その20
誰を殺す気なのか?
僕は誰も殺さない。殺すわけがない。殺す理由がない。殺したくなんてない。
心の声を言葉に変換できないまま、力任せにぶんぶんと首を振る。質問したのは僕の方なのに、質問返しなんて狡いじゃないか。
僕の心中にある反駁が聞こえたのか、凛然寺が意を決して切り出した。
「私たちは過去の犯罪者を裁くためにここにいる」
「え、あ、はい」
「この作戦は秘密裏に行われている。国民全員の賛同を得ることは無理だし、ましてや正当化もできない。だがルールはある。相手が凶悪犯であること、冷静な観点において人道的に見逃せないものが大前提だ。私たちが扱う事件はほぼ百パーセント、複数を殺害した悪辣な犯罪者を対象とする」
凛然寺は二本の指を立てた。ピースサインではなくピストルの形だった。
「殺人犯は大きくふたつに分かれる。事情が絡み合い、何らかの繋がりを持つ人間同士のもつれから起きる、いわゆる動機のある一般的な殺人」
「はい」
「だが自分と接点のない者を殺す奴がいる。それが快楽殺人だ」
ネロの言葉を思い出す。
人は必要に迫られて殺すか、楽しいから殺すかの二択である。
「私たちは歴史を変える権限を持たない。歴史改竄に対するモラルとして、どんな被疑者であっても、被疑者が子孫を残さないと確定するまでは死刑執行しないと決めている。犯罪者の遺伝子を継ぐ者が犯罪者になるとは限らないし、罪は本人のものだ。だが明日以降から、右輪はどの女性とも接触しないと報告されている。つまり今日を境に子孫を残す可能性はゼロだと断定した。右輪は一年半後、あの汚いアパートで孤独に病死する」
「だから今日なんですか」
ようやく合点がいった。どうして一人目の殺人が発覚した時に、すぐ刑事処分を考えないのだろうという疑問が解消した。
凛然寺がほんの少し顎を引いて肯定する。
「だが例外がある」
「例外?」
「歴史に欠かせない偉人や大人物を殺害する者が、稀に現れる。それが歴史に支障をきたすと判断された場合には特例が起用される。いつ如何なる時も、被疑者の死刑執行を厭わないという項目だ」
「はあ」
突如、世界観が拡大して僕は呆気にとられた。
「なんというか……例えるなら……ええと……織田信長を殺した明智光秀なら、いつ、どの過去に戻って彼を成敗してもいいというルールですか?」
「それとは違う。本能寺の変は殺人ではなく信長の自刃とされているし、すでに認められた決定項だ。特例は決定事項から外れた殺人が起きた場合に適用される。今の例を引用するなら、斉藤道山が若き織田信長の首を討った場合は、いつ如何なる場合でも道山の命を狙ってもいいルールになる」
僕はうろ覚えの歴史教科書を思い出していた。あまりピンと来ない。
「それって、誰が決定事項を下すんですか?」
「未来の人間だろうな」
「や。だからそれは誰なんですか」
「馬鹿か。私が知るわけがないだろう」
憤然とした口調で抗弁する。まさに逆ギレだ。凛然寺は座席シートにつけた指先を動かして、黒板に記すように時系列を指し示す。
「私たちは過去に戻り、右輪の処遇に関与した。右輪にとっては私たちが未来人ということだ。そして右輪を刑罰に処すると決定したのは、責任者である北大岡家になる」
「ということは、特別措置を発令するのは未来の司法機関ってことですか」
「可能性は高い」
「なんか壮大ですね」
僕はほうと溜息をついた。
ちょうど真後ろに座るネロが、行儀悪く、がんがんと足でシート裏を蹴ってくる。
「おいポチ。他人事じゃねーぞ。お前のことだかんな」
「はい?」
「お前に特例が適用されてんだっての」
「え……」
僕は会話をうまく解釈できなかった。ゆるりと振り返ると、ネロは可笑しそうに顔を崩して高らかに哄笑を響かせる。
「お前は未来で大人物を殺す可能性があるんだとよ。すげえなポチ。ただの犬じゃねーのな。侮ってて申し訳なかったって感じだわ俺」
「え、いや、僕は誰も殺したり……」
「今はな」
ネロが面白がって身を乗り出してくる。
「今の話じゃねーよ。いつかな、未来な、将来のお前がやるんだぜ。おいおい誰なんだ。誰を殺すか教えろや。世界的な偉人か? 日本の奴か? その辺のちんけな一議員とかってレベルじゃないぜ。国の転換期に関わるような傑人を殺すんだぜ」
「やめろネロ。まだ決まったことじゃない。可能性があるだけだ」
凛然寺がネロの尖った耳をぎゅうとつまみあげる。
ネロが大袈裟に騒ぎ立てるので、欠伸を漏らして暁が起床した。目を擦ったあと両手の指で円を作り、それを突き出して「おっはー」と呟く。
その長閑な空気とは正反対に、凛然寺の剣呑な眼差しが僕に突き刺さった。
「あの刺客は特例において、初期の疑いで派遣される型のものだ」
「刺客って……さっき攻撃してきた、正体不明の黒い……」
凛然寺がこくりと頷く。
「あれは第一次の牽制に等しい。未来のお前がいつか本当に、世界における重要人物を殺害すると司法が認めたら、もっと恐ろしい部隊がやってきて、お前を襲う」
ぞっとする。凛然寺の淡々とした語り口に真実味が宿る。他人の不幸が楽しいのか、ネロが豪快な身振り手振りでシートを叩いて喜びはしゃいだ。
「ウケる。ウケる。いずれ殺されるんか、ポチ」
「ちょべりばーちょべりぐー」
暁が拳をあげて無邪気に騒ぎ立てる。
「響子にバレたらお前、一生手錠されて監禁されっかもしんねーよ?」
「そんな……」
「それだけじゃあ済まねーな。響子のことだ。市中引き回しの刑とか言い出して、日本橋からスタートして東海道中を引きずり回すかもしんねえ」
「それ、市中を超えてるじゃないですか」
「東海道引き回しの刑だ」
「そんなのありません」
「派手好きな響子ならやりかねん」
「でもまさかそんな……」
ないとは言い切れない。北大岡響子の人格を詳細に知らないけれど、何となく、あの風貌から察するに、激しい拷問を好みそうな気がする。
痛みを想像して一気に全身の血が引いた。先ほどの恐怖が蘇り、耳元で半鐘を鳴らされたような頭痛と眩暈に襲われる。
「ポチ、困ってるんか。助けて欲しいんか?」
僕は返事をためらった。
どう答えていいのか、何が起きているのか、正確に認識できていないのが実情だった。
「無視しろ。耳が腐るぞ」
凛然寺は目を伏せ、もてあました指で発信器を解体し始めた。かちゃかちゃと硬い音を立てながら器用な指運びでパーツを外してゆく。
「うるせーよ、凛然寺。これも司法取引じゃねーか」
「黙れ。司法取引は違法だ」
「何を今さら。そもそもこの任務が違法だろうよ」
ネロはけらけらと軽薄に笑った。砂粒程度に空気は和んだものの、先ほど脳に刻み込まれた光景が頭にちらついて離れない。
この世のものとは思えない人外の生命体に襲われて生き延びたことが奇跡だ。ふたりが倒してくれなかったら――防護壁がなかったら――その時、僕はふと思い出した。
「あの、さっきの、黒い壁は何だったんですか? 簡易トイレみたいな」
「あ? 暁のことか?」
ネロの声に反応し、小動物が耳をそばだてるように暁の首がちょこんと飛び上がる。
「さっき僕を守ってくれた金属の盾は何だったのかなって」
「だから暁だろ?」
「え」
僕は丸く愛らしい容姿の女児を凝視した。暁だけに。いやそうじゃなくて。
狭い車内の隙間を縫って暁が座席移動してくる。シート上部をくぐり抜ける際に、まさに動物に劣らぬ柔軟性を活かしてもぞもぞと這ってきたのだった。
暁は僕の胸元に鼻先を近づけて、くんくんと何かを嗅ぎ分けている。
「え、ちょ……」
「にょん。許してちょんまげ」
暁が僕の腰骨あたりをくすぐる。何してんだ。僕が身を捩って逃れようとすると、暁が潰れたパンを高々と掲げてニカっと笑った。
「パン、獲ったどー!」
「没収」
すかさず凛然寺がパンを横から奪う。暁はのそのそとした動きでネロの膝上まで戻り、頬を膨らませて「ゲロゲロ」と蛙の鳴き真似で抗議した。これも死語かもしれない。
凛然寺は包装紙を破ると、半分に千切ったパンを暁に与えた。暁の顔が健康な血色に華やぎ、両手で掴んだパンを大胆な歯形をつける。
半分になったパンをまた半分に千切り、凛然寺から手渡される。
もともとは僕の非常食だけど、そこには敢えて触れなかった。四分の一になった残りのパンを食い入るように見つめ、涎を垂らしている者がいる。ネロだった。
凛然寺は無表情でネロの鼻面を殴った。殴ったように見えた。ネロの口腔に残りのパンを押し込んだらしかった。ネロがパンを嚥下するまで掌で口許を塞ぐ。まるで根比べかのように負けまいとする意思が全身から滲み出ていた。逆の手で後頭部を押さえているので逃げることもできない。ネロは呼吸困難すれすれになりながらパンを呑み込んだ。
「それ、拷問ですか」
「これが刑務官の食べさせ方だ」
「んなわけねーだろ! 訴えるぞ」
ネロが狭い車内でじたばたと暴れたが、凛然寺が警棒に手を伸ばすと、掌を返したように態度を改める。凛然寺は口許に勝ち誇った笑みを浮かべた。
悪夢にうなされた夜に味わうような倦怠感が全身に広がる。僕は今の自分と未来の自分と右輪を重ね合わせていた。
右輪は七人を殺害した凶悪犯だ。
被害者たちを救うために、凶行前の右輪を抹殺すればいいと本気で思っていた。
遺族の苦しみと悔しさと無念を思えば、それが当然だと。
右輪の子孫など、はなから計算外だった。
つくづく実感した。僕は考えが浅い。なんと未熟な正義感だろうと自嘲する。
僕は先ほど正体不明の『何か』に襲われた。
急襲の理由は、未来の僕が殺人を犯すかもしれないからだ。
神に誓える。僕は殺人などしていないし、する気もない。
潔白である僕を殺すのは不条理だと、未来の司法機関に怒鳴りつけたかった。道を踏み外す可能性ならば誰にでもあるし、形のない邪推で抹殺されてはたまらない。
そうして気づいた。
僕が、犯行前の右輪を亡き者にしようと考えたことと、まるで一緒だということに。
被害者は、危険に遭うまでは「安全に暮らす一般人」に過ぎない。
だが加害者も、罪を犯すまでは凶悪犯ではないのだ。




