第92話 英雄と呼ばれた日
商会への帰り道。
街の空気は、一週間前とはまるで違っていた。
人々の表情には生気が戻り、商店には活気が溢れている。
すれ違う人々がセラフィナに気づいて頭を下げる。
その顔には、以前のような不安や怒りではなく、感謝の色があった。
「……アラタ」
隣を歩くセラフィナが、ふと足を止めた。
「今回のことで、あなたの評価は大きく変わるでしょうね」
「“嫌われ者”として、ですか?」
「いいえ。“英雄”として、よ」
彼女は微笑んだ。
「最初は誤解もあったけれど、結果がすべてを証明したわ。
“止める勇気”を持った帳簿の参謀。……その二つ名は、きっとあなたを助ける武器になるわ」
「英雄なんて柄じゃないですよ」
僕は首を振った。
英雄なのは、現場で手を動かしたハインたちであり、命懸けで方針転換を受け入れた冒険者たちだ。
僕はただ、交通整理をしたに過ぎない。
でも――。
「……一つだけ、分かったことがあります」
僕は自分の手を見つめた。ペンしか持てない、細い指。
「数字は、お金を守るためだけのものじゃなかった。
どこが詰まっているか。どこが苦しんでいるか。
……“命の流れ”を守る道具にもなるんだって、今回初めて分かりました」
セラフィナは、そんな僕を眩しそうに見つめて頷いた。
「うん。
そんな“数字の見方”ができる人が、今のこの街には必要だったの。
私は――あなたがいてくれて、本当に心強いわ」
彼女の手が、そっと僕の手に触れた。
その体温が、冬の寒さの中でじんわりと胸に染みた。
* * *
冒険者ギルドに顔を出すと、そこはいつもの喧騒に包まれていた。
薬草採取の制限はまだ続いているが、冒険者たちは納得して別の依頼を受けている。
「あ! アラタさん!」
カウンターの奥から、元気な声が飛んできた。
ミーナだ。まだ少し顔色は白いが、いつもの服を着て働いている。
「ミーナさん! もういいの?」
「はい! アッシュ・キュアのおかげで、すっかり熱も下がりました。
じっとしてると体がなまっちゃうので、今日から復帰です!」
くるり、と回ってみせる。
その笑顔を見て、心の底から安堵した。
「本当に……よかった」
「ふふ、心配かけちゃいましたね。
でも、アラタさんが頑張ってくれたって聞きましたよ。生産を立て直したって」
ミーナは身を乗り出し、小声で言った。
「ありがとう、アラタさん。
アラタさんがいなかったら、私……どうなってたか分かりません」
「……みんなのおかげだよ」
照れ隠しに目を逸らすと、奥でロアンが「仕事中に油売ってんじゃねえ」と憎まれ口を叩いた。
それから、思い出したように顎で僕を指す。
「……そうだ。バルグから伝言だ。薬のおかげで姪はもうすっかり元気だってよ。お前に礼を言っといてくれ、とさ」
張り詰めていた空気がほどけ、あちこちで小さな笑いが漏れた。
日常が、戻ってきていた。
* * *
ギルドを出て、空を見上げる。
鉛色の雲が少しずつ切れ、薄い青空が覗いていた。
けれど遠くには、まだ灰色が残っている。
パンデミックは収束に向かっている。
でも、あの廃棄された半製品の責任を誰が負うのか――その問いは、まだ消えていない。
「……さて、行こうか」
白い息を吐き、商会への道を歩き出した。
手の中の帳簿の重みを、今は少しだけ心地よく感じながら。




