第44話 「無音の夜 ― アシュレイ視点②」
――ガリレア砂漠戦線・北部千砂丘帯。
時刻、18時42分。
太陽が沈みきった砂漠は、急激に牙を剥いていた。
昼は灼熱。
夜は凍土。
数時間前まで人を焼いていた熱が嘘みたいに消え、今度は骨の芯から体温を奪っていく。
乾いた風。
砂の擦れる音。
遠くで鳴り続ける砲撃。
戦場の夜は、光よりも“音”が支配する。
足音。
装填音。
息遣い。
引き金へ指が掛かる、ほんの僅かな擦過音。
狙撃手は、それだけで人を殺せる。
◆
崩れた古代遺跡の影。
風化した石柱へ背を預けながら、アシュレイ・ケインは缶コーヒーを口へ運んだ。
ぬるい。
甘い。
妙に薬臭い。
「……甘ぇ」
一拍。
「最悪の味だ」
隣で双眼鏡を覗いていた傭兵が吹き出した。
「文句言うなら飲むなよ」
「眠気覚ましだ。
味なんざ期待してねぇ」
だが、戦場で飲む缶コーヒーは大抵こんな味だった。
砂の匂いと、火薬の匂いと、血の匂いが混ざる。
その中で飲む甘さだけが、逆に現実感を与えてくる。
今日だけで、アシュレイは既に三十人以上を撃っていた。
通信兵。
狙撃手。
後衛指揮官。
衛生兵。
補給兵。
逃走兵。
時には、“殺す必要のない相手”すら。
(……慣れたつもりでいたが)
一拍。
(慣れなんて、ねぇな)
戦争は、時々“正しい側”から壊れていく。
アシュレイは空になった缶を足元へ転がした。
その時。
レシーバーへノイズ混じりの声が飛び込んできた。
【ケイン!!】
「うるせぇな」
【敵砲兵隊が西から移動してる!!
距離三千!!】
「……三千?」
【お前の射程だろ!?】
アシュレイは空を見上げた。
砂嵐。
風向き最悪。
視界不良。
狙撃条件としては下の下だ。
「バカ言え。
今の砂嵐じゃ三千は無理だ」
【でも止めねぇと南側走廊が吹き飛ぶ!!】
「……チッ」
アシュレイは舌打ちした。
「結局、“やれ”って言いてぇんだろ」
【頼む、ケイン】
「……分かったよ」
一拍。
「死んでも文句言うな」
◆
ライフルを展開。
二脚を砂へ深く押し込む。
スコープを覗く。
だが。
白い。
砂嵐で何も見えない。
熱源も乱れている。
光も歪む。
車両の輪郭すらまともに捉えられない。
(……やっぱ何も見えねぇ)
隣の傭兵が呟く。
「撤退するか?」
「は?」
「無理だろこれ。
目ェ潰れてんのと変わらねぇ」
「……まぁ普通はな」
アシュレイはゆっくり目を閉じた。
耳を澄ます。
風。
砂。
振動。
車輪。
履帯。
重さ。
(……左右へ二秒周期)
(重量十五〜二十トン)
(車両三両以上)
(後ろに牽引あり)
(砲兵隊だ)
隣の傭兵が眉をひそめた。
「分かるのか?」
「地面が喋ってる」
「は?」
「黙ってろ」
アシュレイにとって、地面の振動は視覚と同じだった。
見えなくても分かる。
音がなくても分かる。
だから。
(……撃てる)
引き金へ指を掛ける。
その瞬間だった。
◆
世界から、“音”が消えた。
アシュレイの目が止まる。
(……は?)
世界から、“音”が消えた。
アシュレイの目が止まる。
(……は?)
風が止んだ。
違う。
吹いている。
砂も舞っている。
なのに、“聞こえない”。
砂粒が石へ当たる。
傭兵の口が動く。
遠くで砲撃の火花が咲く。
全部、見えている。
なのに。
何一つ、音が存在しない。
世界だけが、突然“真空”になったみたいだった。
遠くの砲撃も。
無線ノイズも。
隣の傭兵の呼吸音も。
何も聞こえない。
舞い上がった砂が、途中で止まったように見えた。
違う。
“落ちる音”が消えている。
「……おい」
隣の傭兵が何か言っている。
だが聞こえない。
完全な無音。
アシュレイは即座にイヤホンを外した。
無線を切る。
それでも。
音は戻らない。
(……故障じゃねぇ)
(なんだこれ)
背筋を冷たいものが走った。
狙撃手にとって、“音”は命綱だ。
距離。
方向。
呼吸。
タイミング。
全部を音で測っている。
つまり。
音がないということは――
“死角だらけの世界”だ。
普通なら、そうだった。
だが。
次の瞬間。
アシュレイの中で、別の感覚が目を覚ます。
◆
静かだった。
あまりにも。
世界から、“雑音”だけが消えていく。
風も。
砂も。
無線も。
余計な情報が全部削ぎ落ちる。
視界だけが異様に鮮明になる。
銃口の揺れ。
砂嵐の流れ。
熱源の歪み。
全部が、見える。
(……集中できる)
恐怖より先に、脳が喜んでいた。
アシュレイの口元が歪む。
「はは……」
一拍。
「なんだこれ」
隣の傭兵が何か叫んでいる。
聞こえない。
だがもう、どうでもよかった。
アシュレイの脳は、“必要な情報だけ”を拾い始めていた。
砂嵐の奥。
熱源の揺れ。
わずかな影。
砲身の角度。
履帯の沈み込み。
(……いた)
一拍。
(――これ、撃てる)
音がなくても撃てる。
むしろ。
“無音のほうがいい”。
アシュレイはゆっくり息を止めた。
世界の中心に、自分だけがいる感覚。
引き金を引く。
――閃光。
音はない。
だが数秒後。
遠方で巨大な火球が上がった。
敵砲兵隊。
弾薬車両誘爆。
炎が砂漠を赤く染める。
アシュレイは静かに立ち上がった。
(……狙撃音が聞こえねぇってのは)
一拍。
(逆に便利だな)
◆
無線は完全に死んでいた。
だが問題じゃない。
今、砂漠全体が“音のない戦場”になっている。
後に《無音の夜(Silent Night)》と呼ばれる事件。
その始まりだった。
そして同時刻。
砂漠中央走廊。
アシュレイは、砂嵐の向こうで“何か”が動く気配を感じた。
(……誰だ?)
スコープを向ける。
三キロ以上先。
普通なら見えない距離。
だが。
見えた。
敵陣中央。
そこだけが不自然に崩れている。
兵士が吹き飛ぶ。
射線が乱れる。
装甲車が止まる。
そしてその中心を。
一つの“黒い影”が駆け抜けていた。
(……またあいつか)
後衛壊滅の時に見た影。
中央突破した怪物。
だが今は、さらに異常だった。
音がない。
なのに。
あの影だけは、“音を置き去りにしている”みたいに見えた。
敵陣の中心へ一直線。
迷いなく。
恐怖なく。
呼吸みたいに戦っている。
(……単独で中央攻めてんのか?)
(正気じゃねぇ)
だが。
アシュレイは気づいてしまった。
(……俺と同じだ)
戦場の呼吸。
タイミング。
感覚。
言葉じゃない。
理屈でもない。
“戦場の中でだけ通じる感覚”。
あの黒い影は、それを持っている。
アシュレイは無意識に笑っていた。
「面白ぇな……」
◆
その瞬間。
遠距離スコープ越し。
ほんの一瞬だけ。
黒い影がこちらを向いた気がした。
アシュレイの目が細くなる。
「……気のせいか?」
三キロ以上離れている。
普通なら絶対に見えない。
だが。
なぜか確信した。
あいつは、“こっちの存在”に気づいている。
アシュレイは小さく笑った。
「ははっ……」
一拍。
「いいじゃねぇか」
新しい標的。
敵後方指揮官。
南走廊へ再集結命令を出そうとしている男。
喉元へ照準を合わせる。
そして。
――閃光。
音はない。
だが敵指揮官は崩れ落ちる。
後方部隊が混乱する。
再集結が止まる。
ほんの数十秒。
だが、戦場ではその数十秒が命を分ける。
アシュレイはスコープ越しに呟いた。
「そっちが戦況を変えるなら――」
一拍。
「俺は、戦場ごと撃ち抜く」
◆
南走廊。
黒い影の周囲には、七つの影。
八人。
たった八人で、戦線を押し広げている。
アシュレイは笑った。
「ゼロ班、ねぇ……」
隣の傭兵が叫ぶ。
「おいケイン!!
何笑ってやがる!!」
「いや」
銃身をわずかにずらす。
次の標的。
「面白ぇ奴らがいると思ってな」
「こっちは戦場だぞ!?」
「知ってるよ」
一拍。
「だから面白ぇんだろ」
――閃光。
また一人、敵指揮官が死んだ。
ノアとアシュレイ。
まだ互いの名前も知らない。
南走廊。
黒い影の周囲には、七つの影。
八人。
たった八人で、戦線を押し広げている。
アシュレイは笑った。
「ゼロ班、ねぇ……」
隣の傭兵が叫ぶ。
「おいケイン!!
何笑ってやがる!!」
「いや」
銃身をわずかにずらす。
次の標的。
「面白ぇ奴らがいると思ってな」
「こっちは戦場だぞ!?」
「知ってるよ」
一拍。
「だから面白ぇんだろ」
――閃光。
また一人、敵指揮官が死んだ。
音は、最後まで聞こえなかった。
銃声も。
悲鳴も。
爆発も。
ただ、光だけが砂漠を裂いていく。
アシュレイはその無音の世界で、静かに笑った。
「……悪くねぇ」
普通の兵士なら、恐怖で壊れる夜。
だが彼にとっては違った。
余計な音が消えたことで、戦場はむしろ鮮明になっていた。
見えない敵の位置。
乱れる熱源。
砂の流れ。
砲身の角度。
全部が、前よりもよく見える。
その時。
遠く、南走廊の黒い影が、また一つ敵陣を裂いた。
敵を撃つ瞬間。
あの影は、一度も“止まらない”。
普通の兵士は撃つ時、必ず動きが止まる。
狙うからだ。
確認するからだ。
だが、あの黒い影は違う。
まるで“次の動きの途中で撃っている”。
戦闘が、呼吸として繋がっている。
アシュレイはスコープ越しに呟く。
「……お前もか」
あの影もまた、この異常な戦場に適応している。
音が消えた世界で。
普通の人間が立ち止まる世界で。
あいつだけは、むしろ速くなっている。
「ははっ……」
一拍。
「やっぱ人間じゃねぇな」
アシュレイは銃を担ぎ、砂丘の稜線へ身を沈めた。
無線は死んだまま。
味方の声も届かない。
命令もない。
撤退指示もない。
だが、もう必要なかった。
この無音の砂漠で、聞こえないはずの“戦場の呼吸”だけが分かる。
そしてその呼吸の先に、あの黒い影がいた。
――《無音の夜》。
それは、兵士たちから音を奪う夜ではなかった。
音を失ってなお戦える者だけを、戦場へ選別する夜だった。
アシュレイ・ケインは、この夜に理解する。
自分はまだ、壊れていない。
ただ――この戦場に、適応し始めているだけだ。
遠くで、音のない爆発がまた一つ咲いた。
赤い火球が、黒い砂漠を照らす。
その光の中で。
アシュレイは、まだ名も知らぬ黒い影へ向けて、静かに笑った。
「先に死ぬなよ」
返事はない。
聞こえるはずもない。
だがなぜか、その言葉は届いた気がした。
《無音の夜》は、まだ始まったばかりだった。
――次回更新:明日17:30公開予定
ここまで読んでいただきありがとうございます。
少しでも面白いと感じていただけたら、ブックマーク・評価・感想で応援していただけると嬉しいです。
『ゼロバレット』続編、第45話「砂漠の呼吸 ― アシュレイ視点③」――
をお楽しみに




