第二十八話 ~溢れる涙~
ぼうっと、絨毯を眺めていた。
もう何か抵抗をすることは無意味だ。だから、しない。できない。
何かを考える方が、きっと自分にとって生涯残る恥となるだろう。
だから、ジャンヌは思考を放棄していた。
隠すべき衣服を脱ぎ去り、最後の砦である下着も全て外した。
まっさらな、生まれたままの身体。
子どもの頃とはまるで意味の違う、成長した女の姿を異性に見せたことはない。
ジルにだって、一度たりとも。
露呈してしまった。露見させてしまった。
もう取り返しはつかない。自分は忘れても、周囲の兵士やエドワードは一生覚えているだろう。
悲しくて虚しくて寂しくて、涙が流れそうになるけれど、感情は動かない。考えてはいけないから。
しかし、そんな中でもちょっとだけ奥底に残った理性は、こう思っていた。
こんな姿、ジルにだけは見られたくないな、と。
情けない、まさに文明も知らない野生動物と同じ丸裸なのだ。
権威も何もあったものではない、恥ずべき恰好。
不幸中の幸いだったかもしれない。ジルが、一緒に居なかったことは。
あれほど、傍にいて欲しかったのに今は真逆のことを思っている。変なの、と弱弱しく自嘲した。
でも、仮に。
ジルが見ていたら、どうしてくれたんだろう。
怒ってくれたのかな、それともまた変に気後れして黙って見てたのかな。
わかんないや。
今、どこにいるのかな。
アグニ様には会えたのかな。解呪の法は見つかったのかな。それとも、またダメだったのかな。
……ジル。
ジル。
止まった感情は、たった一人の青年を思うことで再び動き出した。
一糸纏わぬその姿のまま、視界が歪んでいくのを感じる。溢れ出てくる、今度こそ。悔しさが涙となって頬を伝うけれど、それだけでは絶対に解消しない最高最低の屈辱。
高笑いするエドワードの姿だって、もう見たくない。
……ジルに、会いたい。
惨めで、卑しいこんな姿でも。きっと、彼は優しく笑って頭を撫でてくれるだろう。
あの笑顔が見たい。あの声が聴きたい。あの優しさが欲しくてたまらない。
けど……それは決して叶わない願いなのだ。
あがらない頭のまま、じっと眺めた地面がふいに暗くなった。
広間を満たしていた寒気のする空気が、途端に人肌と同等の暖かさに変化した。
涙が滲んで変色した赤絨毯が、一瞬だけ見えなくなる。
黒いマントによって、視覚を遮断されて。
「なっ……!?」
身を乗り出す様にして、エドワードが驚いた。
こんな無謬の場面で、瞬きなんて愚行はしたつもりはなかった。いや、気の緩みで一瞬だけしてしまったのかもしれない。
しかし、だからといって、それはあんまりにも唐突すぎた。
全ての衣類を脱ぎ去ったジャンヌに、黒い外套がかけられていたのだ。
そして、傍には一つの影。
蒼みのかかったブルネットと、旅慣れした布の服を纏うこの青年は……!
「ジル……殿!」
佇立している影は、紛うことなくジル・D・レインだった。
だが、もし彼をよく知っている人からすれば、他人の空似だと判断してしまうことだろう。
彼の涼しげな眼は異様なほど殺意に満ちていたし、いつもは緩んでいる眉間には深く皺が刻まれていた。
そして、何より。
彼の右腕から発せられるものが常軌を逸していた。
巻かれている包帯、第零式帯状封印装具は既にない。
そこにあるのはどす黒い炎を放つ、腕の形をした何かだった。ゆらゆらと陽炎と描くように、脈を打つが如く漆黒の火の粉を飛ばし続けている。
今までに見たこともない状態だった。浸食は既に済んでしまっているが、刻まれている鎚印の場所でしっかりと停止している。
「……ジ……ル?」
「うん。僕だよ」
「ジル……なんで……」
「……ごめん。ジャンヌ。本当に」
そっと、涙を指でなぞるように拭き取った。
同時に、ジャンヌは力なく地面に突っ伏してしまう。意識を失ってもなお、閉じた目元からは悔しさからなのか安堵なのか、頬を伝う感情の代替物が流れていた。
赤子を寝かしつけるように、頭を数回撫でる。漏れる吐息を聞いて、睡眠魔術がしっかりとかかったことをジルは確認していた。
「……エドワード王」
大きく息を吸ってから、背中を向けたままの姿勢でジルは名を呼んだ。低くくぐもった声と、腕から溢れ出る人間とは思えない醜悪な気配が、エドワードを威圧する。
「……」
「僕はジャンヌのように、あなたを毛嫌いしているわけではありませんでした。ジョージ先王の意志を受け継ぎ、衰えさせることなくルアン王国を支えている立派な方。という認識が、先刻までのあなたへの評価です」
ジルは振り返った。灰色のはずの瞳は、紅蓮に染まっている。
これは、アグニですら予想していなかった鎚印の副作用である。腕の浸食は確かに停止しているが、魔王ベルクの持つ殺意や邪気までは完全に抑え込めなかったのだ。肉体的には浸食停止が出来ているので、呪いは完成するわけではない。だが、制限なくただひたすらに魔王の本来持っている闘争本能がジルの全身に駆け巡っているのだ。
「けれど、もう。僕はお前を……許さない」
ただひたすらに、ジル自身の持っている怒気にそれが上乗せされている。コントロールし難い、強烈な破壊衝動が今は彼の身体を支配しているのだ。
ほんの僅かに残っている理性が、言葉を処理して口で意志を伝えているだけ。一杯に引き絞られた弓の弦のような状態は、何か一つでも衝撃があれば瞬時に放たれてしまうことだろう。
「……やれ!」
そして、それはエドワードの攻撃命令によって遂行されてしまった。
目線が、自分に向いているのを良いことに周囲の近衛兵たちに攻撃命令を下したのだ。
返答もせず、槍兵たちが飛び出した。重く、速く、鋭い槍の一閃が四方向からジルの身体を貫かんと繰り出された。
手練れの兵士たちは、囲みこむ戦法を熟知しているので、仲間に当たらぬよう正確な突きを穿つ。例え相手が一人であっても、長いリーチの槍が正面に居る味方に触れることは決してなかった。
「……!?」
驚いたのはその四人の兵士だ。並の人間なら、回避することも適わないスピードの一撃だったはず。現に、魔術師程度の身体能力では手の動きだって見えないほどの恐るべき速さだった。
けれど、そこには何も存在していない。ただ、お互いに驚愕の表情のまま宙を突き刺す槍を持ったまま、見合わせるだけ。
そのうちの一人が、違和感を覚えた。
視界に収まっている鉄槍の中腹に、人間の足があったのだ。
慌てて顔をあげると、そこには淡い蒼光を身体から放つジルが佇んでいた。
そして更に仰天する。
ジルは、突き出した槍の中心部に立っていたにも関わらず、次の瞬間には穂先に立っていたのだ。
けれど、これは移動によるものではない。槍の先端部分が、ジルの立ち位置へと変化してしまっただけ。
槍の先には、既に刃はついていなかったのだ。本来あるべきスピアヘッドは、赤い絨毯の上で悲しげに横たわっている。
柄すらも鋼鉄で出来たその豪槍を抵抗なく切り裂けたのは、手に握られている霧雨丸のおかげでであった。魔術の補助すら必要なく、肉を捌くように綺麗に切り落とせるのだ。戦士相手に、あえて武器で挑んだのは、圧倒的力量差を見せることで戦意を喪失させるためである。
「風切りの刃!」
「水流の豪大砲!」
身動きできない戦士たちに代わり、次は魔術師たちが攻撃を開始した。槍の上に立つということは、今ここにいるエドワードを除く誰よりも、高い位置に存在している。
絶好の的だ。その隙を逃す愚か者は、ここには誰一人としていない。
組織を全く破壊しないで切断できるほど鋭い風の刃と、内臓すら簡単に押しつぶす水圧による砲撃が放たれた。寸分違わず、ジルに向かって!
しかし、それらの攻撃も無意味だった。
まるで、存在しない蜃気楼のように二つの魔術は彼の身体をすり抜ける。その際、稲光が起こるかのように一瞬発光したのと、バチバチという放電音が鳴ったのを、一人の魔術師はハッキリと確認していた。
「不破雷同……!」
そして呟く。風魔法雷属性の高等魔術の名を。
雷と一体化することで、超高速移動と不実体の身体を得ることの出来るその魔術を、打ち破る術はほとんど存在しない。
戦士ならば、このように。
「ぐああああ!?」
少し魔力を解放するだけで、放電攻撃を受けて気絶してしまう。魔術すらも透過してしまうので、もちろんのこと物理攻撃は一切入らない。
魔術師ならば、対滅魔術という地魔法によって、魔術の発生そのものを停止させて解除する方法がある。しかし、それを完遂させるのには相手が含有する魔力を超えていなければならないのだ。
魔王と互角に渡り合うような能力を持つ魔術師は、ルアン王国には存在しない。つまり、現状打つ手なしというわけなのである。
「……あなた達だって、何も思わなかったのか」
瞬く間に地面に降り立つと、ジャンヌに当たらないように一気に風を発生させる。転がっている衛兵たちは、無残に壁際へと運び込まれてしまった。
「自分の主人の命令だからといって、従うままに倫理に反したことを遂行するなんて……。違和感があったはずだ。この王の、歪んだ独占欲を!」
「何を言っても無駄ですよ。彼らは、私がそういう風に育ててきたのです。富と名誉を与える代わりに、あらゆる命令を頭ではなく身体で聞くように、ね!」
威勢を張るように、エドワードは醜く叫ぶ。端正な顔に、必死さが見て取れる大粒の汗を流しながら。
「そんなにも保身が大事なのか?」
「大事ですよ! 力があれば何でもできる! 金があれば、世界は動かせる! 権力があれば、人を操れる! 誰だって欲しいに決まっている! むしろ私は、あなたやジャンヌのように地位を捨ててまで、命を賭す人間の方が信じられませんな!」
「……そうか」
「ええ。あえて言うなら、私にはあなた方のほうが、随分と向う見ずな無能者に見え」
けたたましい音が空間に響き渡った。
上質な木が激しい力で引きちぎられる音と、固い石が粉々に砕かれる音。同時に鳴った破壊による建材の悲鳴の発生源は、玉座からだった。
あるべき椅子は、背もたれの根元からへし折られてしまっている。
そこに座していた、ルアンの王は今、真っ黒な指の隙間からシャンデリアを眺めていた。
脈打つ度に、漆黒の粉が散る。熱さは感じないのに、陽炎めいて歪んでいる視界は異様すぎる光景だった。
「な……あ……!」
光速移動で、ジルはエドワードの顔面を鷲掴みして地に叩き伏せていたのだ。紅い瞳に、ぐつぐつと湧き立つ闘志と敵意をむき出しにしてぶつける。
「僕だけならまだしも、ジャンヌのことまで侮蔑することは許さない。豪かな椅子に腰を据え、口先だけで世界を牛耳っている気分のお前なんかに、彼女を貶す権利なんて微塵にも存在しない!」
「ば、化け物め!」
「ああ、そうさ! 怖いだろう、恐ろしいだろう! でもな、もっともっと悍ましい化け物に僕らはたった三人で挑んだんだよ! お前が気楽にお茶でも飲んでいる時に! 命がけで!」
「離せ! 国家反逆罪で、貴様を世界的大犯罪者にするぞ! 今ならまだ許してやろう! だから離さないか! お前たち、何をしている!!」
問答に口を出す者も、手を割り込む者も誰一人としていなかった。
何もできないと知っているから。王の身は確かに大事だけれど、自分が死んでは元も子もない。そして、今目の前に立っている魔王の化身に挑めば、きっと赤子の手をひねるように殺されてしまうだろう。 だから、何もしない。ただひたすらに、怒りが収まるのを黙して見るのみ。
「……そういう姿が……僕は気に食わない。他人の為に戦う人間を……バカにするような態度が」
次の瞬間、ジルはまた中心部で眠るジャンヌの下へ移動していた。
解放されたエドワードは、端正な顔を抑えながら喚き散らす。
奴を捉えよ、殺せ。と
だが、命令を下された有能なはずの部下たちは、冷や汗を流しながら 顔を見合わせている。
「無音斬り裂く死の胎動」
両の手に、黒い稲妻が迸る。
詠唱に呼応するかのように、その放電は徐々に増していった。
「混沌へと還す静謐の刃よ」
漆黒の魔法陣がジルの足元で展開されていた。
それは、最高等魔術発動の証。
「裂帛の瘴炎と化せ!」
まさか、まさか。
高等魔術を容易に操る魔術師たちは、ざわめいていた。逃げようとしたけれど、腰が抜けて動けない。
だって、彼が使っている魔術はありえてはならない禁呪だったから。
「ネインエスパルダ!」
手に纏う雷を合掌することで一気に解放した。魔法陣が大きく展開して霧散していく。
ジルを中心として黒いエネルギー空間が一帯を支配していった。
どこまでも続く先の見えない大穴に、真下へ落下するようなビジョンが周囲の人間全てに巻き起こる。
単純作業を何度も何度もさせられるような、退屈な空間だった。
でも、身体がどこかへ動いているような感覚だけは残っている。奥へ奥へ、目的地の見えない場所に向かって。
音もない、声も聞こえない。心臓の鼓動すら耳に届かない。自分が今、上を見ているのか下を見ているのか、右に飛んでいるのか、左を向いているのか。
終わりのない永遠の闇が、視覚から入って体全体を支配していく。いつしか精神までも蝕み破壊していく、虚無の輪廻を直接脳内へ叩き込む。
それが、闇の最高等魔術ネインエスパルダだ。
ジルはその光景を現実世界から見ていた。
周囲に居た人間は、立ったまま白目を向いている。涎の止まらない口を何度か開けたり閉めたりしているが、言葉にすらなっていない。
玉座に居るエドワードも同様に、抜け殻のように天を仰いで別々の方向に動く瞳をのそのそと転がしている。
ジルは、合わせていた手を解いた。
発せられていた魔力がそれによって停止する。糸の切れた人形のように、対象者となった者たちは地面に崩れ落ちた。
他に目撃者がいないのを確認する。周囲に気配はない。大丈夫なようだ。
魔術が当たらないように細心の注意を払っていた、傍で眠るジャンヌを抱き上げる。
一度だけ、気絶しているエドワードを見てから、ジルは振り切るように夜の闇へと飛び出していった。




