数だけ祭壇も存在しているってことさ。」
「では、キリスト教団の祭壇も違うのか?」
「もちろん。」
ノクスは肩をすくめて、小さく笑った。
「あちらはこの街で一番大きな教団だからね。祭壇だけなら、私なんかのものとは比べ物にならないくらい立派だよ。」
その言葉には羨ましさというより、自虐にも似た苦笑いが混ざっていた。
「祭壇だけなら、ね。」
最後の一言だけ、どこか皮肉っぽく聞こえた。
アステルはその意味を深く尋ねなかった。きっと、この教団にも色々な事情があるのだろう。
そんなことを考えながら、アステルはゆっくりと祭壇へ右手を伸ばした。
ひんやりとした石に指先が触れた、その瞬間だった。
祭壇全体が小さく震え、淡い紫色の粒子が水面から泡が浮かぶように静かに湧き上がる。
無数の光の粒はアステルの指先へ集まり、そのまま皮膚へ溶け込むように吸い込まれていった。
「これは……。」
思わず驚きの声が漏れる。
温かい。熱いわけではない。
優しく包み込まれるような温もりが腕を伝い、胸の奥へ静かに流れ込んでくる。
その感覚は魔力とはまったく異なっていた。
魔力が自分の内側から湧き上がる力だとしたら、この力は誰かから静かに与えられているような感覚だった。
まるで、姿の見えない誰かが肩にそっと手を添え、「大丈夫だ」と語りかけてくれているかのような不思議な安心感が心の奥深くまで広がっていく。
「それが神力。」
ノクスは穏やかな声でそう言った。
「まだ所属したばかりだから、本当に少ししか感じられないと思う。でも、これから信仰を続けて私との繋がりが深くなれば、その神力はもっと濃く、もっと強く感じられるようになるよ。」
アステルは静かに拳を握る。
指先には確かに、今まで存在しなかった新しい力が宿っていた。
魔力でもない。気でもない。
神だけが与えられる、第三の力。
それが今、自分の中へ確かに流れ始めていることを、アステルははっきりと実感していた。
ノクスは満足そうに頷くと、両手を軽く打ち鳴らした。
パンッ、と乾いた音が静かな礼拝堂いっぱいに響き渡る。
「よし、それじゃあみんなー! 新入りだよー!」
その声が建物の奥へ届いた瞬間だった。
礼拝堂の奥に並ぶ木製の扉が、一つ、また一つと音を立てて開いていく。
「えっ、本当に?」
「ノクス様が勧誘に成功したの?」
「うそだろ、また追い返されたんじゃなくて?」
「久しぶりに新人か!」
「どんな奴なんだ?」
奥の部屋から賑やかな声が次々と聞こえ、何人もの足音がこちらへ近付いてくる。
その人数は九人。
アステルは思わず背筋を伸ばした。
ノクスは楽しそうに笑いながらアステルの肩を軽く叩く。
「紹介するね。この子たちが今のノクス教団のメンバー。そして今日から家族になるアステル!」
最初に前へ出てきたのは、二十歳前後と思われる青年だった。
身長は百八十センチ近くあり、すらりと伸びた体つきは無駄な肉が一切なく、長年剣を振り続けて鍛え上げられたことが一目で分かるほど引き締まっており、その立ち姿だけでも歴戦の冒険者らしい貫禄を漂わせていた。
日の光を受ければ金色に輝くだろう長髪は後ろで一つに束ねられており、前髪だけが無造作に額へ垂れ下がっているせいで少し軽そうな印象を受けるものの、その奥にある青い瞳だけは驚くほど鋭く、獲物を逃さない猛獣のような静かな迫力を宿していた。
黒を基調とした革鎧は決して新品ではなく、至る所に剣傷や魔物の爪痕らしき傷が刻まれているが、丁寧に補修され続けてきたことが分かり、長年相棒として使われてきた装備なのだろうと自然と想像できる。
腰には一本の片手剣だけを下げており、派手な装飾こそないが、柄に巻かれた革は使い込まれて艶が出ており、何度も握られてきた歴史がそのまま刻まれていた。
胸元は少しだけ開けられており、耳には銀色のピアスが二つ光り、片手をズボンのポケットへ突っ込んだまま歩いてくる姿だけを見たら、街の不良青年だと言われても納得してしまいそうだった。
だが、不思議と嫌な威圧感はなく、その場にいる全員が自然体で彼を見ている様子から、この教団では信頼されている人物なのだということが何となく伝わってくる。
青年はアステルの目の前まで歩いてくると、口元に軽い笑みを浮かべながら右手をひらりと上げ、まるで昔からの知り合いに話しかけるような気軽さで口を開いた。
「俺はレオン。二十歳だ。」
初対面とは思えないほど気さくな声色だった。
「職業は剣士で、冒険者ランクはD。この教団じゃ前衛を任されている。」
そう言うと、レオンは肩を軽くすくめながら照れくさそうに笑った。
「まあ、任されていると言っても、この人数だから自然とそうなっただけだけどな。」
冗談交じりに笑うその姿からは、自分を大きく見せようという様子はまったく感じられず、むしろ仲間を安心させるような余裕さえ感じられた。
それでも、笑っている最中も左手だけは無意識に剣の柄へ添えられており、いつ何が起きてもすぐ抜刀できる位置から決して離れない。その何気ない仕草だけで、この男が常に危険と隣り合わせで生きてきた冒険者なのだと理解できた。
「よろしくな、新入り。」
そう言ってアステルの肩を軽く叩く。
力加減は絶妙で、威圧するわけでもなく、馴れ馴れしすぎることもなく、歓迎の気持ちだけが真っ直ぐ伝わってきた。
「アステルです。今日からよろしくお願いします。」
「そんなに固くならなくていいって。」
レオンは笑いながら近くの長椅子へ腰を下ろすと、脚を組みながらアステルを見上げた。
「ノクス教団と聞いて、もっと暗い連中の集まりだと思っていただろ?」
「……正直、少しだけ。」
「ははっ! だよな!」
礼拝堂中に響くくらい大きな笑い声を上げる。
「初めて来た奴は大体そう言うんだよ。『街で一番弱い教団』なんて噂ばっかり広まっているからな。」
その言葉に、アステルは昼間の出来事を思い出した。
大きな教団では門前払いされ、門番に蹴飛ばされ、まともに話すことすらできなかった。
それに比べたら、この教団はずいぶん居心地が良い。
「でもさ。」
レオンは少し真面目な表情になり、視線を窓の外へ向けた。
「弱いと言われるのは、教団の力だけなんだ。」
「え?」
「ここにいる連中はみんな事情があって集まった奴らばかりでさ、他じゃ居場所が無かった奴も多い。」
その言葉には、どこか実感がこもっていた。
「俺も昔は別の教団にいたんだ。」
そう呟くレオンの笑顔が、一瞬だけ曇る。
「でも、ある事件があって追い出された。」
詳しくは語らなかった。
だが、その短い一言だけでも、触れてはいけない過去があることだけは十分に伝わってくる。
「そのとき拾ってくれたのがノクス様だった。」
そう言って祭壇の方を見るレオンの目は、普段の軽い雰囲気とはまったく違って、心から尊敬する人を見るような穏やかな眼差しになっていた。
「だから俺は、この教団が好きなんだ。」
その一言を聞いた瞬間、アステルは少し胸が熱くなった。
ノクスは街で一番弱い神だと言っていた。
それでも、この教団には彼女を慕って集まった仲間がいる。
強さだけでは測れない何かが、ここにはあるのかもしれない。
アステルは改めて礼拝堂を見回した。
古びた建物。決して裕福とは言えない設備。
それでも、この場所だけはどこか温かく感じられた。
――そんなことを考えていると、レオンがニヤリと笑う。
「さて、次はあの子の番だ。」
レオンが親指で示した先では、一人の少女が柱の陰へ半分ほど身を隠しながら、おどおどとこちらの様子を窺っていた。
年齢は十五歳ほどだろうか。
小柄な体つきはアステルより頭一つほど低く、少し猫背気味に肩をすぼめて立っている姿からは、自分に自信があるようにはとても見えない。
艶のある黒髪は左右で高く結ばれたツインテールになっているものの、綺麗に整えられているというよりは急いで結んだような印象で、ところどころ髪が跳ねており、その無造作さがどこか幼さを感じさせていた。
大きな瞳は紫色をしているが、今は落ち着きなく左右へ揺れ動いており、目が合うたびに慌てて逸らしてしまう様子から、人と話すこと自体があまり得意ではないのだろうと自然と分かる。
何より目立つのは、その目の下にくっきりと浮かぶ濃い隈だった。まるで何日も眠っていないように色濃く刻まれており、そのせいで年齢よりも少し疲れて見えてしまうのだった。
服装も少し変わっていた。黒を基調としたローブの上から、色とりどりのお守りや小さなぬいぐるみ、見たこともない骨や水晶のような飾りが何本もの紐でぶら下げられており、歩くたびにカチャカチャと小さな音を立てて揺れている。腰には革製の小さな袋が何個も取り付けられており、中には呪符や薬草でも入っているのだろうか。その格好だけを見たら、魔術師というより祈祷師や占い師のようにも見えた。
少女はアステルと目が合った瞬間、小さく肩を震わせると恐る恐る前へ歩いてくる。
一歩進むたびに靴音が礼拝堂へ静かに響き、その姿はまるで初めて人前へ立つ子どものように緊張していた。
「あ……。」
小さく口を開いたものの、その先の言葉が続かない。
何度か深呼吸を繰り返して自分を落ち着かせるように胸へ手を当てる。
「あ、あの……。」
ようやく顔を上げた少女は、小さな声で自己紹介を始めた。
「わ……私は、ミア……です。」
消えてしまいそうなくらい細い声だった。
「職業は……呪術師……です。」
そこまで言っただけでも精一杯だったらしく、言い終えた瞬間には顔を真っ赤にして俯いてしまう。
礼拝堂に短い沈黙が流れた。
どう返事をすればいいのか迷ったが、アステルはとりあえず笑顔で声を掛けてみる。
「アステルです。今日からよろしく。」
その一言を聞いたミアは、びくりと肩を震わせながら顔を上げた。
そしてアステルを数秒見つめた後、慌てたように顔を背ける。
「べ、別に……仲良くしたいわけじゃ、ないから……。」
言葉とは裏腹に耳まで真っ赤になっている。どう見ても照れているだけだった。
アステルが思わず苦笑すると、横からレオンが吹き出した。
「あー、気にすんな。ミアは昔からこうなんだ。人見知りがひどくて、新しい人と話すだけで毎回こんな感じになる。」
「う、うるさい……。」
ミアは恥ずかしそうにローブの袖で顔を隠した。
「レオンさんには関係ない……。」
「はいはい。」
レオンは慣れた様子で笑っている。どうやらいつものやり取りらしい。
ノクスもその様子を見て肩を震わせながら笑っていた。
「でもね。」
ノクスが少し真面目な顔になる。
「ミアはすごいんだよ。」
「え?」
「この子、この街じゃ数少ない呪術師だから。」
呪術師。初めて聞く職業だった。
「呪術って、どんなことができるんですか?」
そう尋ねると、今まで黙っていたミアが少しだけ顔を上げる。
「呪い……だけじゃ、ない……。」
さっきより少し落ち着いた声だった。
「敵を弱くしたり……眠らせたり……動けなくしたり……。味方を守る結界も……少しなら、張れる……。」
言葉を選びながら、一つ一つ丁寧に説明してくれる。
思っていたよりも便利な能力だ。
アステルが感心していると、レオンが苦笑しながら口を挟む。
「ただな、ミアの呪術は敵だけじゃなく俺たちまで巻き込むことがある。この前なんか、俺まで三時間眠らされた。」
「ち、違うもん……!」
ミアは慌てて反論する。
「あ、あれは……失敗しただけ……。」
「毎回そう言っている気がするけどな。」
「うぅ……。」
また顔が赤くなる。その様子があまりにも微笑ましくて、アステルは思わず笑ってしまった。
するとミアは恥ずかしそうに俯きながらも、小さく笑みを浮かべる。
ほんの一瞬だけだったが、その笑顔は年相応の少女らしくて、とても可愛らしかった。
「……よろしく。」
今度はさっきより少し大きな声だった。
アステルは静かに頷く。
「ああ、こちらこそ。」
その瞬間、ミアは少し安心したように胸を撫で下ろし、小さく微笑みながら仲間たちの列へ戻っていった。
それと入れ替わるように、一人の大男が腕を組みながらゆっくりと前へ歩き出してくる。
礼拝堂の空気が一瞬で張り詰めた。床板がギシッ、ギシッ、と重々しい音を立てる。
ただ歩いているだけなのに、その一歩一歩にはまるで岩が転がってくるような重圧があり、礼拝堂の空気までもが少し張り詰めたような錯覚を覚えた。
身長は二メートル近くあるだろうか。アステルより頭二つ以上も高く、肩幅は普通の男の倍近くあり、その体格だけなら熊やオーガのような大型の魔物と正面から殴り合っても負けないのではないかと思えてしまうほどだった。
黒い袖なしの上着から伸びる両腕は丸太のように太く、日に焼けた皮膚には大小さまざまな傷跡が幾重にも刻まれており、そのどれもが命懸けの戦いを生き抜いてきた証のように見える。
真っ赤な髪は高く逆立てられており、まるで燃え盛る炎のようなリーゼントになっていて、鋭く吊り上がった目付きと太い眉毛が相まって、近寄るだけで子どもが泣き出しそうなほど迫力があった。
顎には無精ひげが少しだけ生えており、鼻筋には古い傷が一本入っている。腰には剣も槍も弓も見当たらない。代わりに両手には鉄製の籠手が装着されており、その拳だけで戦う武闘家なのだと一目で分かった。
アステルは思わず息を呑む。
(……怖い。)
今まで会ってきた誰よりも威圧感がある。さっきキリスト教団で自分を蹴り飛ばした門番ですら、この男の前では普通の人に見えてしまうほどだった。
大男はアステルの目の前まで来ると、腕を組んだまま無言で見下ろしてくる。その視線だけで身体が硬直しそうになる。
何秒経っただろうか。沈黙が礼拝堂を包み込み、誰も口を開こうとはしない。
やがて、大男は低く太い声で口を開いた。
「……ガイルだ。」
短い。あまりにも短かった。
「職業は武闘家。」
それだけ言うと、また黙ってしまう。
アステルは慌てて頭を下げる。
「ア、アステルです! よろしくお願いします!」
返事はない。ただ腕を組んだまま見つめているだけだった。
(やっぱり怖い……。)
どう話しかければいいのか分からない。そんなアステルの様子を見たレオンが、横で苦笑いを浮かべた。
「あー、悪く思わないでやってくれ。ガイルは口数が少ないだけなんだ。」
「え?」
「人付き合いが苦手なんだよ。」
その瞬間だった。
「違ぇ。」
ガイルがぼそりと呟く。
「喋るのが面倒なだけだ。」
レオンは呆れたように肩をすくめた。
「ほら、こういう奴なんだ。」
ノクスも苦笑している。
「でもね、ガイルは面倒見が良いんだよ。」
「……そうなんですか?」
アステルが驚いていると、フィーナが勢いよく前へ飛び出してきた。
「そうだよ! この前だって、私が森で転んで足を捻ったとき、ガイルさんがおぶって帰ってくれたんだから! あと、お腹が空いたと言ったら自分のお肉も半分くれたし! 冬も寒いと言ったら自分の毛布を貸してくれたよ!」
次々と暴露され、ガイルの眉がぴくりと動いた。
「……余計なこと言うな。」
少しだけ照れているようだった。その様子を見て、礼拝堂に笑い声が広がる。
「はははっ! ガイル、顔が赤いぞ!」
「黙れ。」
レオンに笑われたガイルは少し不機嫌そうに睨み返す。だが、本気で怒っているわけではないらしい。仲間たちもそのことを知っているからこそ、誰も怖がってはいなかった。
アステルは少し肩の力を抜く。
(見た目は怖いけれど……本当は優しい人なんだな。)
そう思った瞬間、ガイルが突然アステルの前へ拳を突き出してきた。
思わず身構える。だが、その拳は顔の前で止まった。
「強くなれ。」
短い一言だった。
「この世界は弱ぇ奴から死ぬ。」
その言葉には、脅しではなく実感が込められていた。何人もの仲間を失い、自分だけが生き残ってきた者だからこそ言える重みがある。
アステルは静かに頷いた。
「はい。頑張ります。」
ガイルは何も言わず小さく頷くと、そのまま踵を返して仲間たちの列へ戻っていく。
無口で不器用。だが、誰よりも仲間思い。そんな印象がアステルの中に強く残った。
ガイルが無言のまま仲間たちの列へ戻ると、それと入れ替わるように、一人の女性が静かに前へ歩み出てきた。
さっきまで礼拝堂を包んでいた重苦しい空気が、不思議なくらい自然に和らいでいく。
歩幅は一定で、足音はほとんど聞こえない。まるで長年礼儀作法を叩き込まれてきた貴族のような美しい所作で、一歩一歩ゆっくりと目の前まで歩いて来る姿には、思わず見惚れてしまうほどの品格があった。
年齢は二十五歳前後だろうか。背は百七十センチほどあり、女性としてはかなり高身長で、細身ながらもしなやかに鍛えられた身体つきからは、日々欠かさず鍛錬を積み重ねていることが伝わってくる。
腰まで届く銀色の長髪は一本の乱れもなく整えられており、礼拝堂へ差し込む日の光を受けて柔らかく輝き、その姿はまるで物語に登場する騎士のようだった。
切れ長の青い瞳は穏やかな印象を与えながらも、その奥には決して揺らぐことのない強い意志が宿っており、誰かを守るためなら迷わず命を懸ける覚悟を持った人なのだと一目見ただけで感じ取ることができる。
白を基調とした軽鎧は他の冒険者よりも手入れが行き届いており、胸当てや肩当てには細かな装飾が施されているものの、決して派手ではなく、実戦を第一に考えた実用的な造りになっていた。背中には彼女の身長よりも少し長い銀色の槍が一本背負われており、その穂先は鏡のように磨き上げられ、今までどれほど丁寧に扱われてきたのかがよく分かるのだった。
女性はアステルの目の前まで来ると静かに足を止め、片手を胸へ添えながら美しく一礼した。
「初めまして。」
透き通るような落ち着いた声だった。
「私はセリスと申します。」
丁寧な言葉遣いには気品があり、自然とこちらも背筋が伸びる。
「職業は槍士で、冒険者ランクはEになります。」
そう言って柔らかく微笑む姿には親しみやすさもあり、さっきのガイルとはまったく違う意味で近寄りがたい雰囲気を纏っていた。
アステルも慌てて頭を下げる。
「アステルです。今日からよろしくお願いします。」
「こちらこそ。」
セリスは優しく微笑み返す。
「同じ教団の仲間になった以上、お互い助け合っていきましょう。」
その言葉には飾り気がなく、本心からそう思っていることが伝わってきた。すると横からレオンが笑いながら口を挟む。
「セリスはこの教団のお姉さん役なんだ。料理も洗濯も掃除も全部こなしてくれるし、俺たちが怪我をしたら真っ先に手当てしてくれる。」
「レオン。」
セリスは少し困ったように笑う。
「大袈裟ですよ。」
「いや、本当じゃん。」
フィーナも元気よく頷いた。
「セリスさんのお料理すっごく美味しいんだよ! この前なんて、硬くて食べられなかったオークのお肉を柔らかく料理してくれたし! 野菜嫌いのレオンさんにもちゃんと食べさせているんだから!」
「おい、その話はするな。」
レオンが苦笑いを浮かべる。
「野菜だけは本当に苦手なんだよ。」
「好き嫌いをしていると強くなれませんよ。」
セリスはまるで弟を叱る姉のような優しい口調でそう言った。
「冒険者は健康な身体が資本なのですから、栄養の偏った食事は感心しません。」
「はいはい……。」
レオンは苦笑しながら肩をすくめる。どうやらいつもこんな調子らしい。そのやり取りを見ているだけで、この教団の日常が何となく想像できた。
ノクスも腕を組みながら嬉しそうに頷いている。
「セリスはね、戦いでもすごいんだよ。槍の腕なら、この街でも指折りだから。」
「そんなことはありません。」
セリスは首を横へ振る。
「まだまだ修行不足です。」
「またまた謙遜して。」
レオンが笑う。
「この前だって一人でゴブリン十匹を倒してきたじゃん。」
「あれは運が良かっただけです。」
「運だけで十匹倒せるなら誰も苦労しないよ。」
礼拝堂に笑い声が広がる。セリスは少しだけ頬を赤く染めながら困ったように微笑んでいた。その姿を見て、アステルは自然と安心感を覚える。
(この人がいるなら、この教団はきっと大丈夫だ。)
戦闘だけではなく仲間たちの生活まで支えている、そんな縁の下の力持ちのような存在なのだろう。
セリスは最後にもう一度向き直ると、穏やかな笑みを浮かべた。
「何か困ったことがありましたら、遠慮なく相談してください。戦いのことでも、生活のことでも構いません。」
「ありがとうございます。」
アステルがそう答えると、セリスは満足そうに頷いて静かに仲間たちの列へ戻っていった。
セリスに代わって、一人の青年がこちらに向かって遠慮がちに歩み寄ってきた。
年齢は二十代前半ほどで、柔らかな茶色の髪は少し寝癖が残っており、丸眼鏡の奥にある細い目は今にも閉じてしまいそうなくらい眠たげで、その穏やかな雰囲気だけで「争いとは無縁の人なのだろう」と思わせるような空気をまとっていた。
背はそれほど高くなく体格も細身で、腰には剣ではなく大小さまざまな革袋がいくつも吊り下げられており、中には乾燥した薬草や鉱石の欠片、小瓶に入った色鮮やかな液体などが整然と収められており、一目見ただけでも戦士ではなく研究者なのだと分かる姿だった。
「……あ、どうも。」
青年は小さく会釈すると、大きな欠伸を噛み殺しながら眠そうな声で名乗った。
「僕はエリオです。職業は錬金術師をやっています。」
話し方はゆっくりとしており、一言発するたびに今にも眠ってしまいそうなほど気だるそうだった。
「よろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしく。」
アステルが頭を下げると、エリオは困ったように笑いながら眼鏡の位置を直した。
「新しい仲間が来るなんて、本当に久しぶりですね。僕は基本的に戦うより薬や道具を作る担当なので、前線へ出ることは少ないんです。」
「薬まで作れるんですか?」
「はい。回復薬や解毒薬、それから魔力回復薬なんかも作っています。」
そう言って腰の革袋から青い液体の入った小瓶を一本取り出すと、光へ透かすように持ち上げながら優しく微笑んだ。
「材料集めは大変ですけれど、仲間が怪我をした時に役立つので、結構やりがいはありますよ。」
その穏やかな笑顔を見ていると、この人は戦うことよりも誰かを支えることに喜びを感じる人なのだろうと思えた。
すると横からレオンが苦笑しながら肩をすくめる。
「こいつ、腕は確かなんだけどな。一日中研究室へ籠もって薬ばかり作っているから、寝不足でいつも眠そうなんだ。昨日も徹夜していただろ?」
「……新しい調合を試していたら、気付いたら朝だったんです。」
エリオは照れくさそうに笑いながら頭を掻いた。
「それで朝ご飯を食べたあと少し寝ようと思ったんですけど、その前に新入りが来たって聞いて。挨拶だけはしておこうと思いまして。」
「なるほど。」
本当に優しい人なのだ。
「アステルさん。怪我や病気は無理に隠さないでください。僕にできることなら、できる限り力になりますから。」
その言葉には飾り気はなく、ただ純粋に仲間を助けたいという気持ちだけが込められており、アステルは自然と「ありがとうございます」と頭を下げていた。
エリオが一歩下がると、それまで後ろで落ち着きなく身体を揺らしていた少女が、「次は私!」と言わんばかりに勢いよく飛び出してきた。
年齢は同じ十五、六歳くらいと思われ、その小柄な身体には底知れないほどの活力が詰まっているみたいで、オレンジ色の短い髪は動くたびに元気よく跳ね、大きな琥珀色の瞳は太陽の光を閉じ込めたようにきらきらと輝いており、その表情には人を疑う影など一切見当たらなかった。
背中には彼女の身長とほとんど変わらないほど大きな木製の弓が背負われており、腰には矢筒が下げられていたが、中には羽根の色が違う矢が何種類も収められており、狩猟用や対魔物用など用途ごとに使い分けていることが素人のアステルにも何となく分かった。
「私はフィーナ!」
礼拝堂中に響くほど元気な声で名乗ると、彼女は満面の笑みを浮かべたままアステルの目の前まで駆け寄って、勢いよく右手を差し出してきた。
「職業は弓使い! よろしくね、アステル!」
あまりの勢いに少し驚きながらも、アステルはその手を握り返した。
「ああ、よろしく。」
その瞬間、フィーナは花が咲いたような笑顔を浮かべ、嬉しそうに何度も頷いた。
「えへへ、新しい仲間だ! これから一緒に依頼へ行けるんだよね!」
「そうなると思う。」
「やったー!」
彼女は両手を上げて飛び跳ねながら喜び始め、その姿はまるで無邪気な子犬が新しい遊び相手を見付けたみたいで、見ているこちらまで自然と頬が緩んでしまうのだった。
そんな様子を見ていたレオンが、苦笑しながら肩をすくめた。
「フィーナは教団一の元気娘だからな。朝から晩まで走り回っている。」
「そんなことないよ!」
「昨日も森で鹿を追い掛けて迷子になっていただろ。」
「あれは鹿が速かっただけ!」
「先週は川へ飛び込んで流された。」
「あれは魚がすごく大きかったんだもん!」
「その前は崖から飛び降りた。」
「あれは……近道だと思ったから。」
だんだん声が小さくなっていき、最後には恥ずかしそうに頬を膨らませながらそっぽを向いてしまう。
その姿に礼拝堂中から笑いが起こり、ノクスまで口元を押さえて肩を震わせていた。
「でもね!」
フィーナはすぐに気を取り直すと、今度は胸を張って弓を軽く持ち上げた。
「弓なら誰にも負けないんだから! 森では走りながらでも当てられるし、飛んでいる鳥だって狙えるんだよ!」
その言葉には自慢というより、自分が積み重ねてきた努力への自信が込められていた。
するとセリスが優しく微笑みながら口を開く。
「フィーナは少し落ち着きがないけれど、弓の腕だけは本当に一流なの。索敵も得意だから、森で彼女に助けられたことは一度や二度ではないわ。」
「えへへ……。」
褒められたフィーナは照れくさそうに頭をかきながら笑う。
「だからね、アステル! もし戦いで敵が見えなくても、私が見付けてあげる! 危なくなったらちゃんと助けるから!」
その真っ直ぐな言葉には打算も見返りも一切なく、純粋に仲間を守りたいという気持ちだけが込められており、アステルは思わず笑みを浮かべながら頷いた。
「ありがとう。その時は頼りにするよ。」
「うん! 任せて!」
フィーナは嬉しそうに力強く頷くと、最後にもう一度大きく手を振りながら、元いた場所へ元気よく駆け戻っていった。
礼拝堂に再び静けさが戻ると、最後まで一歩も前へ出ようとしなかった一人の女性が、まるで影が形を持って歩き出したかのような静かな足取りで、ゆっくりアステルの前へ姿を現した。
年齢は二十代前半ほどに見えたが、その整った顔立ちには感情の起伏がほとんど表れず、黒いローブの深いフードが額から頬までを覆っているため表情は半分ほどしか見えないものの、わずかに覗く銀色の長い髪は月明かりのように美しく、フードの奥からこちらを見つめる紫色の瞳だけが、不思議なほど強い存在感を放っていた。
華奢な体格にもかかわらず、その身体の周りには目に見えない圧力のようなものが漂っており、魔法を覚えたばかりのアステルですら、彼女の周りを流れる魔力だけは他の誰とも比べ物にならないほど濃く、静かな湖のように澄んでいながら底知れない深さを持っていることを本能的に感じ取っていたのだった。
彼女は正面まで歩み寄ると、数秒ほど無言で見つめ続け、その視線だけで全身を見透かされているような錯覚に襲われる。
「……アイリ。」
ようやく口を開いたかと思えば、その一言だけだった。
「職業……魔術師。」
短く名乗ると、それ以上は何も続けようとしない。
「あ、よろしく。」
アステルも思わず短く返す。するとアイリは小さく頷くだけで、また沈黙してしまった。
何を話せばいいのか分からず、黙り込んでしまう。その何とも言えない空気を破ったのは、横で見ていたリリィだった。
「相変わらずだねぇ。もう少し長く話してあげなよ。」
「……必要ない。」
返ってきた言葉は、それだけだった。
「ほらね。」
フィーナは苦笑しながら肩をすくめる。
「アイリは人見知りというか、昔から口数が少ないんだよ。でも怒っているわけじゃないから安心して。」
「……。」
アイリは否定も肯定もせず、静かに立ったままだ。だが不思議と冷たい印象は受けず、人付き合いが苦手なだけなのだろうと自然に思えた。
その時だった。アイリの視線が、ゆっくりとアステルの右手へ向けられる。魔法を使った時と同じ右手だ。
「……火。」
「え?」
「あなた。火属性だけ。」
突然そう告げられ、アステルは思わず目を見開いた。
「な、何で分かるんだ?」
「……魔力。」
アイリは短く答える。
「流れを見れば分かる。」
そんなことまで分かるのか。自分自身ですら、まだ火しか使えない理由を深く理解していないというのに。
すると隣で聞いていたノクスが、小さく笑いながら説明を加えた。
「アイリは魔力を見るのが得意なんだ。相手がどんな属性を持っているかとか、魔力の質なんかも見抜けるんだよ。」
「そんなことまで……。」
魔術師という職業は、思っていた以上に奥が深いらしい。
アイリは再びアステルを見つめると、ほんのわずかに目を細めた。
「火属性。珍しくない。でも……。」
そこで初めて、彼女は少しだけ言葉を続けた。
「極めれば……強い。」
その一言には、不思議な説得力があった。
火しか使えないことを欠点だと思い始めていたアステルにとって、その言葉は胸の奥へ静かに染み込んでいく。
「ありがとう。」
素直に礼を言うと、アイリは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたあと、小さく、本当に小さく口元を緩めた。
「……うん。」
それだけ言い残すと、彼女は静かに列へ戻っていく。ほんの一瞬だったが、その表情は氷が少し溶けたように柔らかく見えたのだった。
アイリが静かに列へ戻ると、その隣で壁にもたれ掛かっていた一人の女性が、面白そうな笑みを浮かべながらゆっくり歩き出してきた。
年齢は二十代前半ほどで、肩まで伸びた水色の髪は光を受けるたびに涼しげな輝きを放ち、細く整った目元と妖しく吊り上がった口元が相まって、一目見ただけで「普通の人ではない」と思わせる独特の雰囲気をまとっており、その立ち振る舞いには戦士というよりも、夜の闇を自在に歩く猫のような軽やかさが感じられた。
露出の多い黒い革装備は身体へぴったりと密着しており、動きやすさを最優先に作られていることが分かり、腰には細身の短剣が二本、さらに腕や太腿にも投げナイフが何本も隠されており、本人が少し身体を動かすたびに金属が小さく触れ合う音が静かな礼拝堂へ微かに響いていた。
彼女はアステルの目の前まで来ると、距離感など最初から存在しないかのように顔を近付け、瞳をじっと覗き込みながら悪戯っぽく笑った。
「ふーん。この子が新入りなんだ。」
突然顔が近付いたことで思わず一歩後ろへ下がると、それを見た彼女は楽しそうに吹き出した。
「あははっ、そんなに警戒しなくても食べたりしないよ。」
その笑い方はどこか子どもっぽく、さっきまで感じていた妖しい雰囲気が一気に和らいでいく。
「私はリリィ。」
そう言って片手を差し出しながら、楽しそうにウインクをしてみせる。
「職業は盗賊。よろしくね、新入り君。」
盗賊という言葉を聞いた瞬間、アステルの頭へ「泥棒」という単語が真っ先に浮かび、反射的に少し身構えてしまった。
「盗賊って……本当に盗みをするんですか?」
恐る恐る尋ねると、リリィは一瞬きょとんとしたあと、腹を抱えて大笑いし始めた。
「あはははは! 本気で信じた! レオン、この子面白い!」
横で見ていたレオンも呆れたように笑っている。
「最初はみんな勘違いするんだよ。盗賊というのは職業名であって、犯罪者という意味じゃない。」
「あっ……。」
急に恥ずかしくなり、思わず頭をかいた。
「すみません。」
「気にしなくていいよ。」
リリィは笑いながら手を振る。
「でも、鍵開けとか罠解除とか隠密行動なら得意かな。財布を盗もうと思えば盗めるけれど……やらないから安心して。」
最後の一言で余計に不安になる。そんなアステルの反応を見て、礼拝堂のあちこちから笑い声が上がった。
「リリィは昔から人をからかうのが好きなの。」
セリスが困ったように微笑む。
「初対面の相手には必ず一回は悪戯をする癖があるのよ。」
「だって反応が面白いんだもん。」
本人は悪びれる様子もなく笑っている。だが、その笑顔の奥には不思議と悪意は感じられなかった。
アステルが少し肩の力を抜くと、リリィも柔らかな表情へ変わる。
「でもね。新しい仲間が来るのは、本当に久しぶりなんだ。」
さっきまでとは違う落ち着いた声だった。
「だから結構嬉しい。」
その一言だけは冗談ではなく、本心なのだとすぐに分かった。
ノクス教団は街で最も小さな教団だ。勧誘も上手くいかず、人が増えることもほとんどないのだろう。だからこそ、自分が入団したことをこんなにも喜んでくれている。その事実が少し嬉しかった。
「よろしくお願いします。」
改めて頭を下げる。と、リリィは満足そうに微笑みながら頷いた。
「うん。今度一緒に依頼へ行こうね。面白いこと、いっぱい教えてあげる。」
そう言って軽く手を振ると、彼女は猫のように軽い足取りで仲間たちの列へ戻っていった。
リリィが軽やかな足取りで元の場所へ戻ると、礼拝堂には一瞬だけ穏やかな静けさが流れ、その空気を包み込むように、一人の老人がゆっくり前へ歩み出てきた。
年齢は六十代後半ほどに見え、真っ白な髪と胸元まで伸びた立派な髭は長い年月を感じさせる風格をまとっており、背筋は年齢を感じさせないほど真っ直ぐ伸び、その穏やかな青い瞳には数え切れないほどの経験を積んできた者だけが持つ落ち着きと優しさが宿っていた。
身に着けている白を基調とした法衣は決して豪華ではなかったが、丁寧に手入れされていることが一目で分かり、胸元には小さな十字架を模した銀色の装飾が揺れ、その手には長年使い込まれた木製の杖が静かに握られていた。
老人はアステルの前まで歩いて来ると、柔らかな笑みを浮かべながらゆっくり頭を下げる。
「ようこそ、若者よ。わしはグラムという。」
その落ち着いた声には不思議な安心感があり、聞いているだけで心の緊張が少しずつ解けていくような感覚があった。
「職業は聖職者じゃ。」
「未熟者ですが、よろしくお願いします。」
頭を下げるアステルに、グラムは優しく目を細めながら小さく頷いた。
「そんなに固くならんでもよい。この教団には礼儀よりも、仲間を思いやる心の方が大切じゃからの。」
その一言だけで、この老人がどれほど人望のある人物なのか何となく理解できた。するとノクスが腕を組みながら笑う。
「グラムは教団のお父さんみたいな存在なんだ。料理も洗濯も掃除も、気付いたら全部やってくれている。」
「神様、それではわしが暇人みたいではありませんか。」
グラムは困ったように苦笑する。
「いや、事実じゃん。」
ノクスが笑いながら返すと、礼拝堂には自然と笑い声が広がった。レオンも肩をすくめながら笑う。
「俺が怪我をした時も、一晩中看病してくれたしな。セリスなんて熱を出した時、三日くらい付きっきりだったろ。」
「皆が無事なら、それで十分じゃよ。」
グラムは照れくさそうに髭を撫でるだけで、自分のことを誇る様子はまったく見せなかった。その姿を見ていると、この人は誰かのために動くことが当たり前になっている人なのだと自然に思えてくる。
グラムはゆっくりアステルへ向き直ると、優しい眼差しで見つめながら静かに口を開いた。
「アステル君。君は今日、この世界で新しい人生を歩み始めた。これから嬉しいこともあれば、苦しいことや悲しいことも数え切れぬほど経験するじゃろう。時には仲間を失い、自分の無力さに涙する日も来るかもしれん。それでも一人で抱え込んではいかん。」
老人はそう言うと、アステルの肩へそっと手を置いた。
「この教団には仲間がおる。困った時は遠慮なく頼りなさい。助けを求めることは、決して弱さではない。仲間を信じることもまた、一つの強さなんじゃ。」
その言葉は静かだった。だが、どんな励ましの言葉よりも重く、温かく胸へ響いてくる。
アステルは自然と背筋を伸ばし、小さく頷いた。
「……はい。よろしくお願いします。」
グラムは満足そうに微笑み、大きく一度だけ頷いた。
「うむ。こちらこそ、よろしく頼むぞ。」
そう言って列へ戻っていく老人の背中を見送りながら、アステルはようやく全員との顔合わせが終わったことを実感した。
最後の一人まで紹介が終わると、礼拝堂には一瞬だけ静かな空気が流れた。
アステルは改めて全員の顔を見渡す。
チャラそうで面倒見の良さそうなレオン。
気弱で人見知りだが、どこか放っておけないミア。
一見すると怖いけれど、不器用なだけにも見えるガイル。
落ち着いた雰囲気で教団を支えていそうなセリス。
研究者気質で、少し眠たげなエリオ。
何を考えているのか読めなくて、それでも不思議な色気を漂わせるリリィ。
いつも笑顔で礼拝堂の空気まで明るくしてしまうフィーナ。
必要最低限しか話さず、静かに周囲を見守るアイリ。
そして、誰よりも穏やかな笑みを浮かべながら教団全体を包み込むような優しさを持つグラム。
誰一人として似た者はいなかった。性格も、職業も、年齢も、話し方もまったく違っていて、まとまりがあるようには到底見えない集団だった。
それでも、不思議と居心地の悪さは感じなかった。むしろ、それぞれが自由に振る舞っているからこそ、無理をしていない空気が礼拝堂全体に流れているように思えたのだった。
「どう?」
ノクスが腕を組みながら、少し不安そうな表情で覗き込んでくる。
「変な奴らばかりでしょう?」
その言葉に、教団員たちが一斉に反応した。
「誰が変だよ!」
レオンが真っ先に抗議の声を上げる。
「ノクス様、それは酷いです……。」
エリオも困ったように苦笑した。
「私は普通。」
アイリだけは短くそう答え、また静かに壁へ寄り掛かった。
「えぇー! フィーナも変なのー?」
フィーナは頬を膨らませながらノクスへ詰め寄る。
「十分変。」
「ひどーい!」
礼拝堂に笑い声が広がっていき、さっきまで静かだった空間が一気に賑やかになっていく。その様子を見ていたアステルの口元からも、自然と笑みがこぼれていた。
今日まで、この世界では誰一人知り合いなどいなかった。宿屋の主人や受付嬢には助けられたものの、それはあくまで客と店員という関係でしかない。
だが、今は違う。目の前にいる人たちは、同じ教団の仲間として自分を迎え入れてくれている。まだ出会ったばかりなのに、不思議と孤独は感じなかった。
「ねぇ、アステル。」
ノクスが少し照れくさそうに笑う。
「こんな小さな教団けれどさ、私はみんなのこと、自慢の家族だと思っている。」
その言葉を聞いた瞬間、それまで騒いでいた教団員たちが少しだけ照れたように視線を逸らした。
「急にそういうこと言うなよ……。」
レオンが頭を掻きながら苦笑する。
「ノクス様は、たまに恥ずかしいことを平気で言いますからね。」
セリスも柔らかく笑った。
「うるさいなぁ。」
ノクスは少しだけ頬を膨らませながら、照れ隠しをするように腕を組む。
「でも、本当のことだから。」
その言葉には、不思議なくらい真っ直ぐな気持ちが込められていた。
豪華な神殿もなければ、有名な冒険者もいない。信者は少なく、街では最弱の教団と呼ばれている。
それでも、この場所には笑顔があり、仲間がいて、温かな空気が流れていた。
アステルは改めて礼拝堂を見渡し、小さく息を吐く。
もしかしたら、この教団を選んだのは間違いではなかったのかもしれない。そんな予感が、胸の奥で静かに芽生え始めていた。
教団員たちとの挨拶を終えたあと、アステルは礼拝堂の中を一人で歩いていた。
祭壇から差し込む夕陽が色鮮やかなステンドグラスを透かし、赤や青、黄金色の光が床一面へ静かに広がっており、その幻想的な景色を眺めているだけでも心が不思議と落ち着いていく。
何気なく礼拝堂の奥へ視線を向けると、教団員たちが現れた扉が少し開いていることに気付き、その先には薄暗い通路がどこまでも続いているように見えた。
「気になる?」
突然背後から声が聞こえ、思わず肩を震わせながら振り返ると、いつの間に現れたのかノクスが悪戯っぽい笑みを浮かべながら立っていた。
「驚かせないでくれ。」
「ごめんごめん。」
ノクスは笑いながら肩をすくめると、そのままアステルを手招きして奥の通路へ歩き始め、その背中を追うようにゆっくりと礼拝堂のさらに奥へ足を踏み入れていく。
礼拝堂の外から見た建物は決して大きくなかったはずなのに、扉を一枚抜けただけで景色はまるで別世界へ変わり、長く続く石造りの回廊の天井には淡く青白い結晶が一定間隔で埋め込まれており、松明もないのに柔らかな光が辺りを優しく照らしていた。
「……光っている。」
「魔晶石だよ。」
ノクスは天井を見上げながら穏やかに微笑む。
「魔力を少し流すだけで百年くらい光り続ける便利な石なんだけど、今じゃ加工できる職人もほとんど残っていないんだ。」
壁へ手を添えると、石には複雑な紋様が幾重にも刻まれており、それらは青白い光を帯びながら静かに脈動していて、まるで建物そのものが生き物のように呼吸しているような錯覚さえ覚えた。
「これ全部……魔法陣なのか?」
「うん。」
ノクスは懐かしそうに壁を撫でながら静かに頷く。
「この建物全体が一つの巨大な神殿なんだよ。」
「巨大な神殿……。」
「礼拝堂は入口に過ぎない。」
その言葉に思わず息を呑む。
確かに歩いても歩いても建物は終わらず、外から見えた大きさとは明らかに一致していなかった。
「空間拡張……。」
ゲームや小説でしか聞いたことのない言葉が頭をよぎる。
「昔の大神官たちが何十年もかけて作った魔法だからね。」
ノクスは少し誇らしそうに笑う。
「今じゃ私にも再現できない。」
やがて長い通路を抜けた先で景色が一気に開け、まるで一つの小さな村のような空間が目の前へ広がった。
二階建ての木造宿舎の窓からは暖かな灯りが漏れ、木製の共同食堂からは香ばしい匂いが漂い、その隣には木剣を振るための広い鍛錬場が設けられており、さらに奥には色とりどりの薬草が育つ温室や、無数の魔法陣が床へ描かれた実験室、小さいながらも数千冊はありそうな蔵書を収めた図書室まで並んでいた。
そして広場の中央には、星の欠片を閉じ込めたような巨大な水晶が静かに浮かんでおり、その内部では無数の光がゆっくり流れ続けていたのだった。
「あれは……。」
「あれが教団の『神核』。」
ノクスの声色が少しだけ変わる。
「あの神核がある限り、この教団は完全には滅びない。」
透明な水晶は生きているようにゆっくり脈打ち、その鼓動に合わせるように建物全体の魔法陣までも淡く輝き始め、アステルは知らず知らずのうちに目を奪われていた。
「綺麗……だな。」
「でしょう?」
ノクスは子どものように嬉しそうに笑ったが、その笑顔は次の瞬間には少し寂しげなものへ変わる。
「昔は、この広場いっぱいに信者が集まってね。毎日お祭りみたいだった。」
「……昔?」
「五百年くらい前かな。」
ノクスは神核を見つめたまま、小さく呟く。
「当時は一万人以上の信者がいて、世界中から巡礼者が訪れる大教団だったんだ。」
思わず言葉を失う。今の静かな教団からは、とても想像できない光景だった。
壁際には歴代教皇や英雄たちの肖像画が静かに並んでおり、その中には『SSランク冒険者』『聖賢者』『大魔導師』といった肩書きを持つ者たちまで描かれている。どの肖像画も圧倒的な存在感を放っており、今にも額縁から歩き出してきそうなほどの迫力があった。
「この教団にも……こんな時代があったのか。」
アステルが思わず呟いた、その時だった。
「ご飯できたよー!」
食堂の方からフィーナの元気いっぱいな声が響き渡り、静寂に包まれていた空間は一瞬でいつもの賑やかな空気へと戻っていく。
ノクスは肩をすくめながら小さく笑った。
「昔を眺めるのはまた今度にしよう。今日は新しい家族が増えた日なんだから。」
そう言って背中を軽く押すと、温かな灯りが漏れる食堂へ向かって歩き始めた。
夕食の時間になると、教団の仲間たちは自然と食堂へ集まり始め、長年使い込まれた大きな木製のテーブルはあっという間に賑やかな笑い声と話し声で満たされていった。
食卓の中央には香ばしく焼き上げられた魔鳥の肉が豪快に盛られ、その横には薬草をたっぷり煮込んだ湯気立つスープが置かれ、焼きたての黒パンや森で採れた木の実、色鮮やかな野菜の漬物まで並べられており、決して豪華ではないものの、一つ一つに手間が掛けられていることが見ただけで伝わってくる温かな料理ばかりだった。
「今日は新入り歓迎だからね!」
そう言いながらノクスは上機嫌で大皿を運び、普段より少しだけ豪華な献立なのだと嬉しそうに胸を張る。
「へぇ、今日は肉が二枚もあるじゃねぇか。」
レオンは嬉しそうに笑いながら席へ腰を下ろし、早く食べたそうにナイフとフォークを手に取った。
「レオンさん、まだ始まっていませんよ。」
眼鏡を押し上げたエリオが苦笑すると、レオンは「分かっている分かっている」と笑いながらも、肉を見つめる視線だけは一瞬たりとも逸らさなかった。
「お腹すいたぁ!」
フィーナは椅子へ飛び乗るように座ると、パンを見つめながら尻尾でも振りそうな勢いで目を輝かせている。
「子どもか、お前は。」
ガイルが呆れたように鼻を鳴らす。
「えへへ。」
フィーナは悪びれる様子もなく笑い返した。
ミアは自分専用らしい黒猫の絵が描かれた小さなカップを大事そうに抱えながら静かに席へ着き、アイリはいつものように無言で席へ腰を下ろすと、食前の祈りを捧げるように静かに目を閉じていた。
リリィは椅子へ深くもたれ掛かりながら足を組み、「今日は誰のお皿から盗み食いしようかなぁ」と冗談を言うと、セリスがすかさず「やめなさい」と額を軽く小突き、その様子に食堂中から笑いが起こる。
最後にグラムがゆっくり席へ着き、優しく周囲を見渡して頷いた。
「全員揃ったようじゃな。」
ノクスは嬉しそうに全員を見回すと、アステルの隣へ腰を下ろして小さく笑った。
「こうして全員で食べるの、好きなんだ。」
その言葉には飾り気がなく、本心からそう思っていることが伝わってきた。
「それじゃあ――。」
ノクスが手を合わせる。
「「いただきます!」」
十人の声が重なり、食堂は一気に賑やかになった。アステルも少し遅れて両手を合わせる。
「……いただきます。」
焼きたての黒パンを口へ運ぶと、外は香ばしく、中は驚くほど柔らかく、小麦の甘みが口いっぱいに広がっていく。続いて薬草のスープを飲めば優しい香りと野菜の旨味が体の芯まで染み渡り、魔鳥の肉は程よい歯応えと肉汁に溢れ、今まで食べた鶏肉とも豚肉とも違う独特の美味しさがあった。
「どう?」
ノクスが少し不安そうに尋ねる。
「うまい。」
素直にそう答えると、ノクスは子どものように嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「よかった。」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が少し温かくなる。
前世では仕事から帰るたび、一人きりの部屋でコンビニ弁当を温め、テレビをぼんやり眺めながら無言で食事を済ませる毎日だった。誰かと他愛もない話をしながら笑い合い、同じ食卓を囲むことなど、いつからなくなってしまったのかさえ思い出せない。
異世界へ来てまだ一日も経っていない。それなのに、この場所にはどこか「帰る場所」のような温もりがあった。
アステルは自然と笑みを浮かべながら、もう一口スープを飲んだ。
その時だった。
ドォォォォォォンッ!!
腹の底まで響くような轟音が、夜の静寂を引き裂いた。
食堂の窓ガラスがビリビリと震え、天井から細かな砂埃がぱらぱらと降り注ぎ、大きな木製テーブルの皿やコップまでもが音を立てて揺れ始める。
「っ!」
アステルは思わず立ち上がった。
さっきまで笑い声で満ちていた食堂から、一瞬で音が消える。
レオンは椅子を蹴るように立ち上がると腰の剣へ手を掛け、ガイルは無言で拳を握り締め、セリスも槍を取りに行こうと扉へ視線を向ける。フィーナの笑顔も消え、ミアは震える手で胸元のお守りを強く握り締めていた。
アイリだけは静かに窓の外を見つめ、その赤い瞳がわずかに細められる。
ノクスもさっきまでの穏やかな表情を完全に消し去り、静かに立ち上がって窓の外へ目を向けた。
「……西の聖壇付近。」
低く呟く声には、普段の気だるさは一切ない。
「また教団同士の戦争が始まったみたいだね。」
その一言だけで、食堂の空気は張り詰めたものへと変わった。
アステルはまだ知らない。
この世界では、神を信じるということは、同時にその神のために剣を取り、命を懸けて戦うことを意味するのだという現実を。




