その21
現実の自分。過去にいる今の自分。未来の自分が起こす行為で制裁を受ける自分。
どれも自分なのに実感が伴わない。夢を見ているだとか、映画の主人公になりきっているだとか、いずれにしても誰かの疑似体験をしている気分だった。
僕は検事を目指す、ただの無力な十六歳にすぎない。
正義の味方でもなければ、偉人を殺す悪魔でもないのだ。
ぎゃあぎゃあと騒ぐネロと暁の声が街の喧噪にまぎれる雑音に感じた。どこか遠い場所で響く潮騒のようで、自分とは無関係に思える。車窓から覗く空は青く、外界は熱気に満ちていた。冷房の効いた車内は涼しいけれど、外はきっと蒸し暑い。
たった扉一枚を隔てるだけで世界が変わる。
扉をくぐるだけで一変する。
ネロの言葉を脳裏で反芻した時、運転席のマーシャルが静粛を促す合図を送ってきた。
「し!」
途端に車内が静まる。冷房のうなりが汽笛に聞こえるほどの静寂だ。
「右輪が帰ってくるでし」
「用意はいいか?」
凛然寺の確認に、僕以外の一同が揃えて首肯する。神妙な空気に気圧されてごくりと息を呑み、僕はフロントガラスに視神経を集中させた。先ほど敷地から出ていった身なりの汚い無精ひげの男が、ひょこひょこと身体を揺らして戻ってくる。筋張った足首が腐った枝みたいだ。白いビニール袋を下げている。中身は弁当だろう。
「いっちょやるか」
ぺろりと舌なめずりすると、ネロは蹴り上げる勢いで扉を開けた。扉の開放と同時に外へ飛び出し、抱えていた暁を遠投の要領で空高く放り投げる。
「暁!」
「ガッテンしょーちのすけ!」
体操選手顔負けの柔軟性と身体能力。暁は膝を抱えてぐるぐると回転しながら上昇していった。そんな中でも両手で作ったピースサインをこちらに突き出してくる。
五メートル近い上空に達すると、暁の身体がぐにゃりと歪んだ。かと思うと液体状に溶解して薄い膜に変形する。粘ついてはいない。網か布に似ていた。
僕は目を瞠った。自分の頭を疑った。何が起きたのか理解できなかった。
「行くぞ」
凛然寺に引きずり出される格好で外に出る。
腰が抜けそうだ。人間が、子供が、小動物のように愛らしい暁が、溶けて、右輪や車を含めた僕たちを包み込むドーム状の布になった。世界の内と外を遮断したみたいだった。
未来から来たという黒い刺客から僕を守った盾は本当に暁なのか。
人が物質に変化するなんて聞いたことがない。今日は目まぐるしく本当にありえないことばかりが立て続けに起きる。だがこれは実際に目の前で起きていることなのだ。
「立て。しばらく空間を閉鎖した。裁判を始めるぞ」
「え。え、ちょ」
「仕方ない。そこで待機しろ」
動けない僕を放り捨て、凛然寺がネロを率いて突進してゆく。
音は聞こえる。声も聞こえる。風景は歪んでいない。けど、ほんのり薄暗い気もする。射し込む光が、暁という膜と屈折を起こして影を作っているのかもしれない。
ネロは意地悪そうに笑んで、右輪から買い物袋を強奪した。突然の横暴な態度に驚いた右輪が顔を曇らせて軽く抵抗する。しかし凛然寺が素早く屈み込み、大きく足を振り払って右輪の脛を蹴った。右輪はあっさりと転倒した。
「確保しろ」
「あらよっと」
仰臥する右輪に馬乗りになり、ネロは平手を一発打った。そして襟首を締め上げて、力任せに起立させる。右輪の口から血液が一筋垂れた。萎れた花のように枯れた身体が、だらりとぶらさがる。人形みたいだった。凶悪犯の姿は無様で滑稽だった。
凛然寺が顎を振ると、ネロは自慢の剛力を使って右輪を地面に叩きつけた。手錠を使わない方針なのか、逃亡能力なしと判断したのか、捕縛する用意はなかった。
凛然寺が黒いマントをばさりと翻す。
「右輪折彦だな。貴様に七件の殺人容疑がかかっている。何か申し開きがあるなら聞いておこう。それを上告とみなす」
「おえ、うあや」
右輪は体育座りをして膝を抱えた。咳き込んでいるのか、状況を嘆いているのか、観念したのか、どうにも判然としない発声だった。
僕はようやく冷静になり、慌てて凛然寺の脇に並んだ。噴き出した冷や汗を腕で拭い、右輪という男をまじまじと検分する。
間近で見ると四十代に見えなかった。どう見積もっても十は若く見えた。顔にも態度にも威厳がなく、責任感の欠片もなく、薄汚れたシャツや黒ずんだ肌には清潔感がない。だらしなく半開きになった口許が忙しなくあわあわと動く。歯が何本か抜けていた。
二秒の猶予を与えた凛然寺は、靴音を鳴らして直立しなおす。
「ないようだな。スキャンしろ」
「承知でし」
マーシャルが屈むように上半身を縮め、映画館で途中退席する人影のようにどうもどうもと手刀を縦に揺らして横切ってゆく。地面に片膝をつき、右輪の姿を隠すように覆い被さった。眼帯を外して何かをしているが、僕からは死角になっていて見えない。小声で会話しているようだ。今さら会話で情報を読みとるというのか。
「脳内を解析して記憶を抽出する。それを自供と見なし、証拠と見なす」
僕の心を察したのか、凛然寺が手短な説明をくれる。
読みとった記憶をマーシャルが保存するのか。他に考えられる意味はないように思う。 暁は物質になれる。
ネロと凛然寺は時間を移動した。
マーシャルは特殊書記という記録係なのだから、恐らく彼も人ならざる力を持ち、この裁判に必要不可欠な人材なのだろう。
「さて」
凛然寺は毅然たる立ち振る舞いで僕に首を向けた。用事を終えたマーシャルは再び、謙虚な動作で下手に戻ってゆく。
「特殊チームは右輪折彦の素行を調べ、証拠を掴み、量刑に導く権限を授かっている。例え警察から逃れようと、私たちはあくまで適切な刑罰を追求する。さきほど右輪折彦は七件の殺人を認めた。では改めて特殊検察官に確認する。起訴か不起訴か」
「え。あ、被疑者が認めたっていうか、僕、何も見せてもらってませんけど」
「特殊裁判は通常の裁判とは異なり、基本的に控訴を省く。右輪の上告はなし。起訴が決定すれば求刑通りの執行へと移行する」
僕は右輪を見た。
目がどんよりと曇っていた。生きる意思すらなく、どこか諦め悟った雰囲気で、この謎の多い逮捕劇にさえ疑問も抱かない。僕を見ているのに見ていない。右輪の曖昧な視線は焦点が定まっていない。世捨て人。その名に相応しい面貌をしている。
僕は拳を握り、小さく息を吐いた。
「まだ……迷ってます」
「遺族の気持ちになって考えろ」
「考えてるつもりです」
「つもり、か」
凛然寺が舞台役者のような仕草でマントを払う。普段よりきつめの語調に射抜かれ、迫力に圧倒される。尖鋭した目が怖いくらいに研ぎ澄まされていた。
右輪は生きる屍だ。放っておいても一年と少しで野垂れ死ぬ。それを知っているのに断罪の決定を下せというのか。だが現実の検察はそれをやってのける。被告の病気や無気力な態度と刑罰は無関係だ。――現実ならば。
凛然寺は眉ひとつ揺らさず、眼球だけを動かして一瞥をくれた。
「では証拠を提出する」
「承知でし」
マーシャルが明瞭な声で了解を示し、素早く僕の右手を眼帯の中に滑り込ませる。
乾いた皮膚の質感に一瞬怯んだ。僕を逃がさないよう手首をがっちりと握って固定し、マーシャルの空いた右手は僕の胸部に添えられる。ちょうど心臓の位置だった。
「ひとりめ、巡河曜子さん二十一歳主婦」
感情を殺した起伏のない口調で凛然寺が読み上げる。
すると頭の中に映像が飛び込んできた。目は変わらず右輪や凛然寺を捉えているのに、もうひとつの世界が視界の端で同時に展開する。テレビ画面を二台並べて同時に鑑賞するような形に似ていた。
アパートの敷地ではなく、新たに吹き込まれた不思議な映像に神経を集中させる。
地名も判然としないような、ごくありふれた住宅街の一郭だった。
陽が暮れてしばらく経つだろう、もう少しで完全に闇が浸食する頃合いだ。夏ならば七時過ぎ。冬ならば五時前あたりか。寒冷な空風が道端の塵を巻き上げていた。
人通りの少ない路地の前方にひとり、女性が颯爽と歩いている。がらがらとキャリー鞄を引きずっていた。映像の歩行速度がやや早まる。彼女に追いつき追い越そうとする意思が表現されていた。――恐らくこれは右輪の記憶だ。
「あの、すみません」
愛想よく声をかける。男の声だ。右輪の声かもしれない。
女性はとくに不審を抱いた様子もなく、ゆるりと振り返った。目が合った。丸顔で愛らしい造形をした女性で、化粧気がなく、実年齢よりも若く見えた。
「もにきにてちしいとな」
「え?」
右輪が意味不明な言語を小声で呟く。質問を聞き取れなかった彼女は首を傾げて、少しだけ身を寄せた。その瞬間、
彼女は目を見開き、苦悶に顔を歪めた。腹を殴られたらしかった。映像の視点が少し下がった時、事態が判明した。右輪が彼女の脇腹に刃物を突き刺したのだった。
薄手のダッフルコートを着ていたので、彼女自身も殴打されたのだと勘違いしたかもしれない。驚愕の表情を浮かべながら腹を押さえ、崩れ落ちてがくりと膝をつく。
右輪は彼女の肩と襟口に装着したフードを引っ張って路肩まで引きずった。
彼女は抵抗を試みるが、事態を飲み込めないまま凶行が進むので、混乱し、何をどうすべきなのか、正しい答えを導き出せずにいる。ただただ甲高い悲鳴が口から溢れていた。
地面に擦り付けられた血痕が少量なのは防寒着のお陰だろう。
それに気づいた右輪は、刺さったままの刃物を抜き取り、コートを力任せに引きちぎった。彼女が抵抗する。言葉にならない罵詈雑言を発して泣き喚く。右輪は彼女の顔面に体重を乗せた拳を叩きつけた。悲鳴が一瞬とまった。
その隙に右輪は先ほど刺した箇所を狙って刃物を突き立てた。何度も何度も。人の皮膚や内臓には弾力がないのだと思えるほど、刃物はあっさりと人体を上下した。
彼女が動かなくなったあと、右輪がゆらりと立ち上がる。足早に現場から去ったが、数メートル先で踵を返す。右輪は彼女の身体からナイフを引き抜き、遺体から外した毛糸の手袋で血液を拭いた。もう片方の手袋を外し、それを自分のポケットに突っ込んだ。
右輪は用心深く左右を確認してから軽い足取りで疾駆してゆく。
二度と振り返ることはなかった。
ぶつりと映像が途切れた。映画を見ている気分だ。眼前にいるマーシャルの糸目が真一文字に伸びている。裁判に携わる人間の真摯な表情だった。




