トランザクション_③
袖に仕込んだ物の柄を握りしめる。
あのとき能見祐理の死体を凝視する目に浮かんでいた感情は、あまりにも複雑だった。
強い殺意を横から奪われた者の、真っ黒な焦燥感。
殺意をぶつける先を失った虚無感。
『私が殺すはずだったのに』。
そう思っていることは、顔を見れば充分わかった。
一方で、目の前の光景の凄惨さに怖気付いたことも。
自分が抱いた殺意に、強い罪悪感と嫌悪感を覚えてしまったことも。
全て感じ取れた。わかっていた。
わかっているから、言わせないようにしてきたのだ。
「そんな顔しないでよ。深月が自立できて良かったじゃない」
「……あんまりうるさいと」
「殺されるんだよね。わかったよ」
一切気にしていない様子で肩をすくめた芹谷が、今度は俺の目をじっと見つめる。どこか嘲るような笑みが、ただでさえざわついている神経を逆撫でた。
「それで、朝賀さんはどうして深月と同じ行動を取ったのかな。犯人が僕であることはわかりきっていたはずじゃない」
「…知りたいのか」
「話したくないなら、僕が勝手に喋ってもいいけど」
どこまで揶揄うつもりだ。
左足を軽く踏まれ、見せたこともないような顔のまま隣を見る。同じ表情の碧波としばし見つめ合い、ほどなくして正面に向き直った。
「怖い顔してるね。二人ともそっくり」
返事はしない。黙ったまま見据えていると、宣言通りに一人で喋り出す。
「主な理由は二つ。一つは、深月が能見を殺さずに済んだお礼だ。
それからもう一つ、最も重要な理由があるね?
朝賀さんは、深月の『僕が犯人である』こと、つまり『能見祐理の殺害を邪魔された』事実を認めたくない、という意思を尊重した。
自殺ならマシだもんね。誰も悪くないことにできるんだから」
どくどくとこめかみが脈を打つ。併せて視界が揺れるほどに。
先程までの焦燥感は消え去り、今あるのは重い殺意のみ。初めて抱く感情にも関わらず、激しく湧き上がっては収まることを知らない。
「二人の取った立場が面白くてさ、色々調べさせて貰っちゃったよ。
朝賀さんは結局解雇だったけど、深月が退職予定なのを知って、自分も退職の準備をしてたらしいね。
絶対に深月に単独行動をさせないのは、少なからず僕を警戒しているから。
事務所と居住スペースを分けて、且つ事務所も二足制なのは、土足で自分たちの場所に上がられたくない排他的感情からだ」
胃の底が焼け付くように熱くなる。全身に熱が巡る。
ぶちぶちと音を立てて、可能な限り緩く張ってきたいくつもの糸が千切れていく。
「深月は実家と上手くいってないんだね。一応友達には警察官や小説家がいるみたいだけど、『近しい人物』に該当するのは朝賀さんくらいしか見つからなかった。深月には朝賀さんしかいないんだよね。朝賀さんも、それをよくわかってるんだよね。
探偵業は二人にぴったりだった。誰にも介入されない、二人だけの自営業だから」
周囲の音が、消えた気がした。
すっと視界が冴えわたる。
自分の表情が失せるのを感じながら、壁に掛けられた時計に目をやった。
「ごめん碧波。もういいかな」
「いいよ。稼いだ方でしょ」
同様に静かな声が返ってくる。冷えきった指先で柄を手繰り寄せ、握りしめた。
芹谷は、やはり楽しげに言葉を継ぐ。
「朝賀さんは、深月のことが本当に─」
「お喋りはもう満足だろ。邪魔するぞ」
ドアが開け放されると同時に、龍馬の声が響く。左手をゆっくりと袖から出し、ソファーに凭れ掛かった。
「…遅い」
「ぴったり三十分後だぞ。碧波ちゃんの注文通りだ」
向かいのソファーに歩み寄った龍馬が、ドアの外に手招きをした。状況を飲み込めていなさそうな小園くんが現れ、その反対側に立つ。
「お、お邪魔します」
事態がわからないのは芹谷も同じことで、龍馬と俺たちを見比べると、口角を上げただけの顔を傾けた。
「どういうことかな?」
「私たちが、目的も無しに芹谷の相手なんかしないってことだ」
碧波が菓子の乗った大皿を持ち上げる。トレイの上にはスマホが置かれていた。通話画面には『龍馬くん』の文字。イヤホンを外した龍馬が俺に目をやる。
「大紫の判断だろ。お手柄だよ」
「……あらかた、予想通りだったか」
「当然だ。…待ってて悪かったな」
小園くんに連れられ、芹谷が事務所をあとにする。表情は見えなかった。見る必要がなくなったからだ。碧波と目を合わせ、それから龍馬を見上げる。龍馬はひとつ息をつくと、苦々しい笑みを浮かべた。
「強制解除、だな」
「本人が来たなら、こうするしかないよね。でも好機ではあったよ」
「好機…か。俺に権限があって、お前たちが探偵だから解決できた」
「正確には、俺たちが『探偵として動いたから』だ。あのまま追い返したって良かったし、…その気になれば、何をするにも選べたんだ。
でも、探偵である以上は事件を解決しなきゃいけない。……その過程がどんなものだろうが」
「…そうだな」
車のドアを閉める音が聞こえる。当然ながら、今日は龍馬の車じゃないらしい。
「で、俺たちのことはしょっぴかなくていいのか」
「馬鹿言え。いっぱしの会社員の推理なんか、当時の捜査班が相手にしたと思うか」
自嘲気味に吐き捨てると、龍馬は眉を下げて碧波を見下ろした。
「まぁ、何にせよ…良かったな」
「良かったかな?」
「あとはお前たちの心持ちだろ。……また連絡する」
ドアが閉まると同時に、室内は静寂に包まれた。




