第四部 「赤銅の航海者」 21
「ビスマルク」
「え?」
シャルンの表情が高貴な顔から路地裏のストリートにいる子供のようになって固まった。その一言で思い出したくない記憶がよみがえり、その瞬間に思った感情が洪水のように溢れてくる。
「おい、フッド……」
「大丈夫だ」
「大丈夫って……」
あまりに実直な言葉に榮倉だけでなく菜月とアリシアの二人も硬直する。彼女たちはシャルンの様子を間近で見てきた。それだけにこの問題に関しては慎重になっていたはずだが、突然現れたイギリス人によってあっけなく口にされてしまった。
シャルンは溢れる嗚咽をこらえながら嫌な記憶を蘇らせたイギリス人をにらむ。
「あなた……。嫌がらせに来たのかしら……! もしそうならこの場で殺す!」
シャルンはテーブルに立ててあってボールペンを手に取るとフッドに向けた。
「僕は至って真面目に話をしているんだ。イギリス人は人を滑稽にするのは嫌いなたちだからね」
シャルンは歯が砕けそうになるくらいに奥歯を噛みしめながらボールペンを激しく床にたたきつける。
「だったら何なのよ! この私にそんな記憶を蘇らせてあなたはこのシャルンホルストをどうしたいのよ!」
「君はあのビスマルクと友人だったのだろう?」
「そうよ! あの子はこの私の友達でライバルであって! ずっと近くにいたのよ!」
「その友人を助けたいとは思わないかい?」
「ふざけているの……? 死んだ友人をどう助けるのよ」
シャルンの表情はぐちゃぐちゃになっていて目の前のイギリス人を睨む瞳は零れ落ちそうなくらいに見開かれていた。
「ビスマルクはまだ死ねていないと言ったらどうするんだい?」
「は? 意味が分からないわ。死体は確認されたしそれを確認したのはフランス警察で、死亡したことは間違いないんじゃないかしら! これ以上冗談を言うようならこの場であなたを殺すだけよ」
頑固な意思を持ったシャルンにフッドは大きなため息を漏らす。
榮倉自身も彼女の話はいまだに半信半疑だ。
彼女の推測が当たっているか当たっていないどちらにしても博打にも程がある。ただ、戦場では博打をしなければ勝てないということは多くあった。これまで榮倉自身も博打を打ったことはあり、その恩恵を受けてこの場にいる。
フッドは意地になっている小学生のようなシャルンに予想もしない言葉で言った。
「情けない」
「なんですって?」
「情けないといったんだよ。いつまでも足元ばかり見ていて、とっくに回りに先を越されていることに気付かないのかな? 君が情けなくここに籠っている間にあなたの艦長は戦っていたし、あなたもよく知っている紀伊だって参加しているんだよ。リスクを承知でね。それなのに私が一番だ、と自負している赤銅の『幽霊船』は何もしないなんてドイツ人って大したことないんだね。もういいよ。あなたにビスマルクを救うなんてことはできないんだね。君には荷が重かった。こっちで何とかするから。あなたは部屋に籠っていればいいんじゃ――」
「ふっざけんじゃないわよ!!」
初めてシャルンが本当の感情を露わにした。
高貴さを見せようと涙を見せなかったシャルンが初めて人前で大粒の涙を流していた。最愛の友人を殺害され、最後の会話はいつもの喧嘩別れだった。もっと友人を気遣えるような言葉は十分に浮かんでいたはずだ。だというのに高貴さを装うあまりに友人との別れは辛いものになった。
「あんたはどんだけビスマルクのことを知っているか知んないけどさ! あたしはずっと昔から一緒にいんのよ! 《戦人》になる前からも! あんたなんかより長く一緒にいたんだから! あんたなんかにこのシャルンホルストの気持ちがわかるのかしら!」
「わからないよ」
「でしょうね! あなたと私では過ごしてきた時間が違う!」
「ただ」
「何よ」
「ビスマルクがどれだけ悔しい(怖い)思いをしていたかは伝わったよ」
「……。」
「ぼくは砲撃を受ける直前に雲の合間から見えたんだ。あの船の姿が……。そして感じたんだ。その時の恐怖を……」
「あなたは……。本気なのかしら……」
「ああ僕はいつでも本気だよ」
「あなたは以前ビスマルクに沈められたのよ。その思想は残っているはずよ」
戦艦『フッド』と『ビスマルク』には強い縁がある。当時対立していたドイツ海軍は『ビスマルク』と寮艦の巡洋艦とイギリスの商船からの補給を断つためにとグリーンランドとアイスランドを挟んだデンマーク海峡に向かっていた。
攻撃を察知したイギリス海軍は迎撃するために二隻の戦艦を主力にした迎撃部隊を編成し、デンマーク海峡で会敵した。
そのイギリスの主力戦艦の一隻が『フッド』だ。もう一隻の戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』と攻撃を開始しようとした矢先に『フッド』は『ビスマルク』から放たれた砲弾が運命的に弾薬庫に命中し、十分もかからないうちに海の藻屑となった。その先の展開は言うまでもない。
そのような歴史があるのなら当時の乗務員の後悔の念は強く残っているはずだ。『ビスマルク』に対してだけじゃなく、ドイツに対して彼女がよく思っていないはずだった。
しかし、思想が強く残っていたとしてもそれをどう受け止めるかは個人次第だ。
中には彼女のように過去は過去だと切り捨てる者もいるのだ。
「史実なんてものに僕は興味がない。ただ僕は彼女を苦しめたままにしておくのは見ていられない。たとえ昔のことがあったとしても」
沈黙がしばらく流れる。
「英国の淑女らしい高潔さね。あなたにそれだけ言われてこの『シャルンホルスト』も黙っているわけにはいかないってことかしら? いいわ。あなたの口車に乗ってあげる」
「シャルン……」
「か、艦長! 勘違いしないで頂戴ね! この私は売られた喧嘩を買うだけであって……意味なんて!」
「でも、シャルンさん……。いいんですか?」
「安心しなさい。この私は『幸運艦』よ」
フランスに来て初めてシャルンは笑みを見せた。
榮倉は思わず心が揺らいだが冷静を装って聞く。
「シャルン、ちゃんと《戦人》として戦えるか」
シャルンは榮倉をまっすぐ見据えると断言した。
「もちろんよ。艦長」




