第1回 転生、法務部へようこそ
死ぬ直前まで、私は判子を探していた。
会議室の白い蛍光灯。机の上に積み上がる拒絶理由通知。相手方代理人のしたり顔。こちらの依頼人は青ざめ、私はネクタイを緩める暇もなく、鞄の底をまさぐっていた。最後の押印が必要だったのだ。紙一枚で人の商売は死ぬ。逆に、紙一枚で救えることもある。
だが、その日の私は救えなかった。
そして次に目を開けたとき、見知らぬ天井にはシャンデリアではなく、逆さ吊りのコウモリがぶら下がっていた。
「起きた? ねえ、起きたなら返事して。死体が増えると、書類がさらに増えるのだけど」
声のしたほうを向くと、黒いドレスの少女がいた。角がある。翼もある。つまり魔族だ。しかも、いかにも高そうな玉座の横に立っている。
私は上体を起こした。頭痛はない。代わりに、胸の内側に妙な確信があった。ここが異世界で、自分が転生したのだと、なぜかすんなり理解できる程度には。
「質問を許していただけますか」
「どうぞ」
「ここは」
「魔王城」
「あなたは」
「魔王リリス」
「私は」
「廊下で倒れていた不審者」
「なるほど」
状況は最悪だが、会話のテンポは悪くない。
私は立ち上がろうとして、そこで自分の服装に気づいた。スーツではない。黒い法衣のようなローブだ。胸元には見覚えのない紋章。そして腰には剣の代わりに、木製の印章ケースが下がっている。
「その反応……記憶はあるのね?」
「あります。前世の職業も」
「なんだったの?」
「弁理士です」
「べんり……?」
リリスが眉を寄せた。説明しようと口を開いた瞬間、彼女は小さく息を呑んだ。
「ちょっと待って。もしかして、商標とか特許とか、あの辺?」
「はい」
「採用」
即決だった。
「早いですね」
「だって今うち、法務部が壊滅してるもの」
「壊滅」
「壊滅」
案内された法務部は、本当に壊滅していた。
扉を開けた瞬間、紙の雪崩が起きた。羊皮紙、契約書、嘆願書、訴状らしき巻物、なぜか干からびたイカ。棚は傾き、六法全書らしき分厚い本には埃が指で書けるほど積もっている。隅では小鬼が判子を積み木にして遊んでいた。
「戻しなさいそれは兵器よ!」と私は叫んだ。
「えっ、兵器?」
「場合によっては剣より強い」
小鬼は泣きながら判子を返した。
机の向こうから、ぬるりと大柄な魔族が現れた。牛のような角に、眠そうな目。名札には「法務部先輩職員 ゴルムン」とある。
「新入りぃ? 悪いけど、うち忙しいから、引き継ぎは三呼吸でやるぞ」
「短すぎませんか」
「大丈夫だ。まずこの世界では『勇者』は登録商標だ」
「は?」
私は固まった。
ゴルムンは得意げに胸を張った。胸毛に紙片が挟まっている。
「公認勇者ギルドが独占しててな。無断で勇者を名乗ると差止請求、損害賠償、最悪、装備没収だ」
「普通名称では?」
「ふつう……?」
「一般名詞化していない?」
「いっぱん……?」
「……会話の先行きが不安です」
しかし、その瞬間、世界の輪郭が一気に見えた。
勇者が商標。名乗ることに許諾が必要。ならば名称使用、ライセンス、品質保証、信用維持、侵害警告、無効審判――前世の知識が、そのまま通用する。
私は机上の埃まみれの法典を開いた。文字が読める。条文の構造も理解できる。しかも、腰の印章ケースに触れた瞬間、指先に微かな熱が走った。
「これは……」
「証明印よ」とリリスが言った。「正式な文書に押すと、魔力的な真正推定がかかるの。偽造防止付き」
「最高ですね」
「そこ、喜ぶところなの?」
「ええ。私の前世では、そこに人生を懸ける人種がいました」
リリスは少し引いた顔をしたあと、ふっと疲れた笑みを見せた。
「……よかった。本当によかった。もう、訴状が怖くて眠れない日が続いてたの」
「そんなにですか」
「だって勇者が来るたび壊すんだもの。門、罠、宝箱、時々壁。しかも『魔王討伐は公益活動だから』って顔で」
「公益でも不法行為は不法行為です」
「その言葉、今すぐ額装したい」
彼女の机の引き出しが半開きで、中に分厚い封筒が見えた。訴状らしい。しかしリリスは慌てて閉めた。触れるな、という顔だったので私は触れない。怖い書類に関しては、誰にでもまだ開けたくない箱がある。
「採用面接の続きを」と私は言った。
「まだ面接だったの?」
「法務は形式が大事です」
「じゃあ聞くけど、あなた剣は使える?」
「使えません」
「魔法は?」
「不得意です」
「じゃあ何で戦うの?」
「法律で」
部屋が静まり返った。
小鬼が積み木を落とし、ゴルムンが「うわ」と呟き、リリスだけが目を丸くして、それから、今にも泣きそうなくらい安堵した顔になった。
「……採用。正式採用」
「ありがとうございます」
「給料は出すわ。残業代は……善処する」
「現実的で好感が持てます」
そのとき、廊下の向こうで爆発音がした。
続いて、部下の悲鳴。
「また来たあああ! 公認勇者です! 第三ダンジョンの宝箱が割られましたああ!」
私は走った。走りながらゴルムンに尋ねる。
「侵入記録は?」
「ない!」
「被害目録は?」
「ない!」
「警備映像は?」
「ない!」
「よく今まで生き残れましたねこの組織!」
第三ダンジョン前では、金髪の青年が剣を肩に担いでいた。白銀の鎧、胸にスポンサーの紋章、やたら輝くマント。足元には砕けた宝箱。周囲の魔物たちは壁際に避難している。
「よし、討伐完了っと」
「完了していません」
私が言うと、青年は振り向いた。
「誰?」
「魔王軍法務部です」
「……は?」
「当該施設は私有ダンジョンです。無断侵入、器物損壊、営業妨害の疑いがあります。直ちに現場から退出してください」
「いや、勇者なんだけど」
「登録番号を」
「は?」
「勇者商標の使用許諾番号です」
「剣で来ないの?」
来ない。私は袖から羊皮紙を抜き、近くの台座でさらさらと書き始めた。
「何してるの?」
「内容証明郵便の草稿です」
「早くない?」
「現行犯ですので」
青年は困惑し、付き添いの僧侶らしき女性は「内容……何?」と小声で復唱していた。私は淡々と書く。
件名、侵害行為に関する警告。
貴殿は本日、当城第三ダンジョン内に無断で侵入し、宝箱一基を破壊した――。
「ちょ、待って待って。普通さ、こう、名乗り合って、剣を構えて、BGMとか流れてからじゃない?」
「流れません。代わりに請求が流れます」
「なんなの君」
「新人です」
「新人でそれ!?」
後ろでリリスが半歩下がりつつ、でもちょっとだけ胸を張っていた。ゴルムンは「法務こわ……」と呟いている。正しい反応だ。
私は紙を一枚ちぎって勇者に差し出した。
「口頭でも警告します。次回以降、許諾なく『勇者』としての営業活動および討伐配信、関連グッズ販売、スポンサー露出を継続した場合、損害賠償請求その他法的措置を講じます」
「営業活動?」
「その胸のロゴは飾りですか」
「いや宣伝だけど」
「なら商行為です」
「うわ、急に嫌な言い方!」
勇者は剣を構えかけて、やめた。こちらが本気で剣を抜く気配をまったく見せないからだろう。代わりに彼は紙を受け取り、ひっくり返し、また表に戻した。
「読めない」
「では後日、正式送達します」
「送達って何」
「嫌な予感がする単語です」
それだけは伝わったらしい。青年は一歩下がった。
私は砕けた宝箱の破片を拾い、蝶番の欠片、木材の断面、散乱した鍵穴部品を見て、頭の中で数字を組み立てる。復元費用、遺失利益、ダンジョン回遊導線の損失、ブランド毀損――戦える。十分に。
静かな火が胸の奥で灯った。
前世で一度だけ、どうしても救えなかった案件がある。そのときの胃の重さを、私は今でも忘れていない。だが、ここでは違う。条文がある。証拠がある。理不尽はあるが、殴り返す道具もある。
「これは戦える」
思わず漏れた言葉に、リリスがこちらを見る。
「勝てる?」
「はい。少なくとも、黙って壊されるだけの時代は終わります」
「……そう」
彼女は小さく頷いた。その顔は、魔王というより、ずっと長く眠れなかった職場の責任者の顔だった。
その夜、法務部では総出で証拠保全が始まった。小鬼に破片を袋詰めさせ、ゴルムンに被害報告書を書かせると、「氏名欄って本名いる?」と聞かれたので「そのレベルからですか」と返した。リリスは机の山を片づけながら、何度もこちらを見た。信じていいのか、まだ測っている目だ。
私は気にしない。信頼は書面より重く、判決より遅い。
だが、積み上がった紙の匂いの中で、私はひどく落ち着いていた。
剣も魔法もない。
その代わり、私は知っている。言葉には所有者がいること。けれど、所有の仕方には限度があること。そして権利は、振り回すためでなく、線を引くためにあることを。
翌朝。
魔王城の正門に、兵士が青い顔で駆け込んできた。
「た、大変です! 分厚い封筒が……!」
差し出された封筒は、嫌になるほど上質な紙でできていた。表には金文字でこうある。
勇者株式会社 法務部
件名 損害賠償請求及び業務妨害の申し立て
私は受け取り、重さを手のひらで測った。
いいだろう。
ようやく、仕事が始まる。




