孤独な法廷
アメリア大陸の西海岸。首都の喧騒から遠く離れた、深い針葉樹の森に抱かれた私邸。
激しく窓を打つ雨音が、元国防長官ジェームズ・アシュフォードの孤独な執務室を包み込んでいた。
長年身を置いた権力の中枢を去り、愛する孫娘が住むこの西果ての地へ居を移して間もない。
デスクには、封を切ったばかりのブランデーと、書きかけの手記。
ペン先が紙を走る音だけが、規則正しく響く。
『……軍事力の行使には、厳格な手続きと、万人が納得しうる明確な大義が必要である』
あの日、攻撃命令を撤回したのは、少女への同情などという甘い感傷ではない。
GOGという一企業が、正規の承認プロセスをねじ曲げ、不透明な私益のために軍を動かそうとしたことへの、合衆国の軍人としての拒絶反応だった。
もしあれが、議会の承認を得た正規の作戦であり、そこに国家防衛の大義があれば、彼は眉一つ動かさずに爆撃ボタンを押していただろう。相手が少女であろうと、国家を脅かす敵である以上、排除するのが彼の職務だからだ。
だが、あの作戦は汚れていた。
愛する孫娘に顔向けできぬような、私物化された暴力に加担するわけにはいかない――それが、制服を脱ぐと決めた彼の、最後の矜持だった。
その時だった。
部屋の空気が、キィィンと耳鳴りのような音を立てて歪んだ。
「……!」
アシュフォードは反射的にデスクの引き出しから拳銃を抜き、立ち上がった。
老いを感じさせない、現役の兵士そのものの鋭さで、虚空から出現した異物の眉間に銃口を固定する。
ドサッ。
部屋の中央、アンティークのペルシャ絨毯の上に、黒く焦げた塊が吐き出された。
雨の匂いしかなかった静謐な書斎に、鼻をつく焦げ臭さと、鉄錆のような血の匂いが一瞬で充満する。
「貴様は……」
彼は銃口を下ろさず、冷徹に観察した。
ボロボロになった黒いローブ。焼けただれた肌。苦悶に歪む横顔。
見間違えるはずもない。数日前、はるか遠く離れた首都の執務室に、音もなく現れた『黒き聖夜の審判』だ。
「……動くな」
警告を発するが、反応はない。
左足は不自然な方向に曲がり、全身からは止めどなく出血している。意識はないようだ。
瀕死。誰の目にも明らかだった。
(なぜ、大陸を横断してまでここに現れた? 報復か? いや……)
アシュフォードは銃の撃鉄を戻し、デスクに置いた。
そして、受話器に手を伸ばす。
警察か? FBIか?
いや、正規ルートで通報すれば、通信網を掌握しているGOGが警察より先に到着するだろう。奴らは法を無視し、彼女を被疑者としてではなく、実験動物として連れ去るに違いない。
「……ここで野垂れ死ぬことは許可せんぞ」
アシュフォードは冷ややかに吐き捨てた。
ここは戦場ではない。アメリア合衆国の領土内だ。
戦場における交戦規定下であれば、敵兵として即座にトドメを刺していただろう。だが、ここは法治国家であり、彼女はまだ、法によって裁かれるべき被疑者の段階だ。
正規の裁判も受けさせず、手続きを経ずに死なせることは、軍人の矜持が許さない。それは国家による正義の執行ではなく、ただの管理過失だ。
「貴様には、法廷で裁きを受けてもらう。国家に対する罪を、正規の手続きで償わせるまでは――死ぬ権利などないと思え」
アシュフォードは素早く回線をつないだ。
相手は、かつて泥沼の戦場で背中を預け合った戦友――今は西海岸の裏社会で闇医者まがいのことをしている元軍医だ。GOGの息がかかっておらず、そして彼の命令ではなく「頼み」を聞く数少ない人間。
「……俺だ。ジェームズだ。昔の貸しを返してもらいたい」
短く用件を伝え電話を切ると、彼は少女の体を、まるで物品でも扱うかのように抱き起した。
軽い。この小さな体で、国家を敵に回したのか。
「……う、あ……」
少女の唇が微かに動き、うわごとのように何かを呟いた。
「……のえ、る……」
その響きに、アシュフォードは眉をひそめた。
仲間か。それとも家族か。
いずれにせよ、今の彼には関係のないことだ。
彼にあるのは、目の前の国家の敵を生かして捕らえ、正規の断頭台(法廷)に送り込むという、冷徹な義務感だけだった。
到着した元軍医、ロバートは、アシュフォードの書斎に入るなり、敷かれたビニールシートの上の惨状を見て深くため息をついた。
「おいおい、ジェームズ。お前のこの立派な書斎には、ずいぶんと似合わねえ客だな。相変わらず、お前からの呼び出しはろくなもんじゃねえ。……こいつはもう、半分あっちの世界に足突っ込んでるぞ」
ロバートは無精髭をさすりながら、乱暴に医療鞄を床に置いた。
「軽口はいい。治せるか、ロバート」
「治す? ここでか? 設備もねぇ、助手もいねぇ。あるのは高い酒と、埃被った本だけだ。無茶言うなよ。このまま大病院に放り込んでも、助かる確率は五分五分だぞ」
「病院には運べん。事情がある」
「だろうな。下っ端時代ならいざ知らず、退役したお前がわざわざ俺を呼ぶってことは、そういうことだ」
ロバートは肩をすくめながらも、手際よく手袋をはめ、麻酔薬のアンプルを手に取った。
「戦場じゃ、麻酔なしでこれより酷い怪我を何度も縫い合わせただろう。お前の腕ならできるはずだ」
「へっ、まだ根に持ってやがるのか。あのヴィエトナの泥沼で、お前の腹から銃弾4発ほじくり出してやった時のことをよ」
ロバートはニヤリと笑い、少女の傷口にメスを当てた。
ロバートの手術は、荒っぽく、しかし正確無比だった。
戦場で培われた、限られた物資と時間の中で命を繋ぎ止めるための、極限の実践医療。
数時間後。
ロバートは血に濡れた手袋を脱ぎ捨て、ブランデーをラッパ飲みした。
「……一応、繋いだがな」
彼は手の甲で口を拭い、厳しい表情で眠る少女を見下ろした。
「外傷の縫合と固定は終わった。内臓の破裂も塞いだが……正直、厳しいな」
「どういうことだ」
「医学的に言えばな、こいつはとっくに死んでるんだよ」
「……そうか」
「こいつは助かったんじゃない。なんらかの力で生かされたとでも言うべきか」
彼女の枕元には、黒く焦げた古びた本――禁書が置かれている。
意識を失ってもなお、彼女が抱きしめて離そうとしなかったものだ。
その本は、心なしか部屋の湿度を吸い込み、ドクン、ドクンと、少女の心臓に合わせて脈打っているように見えた。
「ま、今夜が峠だ。しっかり見張っててやれよ、鬼の中隊長殿」
ロバートは鞄をまとめ、かつての戦乱の地で若き日のアシュフォードを畏怖と親しみを込めて呼んだ懐かしい名で締めくくった。
「ああ。……すまなかったな、ロバート」
戦友が去った後、アシュフォードは沈黙の中で少女を見つめていた。
「法廷に立つことさえできんか……」
アシュフォードは、デスクの上のリモコンを手に取り、壁面のテレビをつけた。
テレビではニュース速報が流れていた。東海岸のニューシティ、ポート・モロウズ地区の廃工場地帯で原因不明の大規模爆発が発生し、現場が完全に消滅したという。
画面に映し出されたのは、巨大なクレーターと燃え盛る炎だった。
アシュフォードの目が鋭く細められた。
「……なるほど。貴様は、この地獄を引き起こして大陸の反対側まで逃げおおせたというわけか」
あれだけの破壊を撒き散らし、多くのものを消滅させておきながら。
自分だけは、魔法を使ってでも生き延びようというのか。
その小さな体のどこに、それほどの生への執着――いや、浅ましいほどのエゴイズムが潜んでいるというのか。
「……ここまでのことをしておいてなお、自分の命だけは惜しいか」
アシュフォードは、グラスに新たなブランデーを注ぎ、眠り続ける少女に向けて、吐き捨てるように言った。
「その魔法でいくら命を保とうとも、自由になどさせんぞ」
彼は琥珀色の液体を一気に飲み干した。
「貴様は合衆国の法によって裁き、合衆国の意思で死神の元へ送ってやる」




