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小料理屋の過去

ただ1つだけ気になることが書いてあった。


あとひと月余り先に迫った運動会の練習が始まったのだが、問題は林校長の話していた『親子リレー』であった。


これは六年生の1組と2組がクラス対抗という形で子供、その親、子供、その親と百メートルづつリレーしていく競技で運動会の最後を飾る花形種目なのである。


町内の応援も凄く、町を二分するほどのものらしい。

生徒は全員参加、親はどちらの親でも構わないが、どうしても都合がつかないときは、担任が代わりに走ることになっていた。


立花家では、親は真由美が走らざるをえないが、問題は純であった。

今日の連絡ノートに、初めて生徒だけで走らせてみたが、純は自分の番になるとグラウンド1週百メートルを全く走ろうとせず、歩いてしまったと書いてあった。


歩くだけでも、左膝が上手く曲がらないのであるが、走るとなるともっと極端になってしまって、純はその姿を見られるのが堪らないのであろう。

痛みはもうとっくに無い筈であるが。


松本は、当面は静観する旨書いてあった。


そんな松本からの連絡ノートを受け、真由美は思い悩んで義父の剛に相談してみた。


娘の事故を自分のせいと、自分自身を責めている夫誠に、純の足のことは相談出来なかったからである。

剛は可愛い孫のことを不憫と思い、出来ることなら先の短い自分が代わってあげたいと思いながらも、どうすることも出来ない現実をもどかしく思っていた。

今日、真由美から改めて純の悲しみや嫁真由美の苦悩を聞き、息子誠の不甲斐なさを思うのであった。


真由美が夕飯の買い物に出たのを確認した剛は、風呂場へと向かった。


脱衣場に置いてあったバケツを手に取ると風呂の湯を汲み、そのまま息子夫婦の寝室に向かった。


静かに寝室のドアを開けた。

そこには息子誠がいつものように丸まって寝ている。


『なんでこんななっちまったんだ』


と呟きながら、剛はバケツの湯を誠の頭に向けて一気にぶちまけた。


誠が叫ぶ前に剛が叫んだ!


『この大バカやろー。

誰が一番辛いと思ってるんだ。

じゅんはまだ小学6年生だぞ!

親が支えてやらずに誰が支えてやるんだ?

あんな可愛いじゅんを…うう、そんな息子に育てた覚えはない!』


誠はずぶ濡れのまま、一点を見つめ黙って聞いていた。


剛が部屋から出て行くと誠はそのままの格好で家を出た。


そしてあかりの暖簾をくぐった。


『おや、立花さんどうしたんです?

そんなびしょ濡れで。

ちょっと待ってくださいタオルを持ってきますから』


あかりの女将はそう言ってタオルを取りに奥へ入って行った。

誠は差し出されたタオルで滴を拭いながら


『オヤジにかけられちまったよ!

とりあえずビール』


それまで黙って聞いていた店の主人が口を開いた。


『オヤジさんに水を掛けられても、まだ飲むんですかい?

立花さん、そんなあんたに売る酒はねえ、帰ってくんな』


と言うや前掛けを外して奥へ入ってしまった。


それを見て、女将が静かに口を開いた。


『ごめんなさい立花さん、じゅんちゃんのことは人づてに聞いて知っています。

それで立花さんがうちの店に来てお酒を呑んでいることも。

じゅんちゃん見かけましたよ!

可愛くて、いい子じゃないですか!


生きていてくれればそれだけでいい。

私ら夫婦には、羨ましいんですよ!』


女将は前掛けでそっと涙を拭った。


『今まで誰にも話したことがないんですが、私と主人は横須賀の割烹料理屋で働いていたんです。


主人が板前で私が店の一人娘。

恋仲になっても、私の父の猛反対があって、駆け落ち同然で逃げるようにこの町に来たんです。


苦しくても辛くても、帰る所なんかありゃしません。

必死に働いてなんとかこの店を持てたんです。


そんな私達のせめてもの夢は、子供好きな自分たちの子を、早く欲しいということでした。

でも、なかなか出来やしません。

もし子供が出来たら、女の子だったら、苦労した分、明るい家庭を、二人を明るくしてくれる子をと思い名前は

『あかり』

と決めていました。


そして、そしてやっと、やっと神様が授けて下さったんです。

待望の女の子を。

あの時のあの人の喜びようったらありゃしません。

それが…。』


女将が耐えきれずに嗚咽を漏らした。


『それが5年前の、あかりが小学校に上がってすぐの夏…昼から酒を飲んでた居眠り運転のダンプに』


ここまで話すと女将はひとしきり泣いた。


『すいません。

私たちからすれば、じゅんちゃんよく生きていてくれた。

あんなに可愛いくて。それを何が不満があるんですか?』


奥から


『もういいだろう』

と主人の声。


誠は店を出た。


見上げれば、横浜では見られない降り注ぐようなたくさんの星たちが、誠を見つめていた。

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