第一章 World.22 クライス、虫声に閃く
その日の朝、俺たちはレドルアたちが起きるのをただ待っていた。その間、物音が鳴ったと思えば、ハルカが布団から転げ落ちた音だったり、鼠が這いつくばって餌を索む音であったり。
いい加減もう朝日が登って、三時間程度は経過しているだろう。少し早いが、これは悪魔の鉄槌を逃れるため。
つまり、──割ってしまったおっちゃんの皿を直すため──レドルアを叩き起こすのである。
「レドルア、起きて早く」
レンナのキリキリとした声がレドルアの部屋で残響となる。本来ここは、行商人などレンナ経営の宿屋を訪れる人向けの客室なので、遮音性は優れているはずだが、言ってもただの木に過ぎない。
「あんまり大きな声出すと、他の人起きちゃうだろ」
「そうだった。というかあなたこそ、ちゃんとしりとりで話してよね。『ろ』とか言ってこないで。めんどくさいし。今レドルアが起きたら、なんか虫声で意思疎通が取れている変な人たちみたいになるじゃない」
「いや、忘れてた。ごめんよ」
しりとりになると、やはり途端に感情が外に出にくくなる。どうしても頭の中でシステム化されてしまって、しりとりを続ける方に脳が偏って働いてしまう。早くこんな世界抜け出したいものだ。
あれ、でもそういえば、レドルアって⋯⋯。
基本的にこの世界の住人は、母語が“しりとりコミュニケーション“なので、どれだけ言い間違えたとしても、少なくとも言語としては成立するようになるはずである。言語以外のものは、そもそも言語とかいう範疇の外にあるものなので、脳の思考回路にすら登場しないのではないか。非常に気になるぞ。これがもし本当だとしたら⋯⋯。
「レンナ、ちょっと話がある。レドルアを起こすのは後にしてくれ」
「レドルアの前では、しりとりでって言ったでしょう。なんでよ、早くしないとムスカル爺起きちゃうじゃない」
「いいから来てくれ。そんなに時間を取るような話をするつもりはない」
せっかくレドルアを呼びに客室のある2階へ上がったが、結局キッチンに戻ってきた。ここならドアがあるので、声も漏れにくくて安心だ。
「この前な、レドルアが“しりとりに詰まっていた“んだ」
詰まっていたのは、黒猫と遭遇した時である。
「そんなの普通にあることじゃない。何かあったの?」
「確かに俺らにとっちゃ普通だろうな。
最初は緊張感から、舌が強張って動かないのかと思っていたけれど、よく考えると、おかしい。この世界では、痛いとか、そういう直感的または、強制的にそう言わざるを得ない言葉、また擬音などはしりとりの対象外だ。そこには言語とならないものも含まれるはずである。「ぎょええー!」とかいう時だって、言語としては明らかに成立してはいないが、強制的にそう言わざるを得ない言葉なので、対象外になるはずだろ。
要するに、言語として成り立っていなければ、おそらくしりとりの対象外だ。だから虫声にはならない。
でもこの世界の住人にとっては、言葉を話そうとしているのに、わざわざ"しりとりの言語体系"から外れることはあるだろうか。しりとりの外の言語体系の存在は知らないはず。
なんだか言葉のトリックみたいになってしまったが、やはり、しりとりに詰まるということは、しりとりにつまらない言語の存在を知っていなければ筋が通らないと思うんだ」
「なんだか小難しいし、やたら長い話ね。つまり何が言いたいのよ」
──「レドルアには、虫声が聞こえていないかも知れない、つまり、もと居た世界の言葉が通じるかもしれないということだ」──
「もしそれが本当だとしたら、ものすごく話しやすくなるわね。いいわ。そこまで言うなら信じてみようじゃない。一旦しりとり無視して話してみようか。少しくらいだったら、怪しまれないだろうし」
そもそもなぜ虫声が怪しまれるのかと思っていたが、改めて考えてみれば、虫声を話している存在は、はなから変な存在なのだろう。それなら、ハルカにこの世界に来た当日、失礼だとか言っていたのにもある程度納得がいく。
そして一番不思議なのは、“しりとりコミュニケーション“だけで構成されている世界に、虫声という概念があること自体に、誰もなんの疑念も抱いていないということである。
文明レベルは申し訳ないが、かなり劣っているのだろうな。
俺の言っていることは俺ですら何言っているかわからなかったが、表面上の理解に留まりつつも、自由に話したいという少々の疑問と欲求に満ちた態度のレンナは、もう一度レドルアの部屋に行くのだった。皿を直すのはもはや第二目標である。
「レドルア、起きなさい!」
レンナは狂気に満ちた母のような顔で、だらしの無い様子の弟を起こす。
「あ⋯⋯、あ、いや」
ここは多分寝ぼけて変な発声をしているだけだろう。大事なのはここからだ。
レドルアは寝てる間に二重になった瞼を擦って、なんとか視界を開ける。
「いやはや、お姉さんおはようございます。早いですね」
「遅いわよ。一体いつまで寝てるつもり?」
「⋯⋯虫声ですか?」
この余白は、虫声の本当の正体を知っていての返答なのか、本当に虫声が聞こえているのか、判断しかねる。
「レンナ、よくわからないので、しばらくしりとりを無視した状態で話してくれないか。もしレドルアが理解できるなら、流石に話に乗るだろう。理解できなければ、虫声で遊んでたとでも言っておけばいい」
レンナは少し戸惑う。当たり前の反応だ。わざわざ怪しまれるようなことやってのけたくは、無いだろうな。
「わかったわ。というか今のこの会話で、終わっているんじゃないかしら」
レンナは緩やかに人差し指をレドルアに向けて伸ばす。見てみれば、掛け布団をがさっと捲って上半身を硬直したように起こして、口を馬鹿みたいに開けたレドルアがいるではないか。やっと確信に変わった。
「姉さん。虫声が理解できるんですか?私初めて、しりとり無視して喋ってますよ」
「私も今日の朝、クライスと初めて自由に話せるようになったのよ」
「よかった。ちなみにレドルアは、なんで虫声が理解できるか考えたことはある?」
「いや、以前に聖都で虫声を話している人がいましたが、何が起きているのかわからなくなって、その場を離れてしまったんです。それからもしばらく考えていたことはありますが、明確な答えは⋯⋯」
「そうだよな。俺もさっき気づいたんだよ。答えはな──『異世界から転移してきたこと』──だ」
レドルアはそのことを知らなかったのだろうか。衝撃の真実にベットから落ちてしまった。レンナが言葉を詰まらせるが、ゆっくり話し始めた。
「ごめんね。ずっと黙ってて──」
その内容は、レドルアたちが“しりとりコミュニケーション“で構成されたイカれた世界に来たのは、レンナたち兄弟とその妹が生まれてしばらくしてからであり、年齢的にもレドルアは、母語が身についているかどうか曖昧な時期だった。この世界に来て、しりとりを守らないといけないという労力が、レンナに重くのしかかったので、レドルアにはそうはさせたくなかったそうだ。
だからレンナは、レドルアが成長していく間、ずっとしりとりを守り続けてきたのだという。ただ実際は、レドルアは前の世界で母語を獲得しており、意味のない行為だったのだという。
「レドルアは賢かったからね。もう普通の言葉の意味を、理解していたんだね。辛かっただろうに」
「いや、そうでもないですよ。慣れたら楽なものでしたよ」
「レドルアは強いわね。私なんかクライスと話せるとわかった時、本当は泣きそうだったのよ。なんかクライスが寝言で、世界がなんだ、前の世界がなんだとか言い出すから、もしかしてと思ってしりとりを無視してみれば、本当にその通りだったのよ」
あの時泣きそうだったのか、随分と自信たっぷりにしりとりを無視していたような気がするがな。
「私はこの世界を抜けて、もと居た世界に戻りたい。その夢をクライスは叶えてくれる手伝いをしてくれるそうなの。レドルアも乗らないかしら」
「もちろんですよ。しりとりはやっぱり面倒ですからね」
理由が安っぽくて残念だが、まあいいだろう。
「この世界をなんとかして抜けないとな!」
「「オー!!」」
これまた安っぽいキッズ向けアニメの戦闘前のシーンみたいになってしまった。
「そうだ。それはいいのよ。とにかく早く皿を直してほしいの。精霊術でなんとかならない?」
レンナは、いつもの情緒不安定を、当たり前のように発揮した。全くびっくりである。あんなに感動的な話だったはずなのに、よくも雰囲気をぶち壊してくれる。
今日は雰囲気にとことん流される日みたいだ。
「精霊術だと多分無理ですね。皿は無理です。動物とか植物なら治せますけど」
「やっぱりどうしようもないよ、レンナ。諦めて怒られろ」
「魔法教えてたのクライスでしょ。あなたも怒られなさい」
「落としたのはただのレンナの不注意じゃねぇか」
レンナは肩を落として、トボトボと歩き始める。
「工房に突っ込むしかなさそうね」
いやいや、嘘だろ。今日前夜祭だから休日なんだよな。アポなし訪問をかました上に、皿を売れってのは強引すぎるだろう。
「正気なのか、レンナ」
「大丈夫ですよ、クライス。姉さんはこの村のアイドル。きっとみんな入れてくれます」
それは横暴な発想があるかよ。




