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勇者物語、その後に  作者: 背水 陣
第二章 水の精霊 編
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第十七話 ~伊織の意志~

 「回りくどい言い方は嫌いでね。結論だけ言うよ」


 尖った瞳で、テティスはジルを見る。うっかりたじろぎそうになるが、グッと堪えてジルは返事をする。


 「ええ、お願いします」

 「……大滝(おおだる)の儀式なんかじゃ、混沌の輪廻ラグナロク・リバイバルは浄化できやしないよ」


 言葉が脳を貫く。ここでもダメだったのか。目を見開き、視線を落とすジル。後ろでは、拳を固く握り歯を食いしばっているジャンヌが居た。


 「そもそも、魔術干渉に対して効く儀式じゃないからね。対象の状態異常を治療する効果は確かにあるけど、それは風邪とか、例えるなら毒などを浄化する場合に関してなんだよ。特に、そんな闇の最高等魔術を払うなんて無理さ」

 「そう……ですか……」

 「ついでに言いにくいことを告げてやる。アタシの持ってる魔術、知識じゃあ、混沌の輪廻(それ)は解けない。残念だけどね」


 追い打ちをかけられ、言葉も出ない二人。少々の会話をしただけだが、わかっている。テティスは別に、ジル達を毛嫌いしているわけではない。単に、変な期待を持たせたくないだけなのだ。徹底的に現実を述べている、ただそれだけ。

 いやらしさがない分だけ、その意味に絶望を感じる。


 「……とはいえ、また魔王が復活されてもアタシだって困る。人間を駆逐する存在なんだ、邪魔なのは一緒だよ」


 頭を掻きながら、鼻でため息をつきつつテティスは言葉を続ける。何か、他に手段でもあるのか。表情に、淡い期待を込めてジルは顔をあげる。


 「ちょっと待ってな」


 そう言ってから、テティスは広げた両手を前方に突き出した。その後、魔力を込めたのか薄青く手のひらが光を帯びる。


 「えー……と、こうだっけな」


 伸ばした手を、一気に真横に引く。すると、光は大きな円を描いた。透明な薄い膜のようなものが内側に出来上がり、ゆらゆらと揺れている。透過しているようで、膜を通しても反対側は見ることが出来た。


 「そんで……よし、この辺だ」


 独り言を言いながら、テティスは揺らめく透明な物体に向かって二、三度指をつつく。光るような波紋がその指先から広がり、範囲外に消えていく。

 

 「水影投映(アクアコール)……か」


 ジルは無詠唱でそれをやってのける精霊の魔力の高さ、精度に驚きを隠せない。

 水影投映(アクアコール)とは、水の上位魔術の一つで、世界のどこに居ても対象に映像と声を瞬時に届ける魔術だ。

 ジルももちろん使えるが、魔術の基礎を固めて、正しく魔力供給をするための、詠唱が無ければ雑音交じりでとても使えたものではない。

 

 テティスは息をするかのようにそれをやってのけている。もちろん、映っているものは非常に鮮明だ。まるで、本当にそこにあるかのようなほど、美しい情景描写なのである。

 姿見程度のその映写幕である円の内部には、とある映像が映っていた。


 そこは、海の底とは比べ物にならないくらい暖かな光で包まれていた。洞窟の中らしく、人工的ではない無骨な岩肌の壁と床が一面を覆っている。臆するに地下のどこかだろう。それでも、何故そんなにも明るさが保っていられるのか。

 その理由は、中空にところどころ浮かんでいる小さな火の玉だ。ふわふわと浮かんでいるわけではなく、燭台でも存在するかのようにしっかりと固定して浮いている。

 

 「……はぁ」


 映し出された風景を見て、テティスはため息をついた。残念がるものではなく、いら立ちを前面に表したものだ。

 原因は、映っている像のせいだ。

 照らされる洞窟内には、火のほかにはたくさんの書物が蓄えられている。天井まで届いているのではないか、そう思えるびっしりと中身の詰まった本棚がところせましと並んでいるのだ。

 そんな中に一つだけ。整った背表紙と、木製の骨組みの棚が見えない個所があった。

 映像の中心に立っている、人間のような影が一つ。


 「こら、ぼんくら兄貴! いい加減気付け!」

 「ほわっ!?」


 テティスの怒号に驚き、手にして読んでいたであろう本を落としてしまう。あわてて拾い、土ぼこりを払いながら、その人物はこちらに体を向けた。


 テティスと同じようにキトンを纏っているのは、年齢的には青年に見えるだろう。ジルよりは年上に思える。スッと伸びた鼻には、モノクルの蔓が乗せられていた。眼鏡ごしの目の形は、誰かと同じように吊り上っているが、そこに威圧感や戦意は全く感じられない。

 尖った両耳には、瑠璃の宝石がついたピアスがついており、片方はモノクルを支えるためのチェーンと結合されている。伊綱によく似た、重力に逆らうように全体が持ち上がった短髪だが、色は根元が黄色く、毛先に伸びていくにつれ朱色に変化していっていた。


 「な、なんだ。テティスか。いきなり大声出したらビックリするだろう」

 「あんたが魔力発生にも気づかねーくらい、本なんぞに熱中してんのが悪いんだろ!」

 「ムチャクチャ言うなぁ、相変わらず……」

 「相変わらずっても、前会ったのはたかだが二十年かそこらじゃん。んな程度で変わるわけあるか!」

 「あ、あの? こちらは?」


 いきなり痴話喧嘩を始められたので、状況が全く掴めない。

 ジルが恐る恐る、会話に割って入るようにテティスへ疑問を投げかけた。

 この、人間ではなさそうな方は一体誰なのか?


 「ああ。アタシの兄貴、火の精霊アグニ。知らない?」

 「いえ、もちろん存じてますよ。ただ、実際にお見かけするのは初めてだったもので」

 「まー、普段は引きこもって本やら何やら読み漁ってるだけだかんな。そら知らなくても当然か」

 「知識を蓄えているだけだよ。人間が生み出した、この文書というものは素晴らしいのだよ。さまざまなストーリー、専門教養などあらゆるものが、例え無知なる者でも習得できる至高の」

 「あー、はいはい。凄い凄い。……ったく、御託は良いから、さっさと本題移るよ」


 楽しげに書物の利点を語るアグニを止めて、また始まったかと言わんばかりな表情でテティスは遮る。

 それに関してはジルもジャンヌも、きょとんとした伊織だってきっと同じことを思ったに違いない。止めてくれて良かった、と。多分、語ればずーっと同じようなことを話すタイプの性格だと、瞬時に理解できたから。


 ついでに、自己紹介も少しだけしておいた。だが、特にその必要もないようでジルやジャンヌの姿をその目に捉えただけで、アグニは二人が何者かをすぐに当てて見せたのだ。

 感心する二人をよそに、テティスは一歩前に出て質問を投げかける。


 「兄貴、混沌の輪廻ラグナロク・リバイバルって知ってるよな?」

 「転生の最上級魔術だね。それが?」

 「単刀直入に聞くよ。それは、そもそも解除できるものなのか?」

 「!」


 テティスは、ジルやジャンヌが心の片隅で危惧していたことをズバッと尋ねた。

 何か手段はあるはず。そう信じて進んできてはいるが、果たしてこの魔術はそもそも消すことが出来るのだろうか。

 戦闘力はあまり高くないが、知識だけならば自分や他の精霊よりも抜きんでているアグニに、それを問うということは……ある意味、旅の核心に思いがけず触れてしまったような気分である。


 「……思いついた答えを一つ、言うよ」

 「ああ」

 「混沌の輪廻ラグナロク・リバイバルは、条件達成型の魔術だ。対象の身体を乗っ取り、自らのコントロール化に置いた時点で、魔術自体の効力は途絶える」

 「つまりは、完全発動してしまえばお終いってことか」

 「そうだ。けど、なんとなく察するに、それは答えとしては間違っているのだろう?」

 「わかってるじゃん。ここに居るジルは、混沌の輪廻ラグナロク・リバイバルを放ったベルクを右腕に抱えている。抑えているだけでも驚きもんだが、それはこの際置いておく。とにかくジルは死なず、尚且つベルクだけを消し飛ばす。そんな最高の策を、兄貴に授けてもらいたいんだけどなぁ~?」

 「……わかったよ。考えてみる」


 安心とも心配とも取れる返答だった。


 考えてみる。


 つまりは、可能性はゼロではないということ。もしかしたら、何かあるのかもしれない。

 だが、これは逆を言うならば考えてみても何も思いつかなかった場合……もう打つ手がないことの証明になってしまう。

 水の精霊や火の精霊の力や知恵を借りられるだけでもありがたいことだが、結果を求める二人にとっては、いたたまれない。


 「ありがとうございます、アグニ様」


 とはいえ、礼を言わない理由にはならない。考慮してくれることに感謝し、ジルは深々と頭を下げると後ろでジャンヌも、何故か一緒に伊織も頭を下げていた。


 「あと、不躾で申し訳ないのですが」

 「ん?」

 「…………人間を生き返らせる術に、何か心当たりはありませんか?」


 ジルはためらいながらも聞いてみた。ヴァーユやテティスと比べれば、アグニは信頼できるほど博識な方だ。少ししか話していなくても、会話の反応速度などからそれが伺える。

 だから、聞いたのだ。

 人間を……ライルを、何とか出来る方法はないか、と。


 「死者蘇生の方法か……」


 モノクルをかけなおしながら、少しアグニは考え込む。

 頭の中にある、膨大な知識の書簡から索引をひっぱりだし、該当する項目をいくつかピックアップしていく。そして、それらをつなぎ合わせて一つの答えとして導かせるのだ。

 

 「ないことはない」

 「ホントですか!?」


 身を乗り出したのはジルではなくジャンヌだった。

 聞きたくない言葉じゃない、求めていた希望の答えだ。


 「ただ、かなり古いものだから、少し調べるのに時間が必要だ。ボクの知識だって完璧ではない。君たちがテティスと居るってことは、今は三角島(デルタアイランド)だよね?」

 「はい。そうです」

 「ボクは、ルアン王国管轄の紅蓮の猛火山(レッドインフェルノ)に居る。到着まで時間はかかるはずだ。それまでには、二つとも答えを導き出しておこう」

 「わかりました」

 「ただ、ここに入るのにはいろいろと面倒な手続きが必要でね。一応、こちらからも言ってはおくけど……」

 「手続き?」

 「ボクの力不足が原因だけどね。人間たちに守ってもらっているんだ。だから、ここに来るのには許可が必要なんだ。もちろん、ルアン王国のね」

 「……」


 無言で、そしてひきつった表情を浮かべたのはジャンヌだった。

 ルアン王国は、オルラン王国と密接な関係を結んだ同盟国。古くから国同士での交流があり、国民だけではなくもちろん王族間でも深い関係を築いている。

 

 だからこそ、王族のジャンヌにとっては不都合だった。


 「でも、キミは確かオルラン王国の王女だろう? 特に問題なく許可は下りるとおもうけども」

 「あー……ま、でしょうね。ははは」

 「?」


 多分きっと、許可を得るには王の下へいくのだろう。

 それはつまり、昔からの定めである……ジャンヌの、彼女の。親同士が勝手に取り決めた、許婚と会わなければならないとうことなのだ。


 自由に、特に大事なことは自分で決めたい性分の彼女にとってはとっても大きな障害だ。

 何より、ルアン王国側はそれに関しては大いに乗り気なのが困りどころ。大国の姫という肩書ならず、世界を救った大勇者でもある女性と結婚できるのだ。それは当然ではあるのだが……。


 「よっし。話は終わったね。とにかくあんたらは、兄貴の所へいく。兄貴は、こいつらに対策を教えてやる。それでいい?」

 「はい。ありがとうございます」

 「よっしゃ。んじゃ、アタシはもう一眠りするから。後はよろしく! 次起きる時は、本物の平和な世界で頼むよ~」


 手を振り、アグニとの通信も一方的に切ってベッドに転がり込むテティス。あまりにもマイペースなその行動に半ばあきれていると、すぐさま寝息が聞こえてきた。

 

 「……とりあえず、上に戻ろっか」

 「そうだね」


 ちょっと前にも起こした嵐のような、自分のペースで物事を進める水の精霊。

 翻弄されつつも、その温かな姿で希望を授けてくれる火の精霊。


 複雑な感情を胸にしつつ、三人はゆっくりと陸へと戻ることにした。


 シキ島へ戻る途中、旅人の二人は今後の予定を話し合う。

 

 「明日にはもう発とうか」

 「そうね。ゆっくりしていたいところだけど……ここで得られる情報はもうなさそうだし」

 「というわけで、伊織さん。突然で申し訳ないけど、もう一晩だけ泊めてもらえるかな?」

 「……あ、はい。それはもちろん歓迎いたします……」


 話は聞こえていたはずだ。だのに、伊織の反応は少しだけ間があった。表情は少しだけ暗く、何やら残念そうである。


 「ごめんね、突然で。また、遊びに来るからね」

 「……はい」


 そんな微妙な心理を読み取って、ジャンヌは伊織の小さな頭をなでながら励ます。

 しかし、そんな二人を見るジルにはその励ましは正解ではないんじゃ、と感じた。もし、伊織ならばきっと、無理にでも笑顔を作って、こちらにも配慮した返答をするはず。

 それでも、彼女が煮え切らない態度を取るということは……。


 「明日ですか」

 「はい。いきなりですみません」


 渦流神社に着くと、さっそく二人は予定を告げた。今日には荷物をまとめて、アメリア大陸行きの船に乗ること。また旅が終わった後に、必ず来ることを固く約束した。


 国を救ってくれた英雄に、伊綱ももちろん熱い礼を申し上げる。頭を地にこすり付けたところでは、全く足りないくらいの多大な恩を受けたのだ。次来るころには大きな宴を開いて、国総出での持て成しをいたします、と。互いに握手をし合って契りを交わし、渦流家で最後の晩を過ごしてゆく。


 「そうでした」

 「?」

 「ジル様、御腰の短剣を無くされてますよね?」


 腕の封印を解く前に、エビルマーマンの溶解液によってジルの唯一の得物は破壊されてしまった。大陸に渡った時に新調しようと思っていたので、特に気にも留めていなかったが。


 「少々お待ちいただけますか」


 お辞儀をしてから伊綱は立ち上がり闇へ溶けていく。軋む木材の音が遠ざかり、再び無言の空間へ。

 それでは時間がもったいない、と囲炉裏の前に下がる料理をつつきながら待つことにする。

 お金も、物資も数日前とは比べ物にならないほど潤沢になったその鉄鍋の中には、色とりどりの野菜や魚類の肉片が踊っている。出汁の利いたお吸い物などを口にし、待つこと数刻。


 「お待たせしました」


 再び伊綱が戻ってくると、その手には布で覆われた少し長めの棒のようなものが握られていた。

 布の装飾は絢爛豪華で、金箔などで描かれた唐草模様だったり、口を結ぶ紐の先には銀で作られた勾玉が揺れ動いていた。

 

 「それは?」

 「古来より渦流家に伝わる、宝刀です。是非とも、ジル様にと思いまして」


 シュルシュルと紐を解き、中からその物を取り出す。

 蒼い柄巻きに白銀の縁、渦潮をあしらった円形の唾。群青色の鞘は、光に照らされて輝いて見える。

 ミズホの国にのみ伝わるその特殊な武器。詳しい名称まではわからないが、種類だけならばもしかすると。ジルは口に出してみる。


 「……刀?」

 「はい。霧雨丸(きりさめまる)と言います」


 伊綱はゆっくりと柄を握り、その真っ白な刀身を空気中にさらけ出す。

 その瞬間、何かが地面に滴り落ちるのをジャンヌは見た。木目にしみこんでいくだけの、ただの無害な物体なのも確認している。


 「この刀……いえ正しくは小太刀ですが。常に刃がほんのりと濡れております。幾度、骨肉を斬ろうと、切れ味の決して劣らない宝刀。それが霧雨丸でなのです」


 ゆっくりとした動作で伊綱は再び霧雨丸を鞘に戻す。そして、ジルの目の前にゆっくりと置き深々と頭を下げた。

 お受け取りください。仕草を見るだけで、そう言っているのがわかる。


 「でも……これは家宝なのでは?」


 好意はありがたいが、そんな厳かなものは受け取れない。大事なものだからといって、恩を受けた人に易々と渡していいものではないはずだ。目の前の刀には、きっと渦流家の歴史が刻まれているはずなのだから。


 「まともな使い手もいないままでは、宝の持ち腐れです。平和の為に、何よりもジル様の為に役立てるならば。我が家系の者はきっと、先祖まで遡っても誰一人否定はいたしません」


 チラリと横目で伊織を見た。彼女も同じ気持ち、というのは間違いないみたいだ。視線に気づくと、兄と同じ動作で、受け取ることを薦めてくる。


 「……わかりました。それでは、ご厚意に甘えて有難く頂戴いたします」


 礼には礼を。ジルも同じように床に額が密着するほどほど首を垂れ、感謝の意を無言で述べた。

 関係していないジャンヌのみが、そんな異様とも思える光景を目にしていたが、ここ数日で慣れたものだ。好意を向けられているのが自分ではないが、それでも嬉しくて頬を緩ませている。


 終わりそうにもない敬意の表し合いを何度か重ねた後、せっかくの料理が冷めてしまうというジャンヌからの切り口で、三人は食事を再開する。

 魚介出汁の効いた味噌汁をすすり、フソウ島から齎された新鮮な白米をほおばり、熱い緑茶で喉を潤す。少しの学習ですっかり習得してしまった上手な箸使いで、内臓までしっかりと食べられた魚の骨を嬉しそうに眺めるジル。

 伊綱も、今までの厳しい顔つきとは違い嬉しそうに談笑しながら食事を勧めている。神の存在を認識し、自分の役目を身に染みて実感したのだ。生きる希望の芽生えた人間ほど輝いていることはない。

 

 だが、ジャンヌが幾度目か忘れるほどのおかわりをしようとした時だった。少し前まで薄粥を食べていたとは思えないほど豪華絢爛な食卓の中で、咀嚼すらもあまり行っていない人物がいた。


 「伊織ちゃん、どうしたの?」


 鼻にご飯粒をくっつけながら、きょとんとした表情でジャンヌが尋ねる。

 もともと引っ込み思案で人見知りな彼女だが、華奢な体が更に小さく見えるほど縮こめて、囲炉裏で揺れる炭の火を、じっと眺めているだけだったのだ。嫌いな物など一切ない優良児のはずだが、食が進んでいない。


 「……」

 「伊織ちゃん?」


 ジャンヌが顔を覗き込もうとする前に、ジルがさりげない仕草で鼻先のご飯粒を取ってあげる。

 返事もしない少女は、ジャンヌの問いかけに反応をしめすが返答はしてくれない。

 

 そんな顔を見て、ジャンヌは別れが寂しいのだな、と独り合点する。白くきめ細かな肌をした手を伸ばし、優しく頭を撫でてあげた。だが、それでも曇りは晴れない。


 「……あの、兄様」


 一呼吸を置いてから、やっと伊織は震えるような声を絞り出した。正座のままギュッと膝の上で拳を固く握りしめながら、目線をしっかりと合わせて話しかけている。


 「なんだ?」

 「……わたし……その……」

 「?」


 口は開いているのだが、音となっては現れない。伊織の中の心の葛藤が、喉に蓋をしているかのように。何か、無理なことを言おうとしているのだろう。疑問符を浮かべるジャンヌを除き、兄とジルはそれを瞬時に察した。


 「お二人を、御見送りにいきたいです!」


 何度か同じ動作を繰り返した後、やっとの思いで願望を兄へと伝えた。

 その言葉だけ聞けば、至極当然のことだろうが……今このタイミングで、そしてこれほどまで悩んでいうということは、きっとその当然の範疇ではないということだ。


 「御見送りなら、島中の人で行うだろう。もちろん、私もだ。心配しなくても良い」


 茶を流し込みながら、伊綱はあえてこう返す。確認と否定の意味二つをこめて。


 「違います。ここではなくて……その……向こうの港町まで」

 「ダメだ」


 消え入りそうな語尾で発したのを聞き逃さずに、茶飲みを床に置きながらピシャリと伊綱は言い放った。


 「でも……」

 「今の客入りを考えろ。本来は持て成すべき、お二人にすら手伝って頂いてもあの忙しさだぞ。お前までいなくなっては、とても回してはいけない」

 「で、でも……」

 「貧困の辛さはもうわかっただろう。今後の貯蓄のためにも、ここで手を抜くわけにはいかない。衰退させるつもりは毛頭ないが、それでも盛時であることに変わりはない」

 「兄様!」

 「無理なものは無理だ。またいずれ、訪ねてこられる時を待て。今生の別れというわけでもないのだからな」

 「……」

 

 いつの間にか、ジャンヌもジルも少し二人から距離を置いてやりとりを見ていた。

 自分たちの為に、やりたいことがある。それを申し出てくれるのは嬉しい限りだが、他人の家の事情に対して首をつっこむことは出来ない。

 だからこそ、率直な感想すら言葉に出さず、ただただ眺めているだけに徹しているのだ。


 「……わたし、お二人に初めてお会い時とても驚きました。金色(こんじき)の髪に蒼い瞳、見たこともない異装をされた人間なんて見たことなったから」

 「……」

 「でも、知ってはいたんです。書物を読んだり、言伝などを耳にしたことがありましたから。この島の外にはたくさんの人が住んでいて、色んな考えや技法を持った人が、たくさん居るって」


 顔をあげ、柔らかな黒髪を揺らめかせながら伊織は続ける。


 「兄様が神主であるように、わたしも渦流の人間です。一生、海神様にお仕えする気持ちは、生まれた時から、一度だって揺らいだことはありません」


 感情の高ぶりか。無理な願いを、自分のわがままを、ただぶつけているだけの、幼児のような自分が情けなくなってなのか、伊織の黒い双眸には涙が浮かんでいる。


 「でも……だから……。わたしは、ずっとここに居なければなりません。これから繁盛していく将来があるならば……。もう……今しかないのです」

 「……」

 「お願いです兄様。わたし……外の世界が見たいんです。一瞬でも良いんです。一秒でも、ミズホの国(ここ)以外の景色が見られれば……それで……」


 抗議をする眼力はすっかり鳴りを潜め、伊織はまた深く頭を下げて許可を請う。

 黙ってじっとその姿を見つめながら、茶飲みに口をつける伊綱。既に中身がないことは、その場の人間誰もが察している。


 「……ジャンヌ様、ジル様」

 「はい」


 短く返事をする二人に目も向けず、伊綱は目を閉じながら言葉をつづけた。


 「ここから、最寄りの港町までは何日ほど?」

 「最寄りのフリスタなら、二日ほどで到着します。ただ、それは我々の目的地ではありません」

 「お二人が向かう先はどちらに?」

 「アメリア大陸にあるシーサイドかしら。そこまでなら……えっと、どれくらい?」

 「船を出してくれるアキツ島の船主さんによれば、確か三、四日ぐらいだったよ。海域の流れが良くなったから、普段より早く到着できそう、って言ってたかな」

 「そんなのにも……ですか」


 大きくため息をつきながら、逆立った髪をかき分けるように頭を擦る。陶器の茶飲みを床に置き、項垂れるようにしてしばらく静止する伊綱。ぶつぶつと、何かを呟いているが、それは誰にも聞き取れない。


 「……はぁ」

 「……兄様?」

 「思えば、母上も……父上だって居ないのに。お前は一度だって、不満や辛苦を漏らしたことがなかったな」

 「それがわたしの天命ですから。寂しいですけど、兄様がいます」

 「わがままも言わない立派な子に育ってくれた」

 「兄様のおかげです」

 「……わかった。手伝いは、シキ島の方に頼ってみよう。十日後には戻ってくるんだぞ」

 「十日後……?」


 片道で四日ほどということは、往復するなら八日で済むはずだ。余分な二日は一体……。


 「たまには、妹のわがままぐらいは聞いてやると言っているんだ。ただし、それ以上の滞在は許さないぞ。いいな?」

 

 二日だけ。ほんの少しだけど、許された(いとま)。それが嬉しくて、兄が立派に見えて、愛おしくて。


 「兄様ぁああ!!」

 「こらこら、みっともない姿を見せるな」


 あふれ出る涙を止めもせず、伊織は兄の大きな胸の中へ飛び込んでいく。背中に手を回し、自分の愛情を全部受け渡すかのように、力強く抱きしめる伊織。それにに負けず、伊綱も同じくらいの気持ちで、けれど彼は優しく、妹の髪を撫であやす。


 当初はあまり仲のよくなさそうに見えた、たった二人の兄妹は間違いなく神様のご加護の下、絆を固く認め合うことが出来たのだ。

 そんな二人の重なる影を見て、ジルとジャンヌも顔を見合わせて笑う。

 少しばかりの航海が、楽しみでたまらない。

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