81.人間フィリス
この世界には人々を襲う魔物がおり、そうして女神がいた。
女神は魔物と戦うための聖なる術を人に与え、教え導き、いつしか人々に感謝され崇め祀られる存在になったのだという。人は自身を魔物の脅威から救った女神に会いたがり、祈り、それを聞き届けた彼女は肉の器をもってこの世界に降り立った。
そうして女神は『悠久の神殿』に祀られ、そこで今も地上から人々の姿を見守り続けたのだという。
「…………ふざけるな」
物心がつき、俺たちの祖先が女神に一体どんな惨い仕打ちをして来たのかを知った時、俺はどうしようもないまでの怒りと失望を覚えた。
女神の心の内にはただ、可哀想な人間達を救うための『利他』があったはず。なのにどうして、俺や騎士達の祖先は自分のことしか考えられなかったのか。弱きを切り捨て、与えられる以上に奪い、恩を仇で返す。本能のままに生きる獣よりも性質が悪い、畜生以下の卑怯者共。そんな穢れた血が己の中に流れていると考えただけで、背筋が怖気だつようだった。
この世界は成り立ちから間違ってる。俺も、周りも皆おかしいんだ。
そう絶望に飲まれそうになる中、唯一ケダモノの血を引かぬ自身の母、そうして自身と同じ血を持ちながらも清らかで優しい妹フィオナのことをは信じられた。母が王宮の人間達の悪意に晒され殺された後。俺は半ば取り憑かれたよう多くの魔物達を殺し、いつしか人間から讃えられる『勇者』となった。辛うじて精神の均衡を保てたのはフィオナの存在と、彼女が信じるか弱き民達のことを俺もまだ信じることが出来ていたからだ。
その信頼は、あの日の出来事をもって粉々に打ち砕かれた。
俺が妹を託そうとしたこの世界は、人間達はどこまでも腐り切っていたのだ。
俺は選択を誤った。もう次は間違えられない。男神アストゥラルにやり直しの機会を与えられた時、俺の頭には早い段階から国だけでなく『人間』そのものを滅ぼす選択肢が存在し続けていた。
そうして俺が知性を与えた犬亜人コボルト達……ロクスらと出会い、彼らの眩いまでの善性に触れた時。俺はただひどく安堵したのだ。
ああ、今回の選択はきっと間違ってなどいない。
こんなにも優しかった魔物達を、自らの憂さ晴らしで殺し続けた俺は初めから間違った存在で、やはり彼らこそが知性を持つべき正しい存在なのだと。
彼らコボルト達になら、今度こそ大切な妹の後を託せる。彼らが築く幸福な世界に、胸を張って送り出してやれる。
そうしてロクス達やナフィアらも……比較的善良な人間らを利用して、様々なことを教え込んだのだ。俺が居なくても彼らはきっと幸せになれる。どうかそうであって欲しいという祈りと共に、俺は聖ラミシス王国の都、俺たち人類が犯した罪の証たるあの神殿の前で、再び己が命を投げ打った。
俺はハーピー達に頼んだ爆弾でとうに死んでいる筈だ。となるとここはきっと、生前には存在を知るよしすら無かった、死後の世界となるのだろう。
「ほほ、我らがノースフィールの群雄らに対し働いた蛮行の数々……今その命で償ってもらおうぞ、フィリス・トエル・ラミシス」
首からおびただしい血を流しつつも、生前浮かべていた笑みをもって、こちらに強い視線を向ける我が親愛なる叔父上。オルフィス・トエル。その周りには、コボルトらと親交の深かったパウロルや幾人もの領主らの姿があった。
以前会ったのはセシリア……次いでドルガノだったか。
何もない白の空間。そこでこちらに杖を構える彼らに対し、俺は自らの腰に差した剣を引き抜き構える。
「ああ、また会えて嬉しいよ。善良なる我が叔父上、そうして善良なる人間達よ。俺を殺してお前達の気が晴れるというなら、喜んでこの身を差し出そう。だが……無抵抗の人間を嬲り殺すほど、汝らノースフィールの雄は落ちぶれてなど居ないはず。故にこちらも抵抗させて貰おう。何、お互い一度は死んだ者同士。手加減は無しで行こうか」
「めちゃくちゃ物騒な夢見てるなぁ、君」
精神領域アスティリアスから戻って一言、私はそう独りごち広間の壁に背を預ける。
ノーラントの城に連れ帰られた後、フィリスは彼女の妹がそうであったよう、城の広間にその身を安置されていた。
食事や身の回りの世話をする時以外、彼は薬や魔術で眠らされている。最近フィオナが覚えた『眠りの歌』の魔術も、だんだん効き目が増してきているようだ。かけられたのは四時間も前の筈なのに、未だ目覚める様子がない。
『知』の神たる私の権能は、生物が精神領域に接続する為の門を開閉することだ。今、人間に対して門が閉ざされた後も、彼らの精神は領域内にて存在し、長い眠りに就く。そうしてそこに留まる精神達は時折、こうした夢のようなものを見ることもあるのだ。
「フィオナや魔物達は今、人間のまま君の知性を戻す方法を探している。そんな方法などありはしないのにね。神の力は大いなる事にしか使えない。知性を戻したいなら、君がフィオナにしたよう『個』そのものを世界のルールに合わせる方が余程現実的だ。まあマティリアスに生贄を捧げて神頼みする手もあるけど……『善』たる彼らがその犠牲を許容する筈もあるまい。故に私は必要最低限の、実現可能な知識のみを選別して、彼らに提供しているのさ」
フィリスは、こちらが語りかけても最早返事をすることはない。金茶の長いまつ毛を伏せ、穏やかな寝息を立てて眠る彼を前に、口を開く。
「……君にらしくない義理立てをするつもりだったけど、やっぱり少し寂しいな。早く目覚めて、私と一緒に怒られてくれよ。フィリス。君がなすりつけた『男神アストゥラル』の悪行のせいで、今なお私は肩身が狭いんだ。本当に理不尽だと思わないか? 確かに君の願いを聞き入れたのは私だが、同時に私もまた君にそそのかされ悪役に仕立てられた可哀想な被害者の一人に過ぎない。君は一刻も早くこの事態の責任を取るべきだ。本当に分かっているのか?」
悪戯に、彼の頭を指でつつく。起きる素振りすらない。私は一人ため息を吐いて、窓の外から見える青い空を眺めた。
魔物を率い、祖国を滅ぼした人の王子。堕ちた勇者。人類を、そうして最後には自身について来た純真な魔物達をも裏切り、彼らに約束せし頭上の冠を投げ捨てた卑劣な王。
彼は最後まで愚かな『人間』だった。でも私の妹エーティエルが世界から受けた理不尽に対し、本気で怒ってくれたのはフィリス、君だけだったんだ。
神は、人の祈りを聞き入れる。だから血塗られた復讐の果て、最後に残った君の『優しさ』が紡いだ世界を私は見守ろう。古き人間と女神が去り、そうして新たな神と新たな霊長により生まれ変わるであろうこの世界を……。




