第三十話 ~その夜~ ★
「情けなかったんだ」
「……あたしの姿が?」
「そんなわけないよ」
笑い混じりに、ジルは返答する。ジャンヌの言葉が、本心なのか冗談なのかはわからない。だけど、有りえないことだから、軽口のように流したのだ。
「ジャンヌがあんなことをさせられるまで……何も知らず、何もできなかった自分が、さ」
「でも、それは……」
「違うんだよ。エドワードが、何か企んでいるのは薄々感づいてたんだ。けれど、僕はそれを気にするほどでもないと、頭の隅に追いやっていた。そんな甘い考えが……」
「ジルに責任はないわよ。あの変態野郎が全部悪いの!」
「……そうだね。あの人がやったことに発端はすべてある。でも、僕はいつだってジャンヌの下へ行けたはずなんだ。もうちょっと早く行けたはずなんだ。僅かに生まれた気の緩みで、アグニ様と談話してしまっていた。その小さな油断が、許せないんだ」
ジルの声はいつの間にか掠れていた。目元に手を当てて、ひたすらに自分を責めている。
あの時、少し足を速めていれば。石に躓きそうにならなければ。兵士の説明を聞き流していれば。熱さなんかに物怖じせずに進んでいれば。アグニのお茶を断っていれば。
何か一つ改善するだけで、変わっていはず。
けれど、どれも出来なかった。簡単な行為なのに。難しいことなんて、一個もないはずなのに。
「……ごめん、ジャンヌ。本当に、ごめん。君を守ってあげられなくて……」
「なんであんたが謝るのよ……おかしいわよ、こんなの」
ジャンヌも、つられて涙目になっていた。
目の前で苦悩している大事な人が、自分のせいで自責の念により押しつぶされそうになっているのが、もどかしくて申し訳なくて。
「……そうだね。そうだ。本当に辛いのは……僕じゃなくて、何よりも君自身だった」
「えっ……?」
「怖かったよね。嫌だったよね。でも、もう大丈夫だから……安心して」
ジルは涙を振り払うと、ジャンヌを包み込むように抱きしめていた。
その体温が、あんまりにも心地よくて。心が嬉しくて。彼の匂いが、鼻腔いっぱいに広がると途端にジャンヌの眼にも、止まらない感情があふれ出てきた。
「そうよ。死ぬかと思うほど嫌だったのよ、ホントに……。誰も助けてくれない、なんもできない状況で……あんな……あんな……」
「うん……ごめん……」
「謝っても仕方ないじゃないの! 大体、あんたが悪いなんて、さっきから一言もいってないでしょ!」
「……ジャンヌ……」
「遅いのよ、来るのが! あの後何されてたか、考えるだけで泣きそうになるんだからね!」
「……もう泣いてるじゃないか」
「うるさい! でもね、助けてくれたのは本当にうれしいの! ジルがいてくれて、本当によかったの! あんたじゃないと、絶対ダメなのよ、あたしは! こればっかりは、ライルでもダメなの!!」
「……うん」
「うん、じゃないわよ! ホントにわかってんの!? ばかばかばかああああああ!! 怖かったよぉおおおおお!!! うわぁあああああああん!!!」
「……」
ジルは黙って、ジャンヌを強く抱きしめた。
芯の強い勇敢な女性だと、昔から見ていたので、とっくに知っている。
でも、そんな彼女がここまで取り乱すほど泣き叫ぶのは初めて見た。
ジャンヌは、恐怖や悲しみを受けた場合、まず先に失神したかのように思考が停止する。どういう場合であっても、その間に頭の整理を行って、負の感情を押し込めてゆっくりと消化していくのだ。だから、涙は流しても陰でひっそりと、で済むのである。
今、彼女はその限界を一瞬にして超えてしまった。
消化も出来ない、ただ溜まって溜まって引っかかった気持ちが、遂に解放されてしまった。
記憶は消えないけど、ずっと残る事件だけど。少しでも和らげられるのなら、そうしたい。ジルの胸で、思い切り理不尽に喚き散らすことが、最上の慰めになるのだ。
子どものように泣くジャンヌと同様に、ジルも静かに涙を流していた。
無力な自分と、それでも信頼してくれている彼女の心が、どうしようもないほどに嬉しくて。
――――
どれぐらい、そうしていたかはわからない。
ジャンヌのしゃっくりが止まって、タオルでぐしゃぐしゃの顔を拭うのを止めてからも、二人はそうしていた。
(ジルの心臓の音が聞こえる……)
ドクン、ドクンと定期的に、血管の収縮する音が鳴っている。子守唄のような穏やかさがやけに心地よくて、ジャンヌは寝てしまいそうにすらなってしまう。
「眠たくなってきた?」
「……! 別に、大丈夫よ」
身体を離して、ジルは顔を覗きこんできた。真っ赤になった目を見られたくなくて、ついつい顔をそらす。
同時に、気持ちの良い接触が中断されてしまい、強烈な物足りなさを覚えてしまった。
「……」
「どうしたの?」
モジモジと、顔を赤らめてそっぽを向くジャンヌは、素直に言葉が出なかった。
もっと、ぎゅうっと抱きしめて欲しいとか。心臓の音が聞こえるぐらい、強く包んで欲しいとか。
ふと、ジャンヌは考える。
どうして、それが恥ずかしいのか。
自分とジルは、小さい頃から共にいる旧知の仲だ。身分は違うけれど、本当に長い時間一緒に居た。
どうしてかはわからない。最初に接触を図ったのは、単なる出来心で。その後に、おどおどしているジルが、どうしても見ていられなくて。世話をするうちに、隣に居てくれないと寂しいと思えるほどの存在になった。
大人になっても、変わらない。
もう、思い続けて十年以上は経った。
彼がもし、呪いによって亡くなれば、自分も一緒に死んでしまいたいと思える。ライルが戦死したのも、狂いそうなほど悲しかったけど、その比ではないと確信している。
それほどまでに、ジャンヌはジルに心を寄せているのだ。
でも、抱きしめて欲しいとは気軽に言えない。
だって、そんなことをするのは幼馴染ではなく、恋仲の人に願うこと。
交際を認め合った関係ではないから、言うのが恥ずかしいのだ。
けど。
けれど。
ジャンヌは更に考える。
そんな間柄になったら……言ってもいいんだよね。
今まで、なんで言わなかったんだろう。
ジルに、意中の女性が既にいるとかは、わからない。放っておけば、勝手に女の方から寄りついてくる器量持ちだ。居ないとは言い切れない。長く付き添っていても、知らないことや隠し事ぐらいありうることだ。
また、もしかしたら未だに身分の違いを気にしているのかもしれない。
聡明だけど、変なところは頑固で奥手だから……理由にして逃げる可能性だってある。
不安要素があるから、踏み出せなかったのだろうか。
ううん、違う。
単に、自分が臆病だっただけ。
ジルは優しくて、実直な人間だ。ちゃんと言えば、しっかりと考えた上で真摯な返事をしてくれる。
困らせたくないとか、いろいろと考え過ぎているせいで、次々と襲ってくる現実に押し流されて、言いそびれてしまっただけ。
そうだ。
簡単なことなんだ。
言ってみよう。伝えてみよう。自分の気持ちを。
次はいつになるかわからないんだ。
だから、ちゃんと。今、ここで。
「……ジル、あのね」
「ジャンヌ」
「ん?」
「好きだよ」
真っ直ぐな灰色の瞳から、逃げられなかった。
なにを言われたのか、認識するまで時間がどうしても必要だった。悩んで、葛藤して、決意した思いが、何もかも全部すっ飛んでしまった。
「……え?」
「僕は、ジャンヌのことが好きだ」
聞き返しても、ジルの口が紡いだ言葉は同じだった。いや、先ほどよりもはっきりと、今度は名指しで誤解のないように、真っ直ぐな思いを伝えている。
「な……え? え?」
「き、急でごめん。でも、今言わないと……もう一生言えない気がして」
「そ……そんなことじゃなくて!」
「……なに?」
ジルは恥ずかしげに手の甲を口元に当てて視線をそらした。耳まで真っ赤なのが目に見えてわかる。
そんな状況を観察しているジャンヌだって、実は髪の毛の先まで熱いのではないかと思えるほど紅潮していた。
「ななな! なんで、あんたから言うのよ!?」
「ええ!? どういうこと!?」
「だ、だって! あたしが今、色々と考えて……ジルがどう思っているかとか、もしかしたら断られるかもって思って、でも、やっぱり言いたくて! その……」
「あ……あぁ……。なんか……ごめん」
「うう……」
「…………それで」
咳払いをして、まだ血管の動きが活発なままの身体でジルは続ける。
「ジャンヌは……どう思っていますか?」
目をつぶり、膝に手を置いてジルは聞く。答えはすぐに帰ってこなかったので、指先がそわそわして体も心なしか揺れている。
それがおかしくて、ジャンヌは小さく笑う。
そして、急襲によって全て白紙にされてしまった心の中に唯一残った、とてもとても大事な想い。
包み隠さずに、けれど恥ずかしげに、照れながら。ジャンヌは返答した。
「あたしも、ジルが好きよ」
「ほ、ホント?」
「嘘なんか、つくわけないでしょ」
「…………うん」
「っ!」
歓喜のあまり、ジルは気が付けば再びジャンヌを引き寄せて、胸元で包み込むようにしていた。咄嗟の行動で、自分でも数瞬置くまで何をしたのかわかっていない。
だけど、ジャンヌにはその心の動きがよくわかっていた。
さっきはゆったりだった鼓動が、異様なほど加速していたのだ。心臓がはち切れるのではないか、そう思えるほど激しく脈打っている。
ジルもドキドキしているんだ。
自分を見て、抱きしめて、身体が反応してくれている。それが嬉しくて嬉しくて。ジャンヌはしばらく、なすがままに胸にうずくまる。
……後は静寂だった。
二人の耳に入るのは、互いの吐息と鼓動のみ。何も言っていないし、何も動いていない。
だけど、今の位置そのままのように、男女は心で通じ合っている。
十分堪能できたのか、ジャンヌがジルの胸に手を当てつつ身体を引きはがした。
俯いたままの格好で、黙ったまま止まっている。ジルはわからず、手だけは離さない。
「どうしたの?」
そう尋ねると、ゆっくりと頭をあげた。
湿っぽい瞳と、火の吹きそうな顔を見てジルは少し固まる。
どういうことなのだろう。と理性では思いながらも、本能では理解していた。
彼女が一体、何を求めているのか。何をしてほしくて、どうして無言で視線だけ送ってくるのか。
ジャンヌの肩に手を置いたまま、ジルは焦る。鼓動が早くなるにつれて、両手に汗が染み出てくるのがはっきりとわかる。
「……」
ジャンヌは変わらず、動こうとしない。冗談でもないそうだ。ニコリともせず、じいっとジルの動向を見続けている。
「……はぁ。もー、あんたって。本当に奥手なのね」
「う……面目な」
い。
と言えなかった。
言いかけた口は、既にジャンヌによって塞がれている。
けれど、それは手によるものではない。彼女の手は、まだジルの胸元にあるのだから。
柔らかく張りのある唇が、ジルの薄く形の整った唇と重なっている。
鼻でしか呼吸が出来なくて、でもそうすると興奮した獣みたいで恥ずかしくて。ジルは息もしないで、ただひたすらに現実に浸った。
脳内の時間ではもっと長く、現実時間では数秒に見たない接吻は打ち切られる。
ジャンヌは胸に手を当てて、自分の行った大胆な所業を何度も何度も反芻して、呼吸困難に陥りかけていた。
言葉が見つからなかった。
何か言いたいけれど、何て伝えればいいかわからなくて。
触れ合った場所に手を当てて、ジルは余韻に浸っていた。
さっきまで、好きとすら言ったことのない間柄だったのに。もう口づけを済ませてしまうだなんて。
と思いつつも、実際それまで気持ちに制限をしていたようなもの。認め合えば、それぐらいは別に普通な関係ではとっくの昔になっていたはずなのだ。
「……よし」
ジャンヌは小さく自分に活を入れると、再び接近した。ジルが反射的に首を後ろに下げるけれど、それをガッチリ逃さないで掴み、もう一度口づけをする。
すると、ジルの身体が後ろへ傾いた。
ジャンヌに押されたから。
ゆっくりとだったので、着地の衝撃があっても歯と歯はぶつからずに済んだ。
けど、なんでそうなったのかわからない。
どうして……わざわざ、ジャンヌはベッドへ共に倒れこんだのだろう。
唇の接触がはがれると、やはりジャンヌはジルを艶やかに見つめ続けた。
「……」
「……」
「……いっ!」
「?」
「いや、いやいやいや! だ、ダメだよジャンヌ! いくらなんでも、それは!」
「……なんでよ」
「な、なんでって……そりゃ……」
上ずりながら、掠れた声でジルは反対した。意味を理解したと同時に、身体が反応を始めるけれどそれとこれとは別の問題。そう考えなければ、理性が保てない。
「……いいのよ。ジルとなら」
「ッ!」
言われただけで跳ね上がりそうになる。
でも、だからって……。
「こういうのは……さすがに……その……もう少し……」
「後になっても大丈夫だと思うの? あたし達、いつどこで死んじゃうかわからないのよ?」
「……それはそうだけど」
「いいわよ。ジルはじっとしててくれれば、それだけであたしは満足するから」
ジャンヌは押し倒していた手を、滑らせるようにジルの手の中に収める。指と指を絡めて、力強く握った。
「……もう! 知らないよ!?」
「きゃっ!?」
急にジルが力を込めた。身体を引っ張りながら、位置を反転させる。
今度は、ジャンヌが上を見ることとなった。けれど、そこに天井はない。真っ赤な顔をした、大好きな幼馴染が強がりを見せながら、じいっと見てくるのだ。
必死さがちょっとだけ滑稽だけど、いつまでも劣勢なのが悔しくて頑張ろうとしている。その姿が愛おしくて、ジャンヌは全てを受け入れるように力を抜いた。
「……ジャンヌ」
「ん?」
「愛してるよ」
「ええ。あたしもよ。愛してるわ、ジル。身も心も、あなたのモノにして。あなたの全てを、あたしのモノにしてあげるから」
「……」
「もう二度と……誰かのモノになんかならないから。今ここで……して?」
「……うん。わかった」
再びキスをすると、ジルはもう何も自分を偽ることはなかった。
乱暴にしないように、出来る限り細心の注意を払って、遂行していく。
触るたびにピクリと反応するジャンヌが、たまらなく恋しくて貪るように求める。
ジャンヌも、それに応えるように懸命にジルの期待に対して精一杯の愛を込めた。
ずっとずっと、記憶が出来た昔から共にいた二人。
すれ違うこともあったけれど、遙か昔から通じ合っていた二人。
言葉にして、思いを伝えた二人はその夜。
今までの埋め合わせをするかのように、ひたすらに心を重ね合わせたのだった。




