溺れる水精たち_③
車に乗るや否や、私のスマホが鳴り出す。運転席の大紫兄がシートベルトを着けながら苦笑した。
「短気だな」
『大紫。富澤の自宅はわかるな』
「もしもしくらい言えよ。そんなに緊急事態?富澤が海にでも落とされた?」
「なんで海?」
「富澤が描くのは海の絵だから。さっき調べた」
そうなんだ。
「それなら家じゃなくて海に行った方がいいんじゃない?」
「確かに。そうしよっか」
『ええい、聞けッ。富澤は今や容疑者の一人だ。水無月千斗の死因がわかったからな』
車が屋敷の駐車場を出る。この状況での『死因がわかった』とは、すなわち他殺であることが確定したということ。空気の冷え込んだ車内に少し緊張が走った。一旦落ち着くべく常備してあるボトルを開け、チョコレートを一粒口に放り込む。俺にもちょーだい、と大紫兄が出した手のひらにも一粒。うんまいうんまい…あ、電話忘れてた。
「なんのはなひらっけ、龍馬」
『死因だ』
「わかっはんら。なんらっはの?」
『お前ら、なんか食いながら喋ってるだろ…まぁいいか。水無月千斗は溺死だ』
「溺死ぃ?」
運転席の大紫兄が素っ頓狂な声を上げ、解せない顔を傾ける。
「いや、先の画家の殺され方からして何となく想像してたけど…室内で溺死ねぇ」
『死亡推定時刻は今日の午前一時。後頭部に腫れがあったそうだ。思いっきりぶん殴られてから溺れさせられたらしいな。しかも、だ』
「まだ何かあるの?」
『顔全体に微量の水彩絵の具が付着していたらしい。色は緑。迷彩フェイスペイントでもしたのか』
絵の具?
思わず隣を見ると、大紫兄が慎重に口を開いた。
「敷地のすぐ前に、大きい水溜まりがあっただろ」
『あったな』
「中の雨水に、絵の具が混ざってた」
『…色は?』
「薄緑」
しばし沈黙が流れる。龍馬くんは、というより全員、頭におかしな説が浮かんでいるのは言うまでもない。
『…水無月千斗が、水溜まりで溺れたとでも言うのか。思いついといて否定しちゃなんだが、水無月は四十代の大人だぞ』
「ありえない話じゃないぞ。鼻と口が浸かれば充分溺れるリスクはある。足首までの水でも危険ってよく言うだろ」
「水無月が溺れた水と水溜まりの水はおそらく同じ。殴られて手をつけずに水溜まりへ倒れれば顔が浸かるし、可能性はある」
否定する要素もないので、一応賛同しておく。補足すべき問題は…
『問題は、なぜその水に絵の具が含まれていたのか。わざわざ水溜まりで絵の具を溶く奴なんていないだろう』
「検出された絵の具がわざと水溜まりで溶かれたんじゃなくて、はじめから水無月の顔に付着していたものだったとしたらどう?
『湧き水』の絵を描き終えた水無月の顔に絵の具が付いていた。犯人が来客として来たか、外から物音を立てたとかで水無月は外に出る。後頭部を殴られ倒れた先が水溜まりで、溺れた水無月の顔から絵の具が溶け出した。犯人は死体をアトリエに戻し、あの現場が出来上がった。
きのうだって雨の止み間はあったし、転んでついた水気ならすぐに乾く。だから水無月の死体は濡れていなかった─自然でしょ」
「自然だね」
ハンドルを切りつつ大紫兄が頷く。電話口の龍馬くんは、まだ少し引っ掛かるらしい。
『死体をアトリエに置いた理由は?』
「夜中の道路は真っ暗。死体を地面に転がしておいたら、通った車に轢かれるかも知れないでしょ。それだと駄目なんだよ」
『事故に偽装できますけど…何が駄目なんですか?』
「事故死じゃ駄目なんだ。水無月千斗は『他殺』で『溺死』じゃないといけない。他の画家たちと同じように。これは画家たちの作風になぞらえた連続殺人なんだから」
黙って頷く大紫兄。珍しく重そうな口を開き、掠れた声で呟いた。
「あとはその犯人が誰なのか。早く解かないと…新しい被害者が出るかも知れない」




