婚礼の宴 1
「そのお料理は、まだお出しにならないでください」
久世久良羅の声に、木の皿を載せた盆を持つ青年が足を止めた。
「え?」
召使い風の衣装に身を包んだ青年は、困ったように久良羅を見た。
茨城県水戸市郊外にある常陸グランドホテルの宴会場。
ここでは、「1475年ドイツ・ランツフート婚礼の宮廷晩餐会再現」と銘打たれたイベントが行われていた。
白い麻布を掛けた長い卓。木皿と杯。パン、塩入れ。壁には色とりどりの紋章を掲げた垂れ幕。
中世の楽器を構えた楽士役の三人が、次の料理の入場を待っている。
一番上座のテーブルには、神聖ローマ皇帝フリードリヒ三世役の人物や、選帝侯アルブレヒト・アヒレス役、新郎ゲオルク・フォン・バイエルン=ランツフート役の人物たちが、十五世紀当時の衣装をまとって席についている。
彼らは、こうやって中世の文化の再現を楽しむ歴史愛好家たちで、「聖ゲオルク歴史研究会」と名乗っていた。
「上のお席には、まだ次のお料理が参っておりませんでしょう」
「そうだけど……」
「それはいけません」
言ってから、久良羅は周囲の視線に気づいた。
またやってしまった。
けれど、もう遅い。
「皇帝陛下のお席を差し置いて、下のお席から先に次のお料理を召し上がっていただくのですか」
召使い役の青年が、盆を見下ろした。
「……まずい?」
「少なくとも、この宴では。式典長や主催者が、皇帝陛下を侮辱したと取られかねません」
召使い役の青年は、ぎょっとした顔つきになって、久良羅を見た。
「ごめん、久世さん。助かった」
そこに、宴席再現責任者の榊原が小走りに寄ってきた。
体格の良い、三十を少し越したぐらいの男性。本職はレストラン勤務の料理人だとか。
「ローストポークの中心温度がなかなか上がらなくて。あと15分ぐらいはかかる、皆には待ってもらおう」
その事を告げようとしたのか、皇帝のいる主卓に歩み寄ろうとする榊原。
久良羅には、あまりにも不作法に思えた。
気づけば、彼女は榊原の腕をつかんでいた。
「?」
榊原は、久良羅を見た。
それを気にせず、久良羅は会場を見渡した。
料理が遅れているせいで、宴席の客たちの手元の杯が空き始めていた。
皇帝への給仕役を務める若手公子たちは、次の料理を待ったまま、所在なげに控えている。
「樋口さん、お酒をもう一度お願いできますか」
久良羅は、六十を超えた古参の会員に声をかけた。
「よし、心得た」
彼は、そう言って酒差しを手にとった。
「楽師の方々。もう一曲いけますこと? お料理がそろったところで、曲を締めていただければ」
中世の木製アコーディオンを抱えた楽師が、久良羅を見てうなずいた。
「……久世さん。いったい、君は……?」
驚いた顔で、榊原が久良羅を見た。
さかのぼること、数時間前。
久世久良羅は、JR水戸駅南口のロータリーから送迎バスに乗って、常陸グランドホテルにたどり着いた。
彼女が聖ゲオルク歴史研究会へ入って、初めて参加する大きな催しだった。
案内に従って、ガーデンルームと名付けられた大広間へ行くと、会の代表の九条誠一郎がイベントの準備を采配していた。
このホテルは、彼の実家の企業グループが経営しているらしい。
支配人らしい男性が彼に「九条様」と頭を下げているのが見えた。
金持ちというのは、本当にいるらしい。うらやましい。
しかし、中世の装いに包まれた会場を見て、そんな思いは吹き飛んでしまった。
長いテーブル。白い麻布。木の皿。素焼きの器。パンかご。酒差し。大きな鍵を腰につるした従者。頭布を巻いた女中姿の会員たち。
彼らは客の目にはほとんど留まらないような小道具について、本気で言い争っている。
「皇帝用の卓だけ、銀杯にして。あとはみんな緑のガラス杯だからね」
「ナイフとスプーン忘れた方、こちらで貸し出します~。フォークはまだ無いからダメですよ~」
久良羅の胸の奥が、きゅっと痛んだ。
懐かしい、と気づくまで少しかかった。
あの家にも、こんな人たちがいた。
朝から台所で働く者。客間を整える者。食卓の布を数える者。父の客人の紋章を確かめ、どの部屋に案内するか相談する者。
前世でクララ・フォン・アイヒベレクとして生きていた頃、毎日のように目にしていた世界だった。
「久世さん」
呼ばれて振り返ると、がっしりした男が席札の束を抱えていた。
「榊原慎吾です。今日の宴席責任者を務めます。すみませんが、着替え終わったら、これを並べるのを手伝ってもらえますか」
「あ、はい。すぐ着替えてきます」
久良羅は微笑んで言った。
慌てて更衣室に飛び込み、つい昨日、海外の通販サイトから買った女中の衣装に着替える。
衣装はファンタジックなデザインで、特定の時代を忠実に再現したものではない。
入会してから知ったことだが、歴史的に正確な衣装は市販品が少なく、本格的にそろえようとすれば自作するしかないらしい。
初心者にはかなり敷居が高いため、聖ゲオルク歴史研究会では、市販のコスプレ衣装もある程度認められていた。
久良羅自身、この日はお手伝いをしながら、会の雰囲気をつかむだけのつもりだった。




