7-3
放課後、ナツメは生徒玄関で待った。二十分ほど経った頃、朱姫葛が来た。
「お待たせ」
彼女はにこりともせず、玄関を出た。ナツメはその背中を追って学校を出る。
ニュースによると、まだ梅雨は明けていないらしい。けれど、今日の天気は真夏そのものだった。空の青は深く、山の狭間より入道雲が立ちのぼっている。日射しと蝉の声が強烈すぎて、夏服から出た肌が痛いようだった。
朱姫葛はまっすぐに歩いていく。ナツメに道を訊ねるそぶりもない。ヨシヨシ生工の社宅は、それほどに町で知られているのだろうか。それとも。
ナツメは思いきって、ずっと気になっていたことを聞く。
「良々木さんは、パパの会社の関係者なの?」
珍しい苗字だ。一度漢字を目にしてしまえば、ヨシヨシ生体工業と繋げない方が難しいだろう。
「血縁上はそう」
「どういうこと?」
「私の曽祖父が顧問を、祖父が社長をやってる。叔父は支社長らしいね。あんたの父親みたいな、他の支社で採用された社員は知らないだろうけど、あの会社の土台は家族経営なんだよ」
「そうなんだ」
父は、家で仕事の話をしたがらなかった。だから、ヨシヨシ生体工業のことはもちろん、そこで働くどんな人間の名前も聞いたことがない。
「良々木の苗字を継ぐのは、原則経営に関わる直子だけ。他はだいたい婿や嫁に入ることになってる。そういう決まりなの」
「じゃあ、良々木さんは」
あの会社の直系なのか。
ナツメが全部言い切る前に、朱姫葛はこちらを向いた。仮面のような美貌に、僅かながら笑みが浮かんでいた。
「言ったじゃん。血縁上はそう、って。私は例外」
例外って何だろう。
質問する前に、朱姫葛はところでと話を変えてしまった。
「あんたの家には誰がいるの」
「今の時間だと、ママと弟かな」
「そう。弟さんはいくつ」
「十二歳。小学六年生」
「六年か」
くり返して発した言葉にどこか苦い響きを聞き取った気がして、ナツメは前を行く顔を覗く。けれど、いつもの無表情が新しい質問を投げかけてくるのを見ただけだった。
「ここから逃げ出したとして、頼れる人はいるの」
「東京におばあちゃんがいるから、そこに行こうかなって思ってる。電車に乗れるだけのお金もないんだけどね」
「お金はこれからどうとでもなるよ。それより、頼れるのはそのおばあ様だけ? おじい様や、他に親戚は」
「東京のおじいちゃんは死んじゃった。ママの方のおじいちゃんとおばあちゃんは、もっと遠いところに住んでるから、あたしと弟だけで会いに行くのは難しいかも」
「そう」
朱姫葛は相槌を打ったきり、黙ってしまった。
再び、ジワジワという蝉の鳴き声と、むせかえるような熱気が二人を包む。朱姫葛はナツメの少し前を歩き続ける。中学生の女子には珍しい歩き方だと思う。二人で連れ立って歩く時、大抵の子は横に並ぶことを選ぶ。
──何を考えてるんだろう。
ナツメは、彼女のことをほぼ知らないに等しかった。彼女が誰かに自分のことを話すのも、相手のことを訊ねるのも聞いたことがない。時折、授業や課題といった学校生活を送るために必要な話題が発生すると会話をするが、それだけだ。基本的に彼女の言動と関心は、自分一人に完結しているように見えた。
だから、友人たちを避けようとしたナツメを受け入れたのが意外だった。また、町から出たがってるのを言い当てたのにも驚いた。この町がどこかおかしいように、実は彼女にも何か妙なところがあるのではないかと警戒しているのだが、今のところそういう様子はない。ただの変わった子だ。
ナツメは警戒半分、興味半分で口を開いた。
「良々木さんは」
「あのさ。苗字以外で呼んでくれる?」
朱姫葛が思わぬことを言い出して、ナツメは目を丸くする。
「え、名前で呼んでってこと?」
「名前もあんまり好きじゃないんだけど、苗字よりはマシ。朱姫葛とかスイカとか、墨田川とか。よっぽどの悪口じゃなければいいから、なんか苗字以外の名前で呼んでよ」
難しいことを言う。
迷いながら、じゃあ朱姫葛ちゃんでどうと聞くと、それでいいと返ってきた。つくづく変わっている。変わっているだけでなく、ヨシヨシ生体工業を経営する親戚を好きじゃないみたいだ、と察する。
「朱姫葛ちゃんは、どうしてあたしがここから逃げたいって分かったの」
「見てれば分かるよ。この町にいて、逃げたくならないわけがない。ここで育つ子どもは、一度は皆逃げようと思うんだから」
朱姫葛は大したことなさそうに言う。だが、先日小学校の子どもたちの異常を弟と語りあったナツメからすれば、衝撃の告白だった。
「どういうこと。どうして逃げたくなるの」
「死ぬから」
朱姫葛の答えは簡潔だった。
どういうことかと問いただそうとしたその時、ちょうどナツメの家に着いてしまった。赤い三角屋根が目印の、ヨシヨシ生体工業の社宅である。左右を水田、前後を小さな道と用水路に囲まれ、家は今日ものどかな田園風景に抱かれていた。
朱姫葛はさっさと敷地へ踏みこみ、呼び鈴も鳴らさず玄関のドアを開けた。
彼女の背中越しに、階段を下りてくる弟の姿が見えた。その顔が、見慣れない中学生の姿を前にして、戸惑いと警戒を浮かべる。しかし、朱姫葛の方は檜をちらりとしか見ず、靴を脱いで家に上がりこんだ。
「檜、大丈夫だから。この人はクラスメイトの朱姫葛ちゃん」
朱姫葛が名乗らないので、仕方なくナツメが紹介する。これまでやって来たクラスメイトの素行が頭をよぎったのだろう。こんにちはと挨拶する檜の声は硬い。
少女の黒い瞳が、再び弟を映した。
「長居はしないよ」
それだけ告げ、リビングへ入っていく。
ナツメと檜は顔を見合わせ、その後へ続く。入るなり、二人してぎょっとした。
リビングでは、朱姫葛と母が互いに見つめ合っていた。それだけなら普通のことなのだが、母の様子がおかしい。
キッチンから顔を覗かせた母は、無表情に朱姫葛を凝視している。最近の母は、いつ誰が来ても満面の笑みを浮かべて歓迎するようになっていた。だから、そんな母が何も言わず、何の気持ちも見せず、黙って客を見つめている姿が異様に感じられた。
朱姫葛は母に言った。
「あんたがいた場所に案内して」
母は口を利かないまま、踵を返した。
怒ったのだろうか。はらはらと見守るナツメたちの前で、母はキッチンへと引き上げていく。その後ろに朱姫葛が、さらにその後ろに恐る恐るナツメと檜が続く。
母はキッチンの中央で立ち止まり、足元を指さした。そこには、床下収納の扉がある。
朱姫葛がしゃがみ、床に取り付けられた跳ね戸に小さな鍵を差し込んで開ける。すると、もわっとした湿気と土臭さが立ちのぼり、ナツメは顔をしかめた。
檜が身を乗り出して床下を覗きこむ。
「階段だ」
床下収納だと思っていた跳ね戸の下にあったのは、石で作られた下り階段だった。階段の先は暗く、何も見えない。石の黒ずみやふちに苔が生えていることから、かなり昔からあるものだと察する。
母が階段を下りていく。朱姫葛は鞄から小さなライトを取り出し、同じように階段を下りる。ナツメたちは明かりとなるものなど何も持っていないから、置いて行かれないよう朱姫葛についていく。
階段を下りていくにつれ、水の音が大きくなる。下りきった先、朱姫葛のライトが照らす景色を見て、ナツメは呆気にとられた。
行き着いたのは、階段と同じ黒い石でできた地下水路だった。アーチ状に組まれた石の天井は低く、ナツメでも手を伸ばせば触れられる。足元には細い石の道があり、隣を水路が流れている。
石壁には昔明かりを置いたのだろう細工が点々とあったが、長いこと使われていないようで、苔むしていた。真っ黒な煮凝りのような闇の中、朱姫葛のライトが、左手を進んだ先にある石段を上っていく母の背中を照らす。ナツメたちはその後をついていく。
母は、朱姫葛のように明かりを持っていない。なのに、揺るぎない足どりで闇の中を歩いていく。その様子に、やはりあれは母じゃなかったんだと思う。
粗い石の壁が途中で終わり、ベニヤ板に変わる。階段も鉄骨になって、急に新しげな景色になった。
登りきった先で、母らしきものは足を止めた。朱姫葛が彼女の先にあるものを照らす。
そこにあったのは、小さな祠だった。朱の剥げた木製で、神棚のような形をしている。
中央の小さな扉が開いている。中には、黒い毛のようなものを束ねた物体が二つ立っていた。二本足で立つその姿は、まるで真っ黒な藁人形だ。
朱姫葛は人形を手に取る。掌に乗せる時、じくり、と重い湿り気のある音がした。ライトを反射して、人形は瑞々しい光沢を放っている。
「それ、何」
檜が恐る恐る聞く。
朱姫葛は答えた。
「これは女神」
「めがみ」
「そう。元の持ち主が男でも女でも、人の形になれば全部女神」
元の持ち主。
その意味が分からなくて人形を凝視するうち、ナツメは人形のつやに見覚えがあることに気づく。
細く糸のように縒り集まったものが、帯のような光を反射する。その様子は、風呂上がりなどに見かけてきた。
「これって、髪の毛でできてるわけないよね」
「髪の毛だよ」
朱姫葛は肯定する。
ナツメと檜は思わず後ずさった。それでも朱姫葛は気にする風もなく、二体の人形を掲げて見せる。
「これは、あんたたちのために用意された女神。このお社は、あんたたちの家に見立てられてる」
見て、と朱姫葛は空になった社を指差す。よく見ると、人形の置かれていた辺りに、黒い染みが四ヶ所できていた。
「我気逢町に越してきたよその人間には、こうして一人一体ずつ女神が割り振られる。越してきた人間たちが新居で寝ている間に、ここの住民が女神を社へ祀り、根付きの儀式をする。あんたら一人ひとりに対応する女神に神水をかけるのが、儀式の内容」
だから、我気逢町における女神は、根付くの「根」と「髪」を合わせた「根髪」に語源があるんじゃないかって聞いた。
そう朱姫葛が語るのを、ナツメはほとんど聞いていなかった。その頭の大半を占めていたのは、越してきたばかりの夜中に聞いた、正体不明の水の音のことだった。
ここへ来る時に上った階段の高さは、ちょうど家の階段の二倍くらいだった。その半分くらいのところで、景色が一変していた。
「もしかしてここって、私の家の中?」
ナツメが思いついたことを口にすると、朱姫葛は頷いた。
「そうだよ。ヨシヨシ生工の社宅はいつもそう。壁の一面に、住人に知られないよう、社を置く隠しスペースを作ってるんだよね」
ならばやはり、あの時ナツメの聞いた水の音は、誰かが家の中で根付きの儀式をしている音だったのか。
ぞっと背筋が冷える。
「それは、俺と姉ちゃんのなのか」
檜が人形を指差した。
「そうだよ」
「パパとママの人形もあったってこと?」
「うん。もう用が済んだからいなくなった」
不思議な言い方だ。
「用って」
「人間の身体に、ここに棲むものが入りこむ。それができたら、女神は用済み」
そして朱姫葛は、ぼんやりと立ったままの母らしきものに向かって言った。
「伝えて。この子たちは根付かなかったって」
それはやんわりと笑みを浮かべ、くるりと向き直った。暗闇の階段を、軽い足取りで降りていく。
少しすると、大きな水の音が聞こえた。それは、誰かがプールへ飛び込むのに似ていた。
「ここには、ずっと昔から水の道があった」
朱姫葛は母らしきものの降りていった方を見つめながら言う。
「いつ頃からあったのかは知らない。けれど、そのことに初めて気づいた人たちが、この水路を作ったんだと思う。そうやって、水の道を見えやすくすることで、生活が重なり合わないように暮らしていた。けれど、ある時、よそからやってきた人間が、水の道と住まいを重ねてしまった。その時から、隣り合うべきじゃないものが交わり、生活を侵食するようになってしまった」
彼女の使う言葉は、いまいちぼやけている。けれどその曖昧さの正体を、三ヶ月この地で暮らしてきたナツメは察していた。
ここには、水を介して人になろうとする何かがいる。
そうやって人になったもので、我気逢町は溢れかえっている。
「あれは何。この町の大人は、皆人間じゃなくないの?」
ナツメが囁くと、朱姫葛は首を横に振った。
「我気逢町の──この地に生きる子どもは、十二歳で死ぬ。死んで、あれになる。数え年の十三歳で水に慣らして、十五歳で水で暮らせるようにする。そういう慣わしが、ここ百年くらい続いてる」
「百年」
「でも、あれはそれよりずっとずっと昔からこの地にいた。百年よりずっと昔、人がここに住み着くより先に、居着いていた。ここは本来、人が住むべき土地じゃなかった」
朱姫葛は目を伏せる。
「遥か昔から、ここは海だった。今でもここは海なのに──それに気づかないで陸を作ろうとしてしまった。それが私の祖先、良々木の罪なんだよ」




