第四部 「赤銅の航海者」 34
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その時、誰かに問いかけられた。
――君はこの結末に満足しているか
私はその問いに首を振った。まだ何も成し遂げていないし、あの人との約束を果たしていない。それまでは満足しているわけがない。他人からすれば他愛もない約束かもしれないが、それが大事な約束になることも世の中には多い。
だから、私は満足できない。
――そうか
問いかけた主はそれだけを残し声は聞こえなくなった。
そして、気づいた時には真っ暗闇の世界に閉ざされていた。
ここがあの世なのかと悟ったがそれは違うと人としての本能のようなものが訴えかけていた。自分の感覚はある。
止まったはずの鼓動もある。
しばらく暗闇でジッとしていると誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。
暗闇に閉ざされた世界に差し込む一筋の光のようにその声は響き渡り、光は暗闇を明るく照らし返した。
「ビスマルク! ビスマルク!!」
懐かしい声が聞こえる。
最期に聞きたかったと思っていたあの声が聞こえてくる。
そこに来てようやく自分が眠っていたことに気付いた。
重く閉じた瞳を開けると眩しく目がくらんだ。
「ビスマルク!」
「ここは……。あなたは……」
視界がゆっくりと明確になり、影しか見えなかった人が明瞭に映る。
「あなた……! どうして」
何事かと首を動かしたとき自身の長い髪が目の前に垂れてきた。記憶にあるのはプラチナブロンドの金髪だった。しかし、目の前に垂れている髪色に血の気が引くのを感じた。
「な……。なによこれ……!」
「大丈夫なのか」
目の前にいる男はそんなこと気にしていないようだが、自分には納得できない。
あり得ない。
どうして。
「ビスマルク。あなた落ち着いた方が良いわよ」
彼の後ろにいたのは黒髪のドイツ人の少女がいる。
自分にはその二人の名前が分かる。
ひとりは同じ《戦人》のシャルンホルスト。もう一人はロシアで決別を決めた艦長になるかもしれなかった男だ。
榮倉大和。
榮倉の存在がビスマルクの未来を左右したと言っても過言ではない。
そんな二人がビスマルクの介抱をしていた。
ただ、ビスマルク自身には現実が全く理解できない。そもそもここが現実なのかということすら疑問を抱いてしまう。
目覚める前までは自分の髪色は金色だったはずだ。
それがこんな真っ白な色になっているのは理解できなかった。
「なんなのよ……。私はいったい……」
記憶を巡らせるが曖昧な記憶しかない。
誰かが近寄ろうとしてそれを蹴散らした、その程度の記憶しか残っていない。
「こっちが聴きたいくらいだ。だけど……。よかったよ無事で……」
榮倉は満面の笑みで微笑みかけてくれるが状況がつかめない以上は素直に喜べなかった。
「シャルン……。どうして私は……。何があったの」
「何も覚えていないみたいね。周りを良く見て観なさい」
シャルンにそういわれてから初めて周りの状況に気付いた。
ここが戦艦『ビスマルク』の艦橋内であり、外は赤い空と雲に覆われ、泥のように黒い海が広がっていた。そんなおぞましい世界の中心にいたのはこの私だった。空には無数の航空機が飛び交っていて迎撃しているのは日本機だ。ビスマルクに横付けするように停泊している二隻の戦艦は『紀伊』と『シャルンホルスト』だ。
それだけわかれば状況はある程度掴める。
この榮倉大和とシャルンホルストはビスマルクを助けに来たのだ。
「なんで、私なんかを……」
ビスマルクの記憶の中にはっきりとしたものが流れてくる。
彼らが来るのを見て追い返した。その際に一隻の巡洋艦を沈めた。そんな記憶だけが明確によみがえった。
「私は、助けられるような……」
「何を言っているのかしら。艦長はあなたを助けに来たんじゃないわよ。助けられたかったのならもうちょっと素直な人間になりなさい」
「そ、それは……。あなたには言われたくないわね」
「うるさいわね! それより帰るわよ!」
「帰るって……?」
「良いから! あなたは本当に鈍いわね!」
「まあ落ち着いて」
ビスマルクの手を引こうとしたシャルンを引き留めたのは榮倉だった。
彼の身体には包帯が巻かれており、足には義足のような機械を身に着けていた。ドイツに行くことを決めた時にはもう歩けるようになったと聞いていた。
「あなた、怪我治っていないじゃないの」
「さすがに気づいたか。ウソをつくのは気が引けたんだけど、ビスマルクとドイツに行ってみたくてちょっとな……」
「バッカじゃないの! どうしていつもあなたはそうなのよ! いつもいつも後先考えないでこんなことばかりして……。そんなことされたらもう、私は……。私は……もう」
途端に涙があふれてくる。
歯止めが利かなくなる。
「シャルンと一緒に行くって決めたんだったらこの私なんか放っておいてくれればいいのに……。そんな気遣いされたら」
「それでもシャルンの友達だから……」
まっすぐと榮倉はビスマルクを見てくれる。
そして、はっきりと言う。
「それにビスマルクの居場所はこんな寂しい海なんかじゃないだろ?」
「バカぁ……」
ビスマルクは榮倉の胸に飛びついた。
ロシアで出会った時と同じ匂いだ。
そこで初めて自分がまだ生きているということを実感した。暖かいぬくもりを感じる、匂いがする、肌の感触がある、すがりついた服がこすれる音が聞こえる。五感全てに生命があることを証明していた。
一度は死にかけた。
いや、死んだはずだ。
その過程で何が起こったのか理解していないが、ビスマルクは死ぬ間際に満足していない、まだ死にたくないと思った。それがこのような形で叶うとは思いもしなかった。
暗闇にいたビスマルクはずっと怯えていた。
どこかも分からない異空間に閉ざされ、自身の肉体の感覚すら希薄で曖昧な世界には何もなかった。
ビスマルクはずっと怖かった。
人が何かを恐れるのと一緒でビスマルクは暗闇が怖かった。
そんな時にこの人は来てくれた。
おこがましく助けに来たなんて言わずに。
ただ「帰ろう」とだけ言った。
ビスマルクは恐怖を吐き出すように榮倉にすがり、子供のように泣いた。
「まったく……。艦長はキザなのね」
シャルンはビスマルクの頭を撫でながら瞳に涙をためていた。
彼女もまたビスマルクの帰りをずっと待っていた。口喧嘩で別れることになったことを後悔していた。
シャルンは精一杯の笑みを浮かべて告げた。
「おかえり」




