7-2
七月に入ってしまった。
ナツメたち姉弟は、東京へ行くのを失敗して以来、未だ我気逢町を脱出できずにいた。
あれから、くり返し町を出ようとした。毎日のように、町を下る道を歩いている。けれど、我気逢町からA市へと至る道を何度たどっても、町の北にそびえる山からの下り道に行き着いてしまう。確かに家を背にして出かけたのに、歩いた先にまた家が現れる。
夢を見ているのだと思いたかった。けれど町から出られなくとも、日常は終わらない。変わらない日々がまとわりついてくる。
両親は変わらず、以前なら考えられないほど仲が良く、穏やかだ。ナツメたちが遅くまで我気逢町からの脱出を試みて帰っても、今日はたくさん遊んだね、と笑って迎える。
もう、細かいことは気にしていられない。東京の祖母でなくてもいいから、誰か親戚と連絡を取って迎えに来てもらおう。
そのように考え、電話を探したこともあった。だが、この町には誰でも使える電話がないことを知らされただけだった。田舎なのに、どこにも公衆電話がないのだ。誰かの携帯や、学校の職員室のものを借りることも考えたけれど、誰を信じていいか分からない。友人たちを読み違えていたことが頭をよぎり、勇気が出なかった。
どうしたらいいか、分からなかった。二人の現状では、完全にこの町から逃げ出すのは難しい。だからと言って、簡単に諦めることもできない。
姉弟は、来る日も来る日も脱出のチャンスを窺った。
このまま、式の日を町で迎えることも想定しはじめた。
そんな日々に、思いがけないところからチャンスがやって来た。
志乃たちは、相変わらずナツメの周りから離れなかった。
素っ気なくしても、機嫌か体調の悪さのどちらかのせいだろうと片づけられ、放課後には悪びれない顔で遊びにくる。その翌日も、また寄ってくる。そして、遊ぼうと誘う。
彼らを利用して町から出ようともしたこともあったが、こういう時に限ってまったく乗ってくれなかった。家に来られるのは嫌だからなるべく外遊びになるよう誘導するけれど、なかなか諦めてはくれない。
いい加減、まとわりついてくる友人たちにうんざりしていた。本当は絶交だと怒鳴ってやりたいが、強硬な態度に出た時に彼らがどんな手段に出るか予想できない。何より、人数という点であちらの方が圧倒的に有利だ。太刀打ちできる気がしない。
恐怖を通り越して苛立ち、ノイローゼになりかけていた七月の初週。ついに、我慢が限界に達することが起きた。
友人たちが、ナツメの家に泊まりたいと言い出したのだ。
「ナツメちゃんのお父さんって、ヨシヨシ生工の社員なんでしょ?」
瑛美が言った。
「ヨシヨシ生工の社宅って素敵だよね。前から泊まってみたいと思ってたんだ」
「いいよね?」
浄美が首を傾げる。
絶対に嫌だ。
反射的に言いそうになり、思いとどまった。ここで許したら、これから先、夜もずっとこの人たちが家にいることになるかもしれない。町から出ることだけで、精いっぱいなのだ。なんとかして阻止しないといけない。
だが、なんと言ったら断れるのだろう。
「泊まるのは、ちょっと」
曖昧な笑みを浮かべ、濁す。
「パパとママに、負担をかけたくないから」
しかし、この程度で下がる友人たちではない。
「でも、この前うちのお母さんがナツメちゃんのお母さんに聞いたら、いつでもどうぞって言ってたよ」
志乃が言った。
「ナツメちゃんのお母さんが大丈夫って言うなら、大丈夫だよね? あたしたち女子三人だけでもいいから」
「ええ。僕たちだっていいだろ」
幸三が口を挟んだ。
「ナツメちゃんの弟と仲良くなってみたかったんだ」
「そうだよね。ナツメちゃんち広いし、ナツメちゃんにも弟君にも部屋があるんでしょ?」
志乃がたたみかけてくる。
「私たちも泊まれるよね?」
「泊まれるだろ」
信五が乗る。
「俺たち、友達なんだから」
本当に友達なら、ここで察して下がるのではないか。そう言ってやりたかった。
ナツメがどう言えば諦めてもらえるかと考えていると、傍の席に座っていた他の生徒が口を挟んできた。
「そうだよ。友達なら、家に泊まるくらい当たり前だよ」
「大事な友達ならなおさらだね」
別の生徒も言った。
「みんなで楽しい思い出を作りたいでしょ?」
「ここで断るなんてありえない」
「薄情だよ。よくないよ。もうすぐ式もあるんだから」
生徒たちが次々と口を開く。
気づけば、クラスメイトのほとんどがナツメの方を向いて抗議していた。
どうしてすんなり頷かないんだ。
これまで親切にしてきてやったのに。
空気が読めない。
心がない。
三十人あまりの人間が、一斉にナツメの方を向いて一方的に詰ってくる。
その光景は、異様だった。普段のナツメなら、足がすくんで喋ることもできなかったかもしれない。
だが、ナツメはいい加減いらいらしていた。
どうして自分がこんな理不尽な目に遭わないといけないのだろう。何が友達だ、何が親切にしてやった、だ。そっちが一方的に友好的に接してきたから、こちらが答えただけじゃないか。
「やだ!」
ナツメは立ち上がって叫んだ。
「誰がなんて言おうと嫌。うちには泊めない」
しん、と教室が静まり返った。
首を巡らせれば、クラスメイトたちが黙ってこちらをじっと見ていた。
皆、無表情である。
ここでナツメは、やっと恐怖を覚えた。
助けを求めようと周りを見回し──独りだけ、こちらを見ていない人間がいるのに気づいた。
自分の席から少し離れた、ベランダ。
教室との境に腰かけて、こちらに背を向けて本を読んでいる後ろ姿がある。
「あたし、良々木さんと一番の友達になりたいから!」
ナツメが言うと、本を読んでいた背中がこちらを向いた。
朱姫葛のやや見開いた目と、目が合った。
「今日から、良々木さんと遊ぶから。だから、もうあたしの家に来ないで」
なぜ彼女の名前を挙げたのか分からない。
良々木朱姫葛はこのクラス、いや、この学校で唯一群れない人間だった。もしかしたら、彼女だけは普通の人間なのではないかと期待していた節があった。
だからと言って、こんな風に自分から友達になると宣言したところで、どうにかこの状況が打開できるとは思えない。一悶着して、授業が始まるまでの時間を稼げればいい方だ。ここの生徒たちは、皆の時間や予定を粗末にすることを良しとしないから、授業が始まってしまえば逃れられる可能性がある。
ナツメは身構え、友人たちの反応を待つ。殴り合いの喧嘩になる覚悟もしていた。
だが、クラスメイトたちはにっこりと笑った。
「分かった。じゃあ、仕方ないね」
志乃が言った。
「そういう気分ってことだよね? うん、分かるよ。友達の輪を広げたい時ってあるよね」
相次いで、クラスメイト達が首を縦に振ったり、うん分かる、などと言ったりしている。
志乃は目を細める。
「でも、いつでも私たちは待ってるから、気が向いたらお家に泊めてね。また遊ぼうね」
そして、生徒たちは解散した。野次馬同然に乱入してきたクラスメイトたちはもちろんだが、仲良しグループだった五人まで散っていった。信五と幸三は飲み物を買いに行こうなどと言いながら教室を出、志乃たち女子三人は瑛美の席で談笑をはじめた。
──何これ。
一人取り残され、ナツメはぽかんとしていた。
まさか、こんな展開になるとは予想していなかった。
「思いきったね」
朱姫葛が話しかけてきた。
ベランダに腰かけたまま、こちらを手招きする。顔が笑っていない。
文句を言われるのだろうか。
──急にあんな言い方されたら、引いても当然だよね。
言われるまま行ってみると、彼女は言った。
「今日の放課後、空いてる?」
自分でも顔が強張ったのが分かった。
朱姫葛はナツメの顔を見て、噴き出した。
「違う、違う。私はあんたの家に居座ったりしないから。あの会社の社宅になんて、長居したくないもん」
朱姫葛は、確かに他の生徒と違うようだった。ヨシヨシ生体工業を悪く言った人間は、これまで生徒たちの中にいなかった。
なおもナツメが逡巡していると、朱姫葛は言う。
「話がしたいだけだよ。ここから出て行きたいなら、悪い話じゃないと思うんだけど」
ナツメは弾かれたように顔を上げた。
チャイムが鳴る。昼休みが終わり、五限目が始まる合図だ。
「じゃあ、もし話す気があるなら、今日の放課後に下駄箱で待ってて」
彼女は立ち上がった。
そして自分の席に戻ると、授業の準備もせずに、文庫本の続きを読み始めた。




