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『慶城湖』とは、上水道・農業用水確保の利水の人造湖として、昭和30年代に造られた。
下流地域には水田が多く、また当時盛んだった都会からの工業系企業の誘致のため、町を挙げての一大事業であった。
深い山あいを流れる慶城沢の水は豊富で、曲がりくねった谷地を堰き止めると膨大な水量を得られることから、この地が選ばれた。深さは最大30メートルに及ぶ。
昭和40〜50年代には全国的にレジャーブームが訪れ、この慶城湖も観光地として、大変な賑わいを見せた時期もあった。
管理棟の隣には売店や食堂などが並び、湖面には手漕ぎボートや鳥形ボートが浮かんで、桟橋にはヘラブナの釣り人がずらりと並んでいた。
冬場は標高1000メートルの湖面は厚く凍り、ワカサギ釣りも盛んであった。
山を掘削して整地した場所には、テニスコートが何面も作られ、休日は順番待ち状態になっていた。
松林を伐採して作ったキャンプ場は、小学校の課外行事にも使われていた。
北面のなだらかな斜面には長い林道を設け、別荘地として売り出し、40戸ほどの別荘が建てられ、地帯の一番上には町を一望できる展望台も作られた。
私も小学生の頃は、友人と連れ立って遊びに来たものだ。
しかしレジャーブームは長くは続かず、徐々に客足は途絶え衰退していった。
食堂や売店は取り壊され、管理棟だけが残されたが今や廃屋と化し、窓ガラスは割られたままの惨めな姿を晒している。
脇に立てられた『慶城湖観光開発 03-×××-××××』の白い看板は朽ちて、ススキの穂に埋もれかかっていた。
湖面にはボートの姿もなく、かつて飼われていた白鳥とアヒルの小屋の残骸のみが見えた。
別荘はまだ残っているようだが、大半のオーナーが高齢者だったり亡くなっているので、訪れることもなく見捨てられて廃墟の群れと化している。林間の建物は舞ってくる枯葉や枯れ枝に覆われるので、腐食の進行は速いようだ。
衰退の原因は全国的にブームが去ったという理由は当然あるが、慶城湖に関しては別の要因もある。
この湖が出来る前、慶城沢が流れる谷地には10戸ほどの小さな集落があったという。
人造湖の建設という話が出た時、住民は当然ながら反対の声を上げた。
かつてここには源氏の落武者が住み着き、『慶之城』という小さな城を築き、この地にはその魂が眠っているのだからと。
しかし行政としては、農業の繁栄と企業誘致の両面からどうしても事業を推し進めたいため、かなり強引なやり方を貫いたという。
反対派との協議はまったく進展がないまま、一方で建設は着々と進めていった。
10戸の住民は誰ひとり寝返ることなく、一丸となって反対の意思を貫いたが、とうとう堤は完成してしまう。
そして堤に湛水がはじまったその日から、反対派住民は誰ひとり姿を見せなくなったという。