刹那の檻
光が、音を置き去りにした。
ポート・モロウズの廃工場地帯。
夜空を焼き尽くす純白の閃光が弾けたその瞬間、イリスの時間は引き伸ばされたフィルムのように、限りなく停滞した。
鼓膜を打つはずの爆音は、まだ届かない。
ただ、圧倒的な熱量と、空間そのものを雑巾のように絞り上げる強大な負荷だけが、スローモーションの世界で彼女を襲っていた。
目の前で、黒い戦闘服の兵士が一人、重力を失ったかのようにゆっくりと宙へ浮き上がっていく。
いや、浮いているのではない。空間の歪みに捕らえられ、その体躯が飴細工のように捻じ曲げられようとしているのだ。
彼の装甲服の繊維が、一本一本弾け飛び、ヘルメットのバイザーに走る亀裂が、氷の結晶が成長するようにゆっくりと広がっていく様が、痛いほど鮮明に見えた。
(……逃げて)
叫ぼうとした喉は、熱波に焼かれて音を出さない。
だが、その熱のおかげで、イリスを拘束していた特殊合金のネットがドロリと溶解し、彼女の体から滑り落ちた。
自由だ。だが、それは破滅の中の自由に過ぎなかった。
イリスは、崩れ落ちそうになる膝を叱咤し、瓦礫に手をついた。
左足の感覚がない。見ると、膝から下が在らぬ方向へ曲がっている。空間の歪みに巻き込まれたのだろう。
激痛が遅れて脳を焼き切ろうとするが、体の奥底から湧き上がる冷たく禍々しい何かが、無理やり彼女の意識を現実に縫い止める。
(まだ……終われない)
視線の先、瓦礫の上で、あの黒い革表紙の『禁書』が、まるで心臓のように脈打っていた。
ドクン、ドクン。
本から溢れ出す黒い靄が、イリスの四肢に絡みつき、強制的に体を動かそうとする。
それは慈悲ではない。ようやく見つけた「器」を壊させまいとする、寄生者の生存本能のような、悍ましい執着だった。
この緩慢な地獄を作り出しているのも、きっとこの本だ。死の瞬間を永遠に引き伸ばし、その中で足掻けと強要している。
イリスは這いずり、震える手で禁書を掴んだ。
その瞬間、焼けた鉄を血管に流し込まれたような衝撃と共に、膨大な魔力が逆流してくる。
彼女は、今にも鉄骨に押しつぶされそうな兵士たちを見上げた。彼らは自分を捕らえ、実験台にしようとした敵だ。
だが、その歪んだ空間の中で必死に生にしがみつく姿は、あの日の自分――瓦礫の下で震えていた、無力な子供の姿と重なった。
(……誰も、死なせない)
魔法名など叫ばない。そんな余裕はどこにもない。
ただ、強く、強く念じるだけだ。
イリスは、自らの命を薪にくべるようにして、魔力を練り上げた。
空間を繋げ。彼らを、ここではない場所へ。
彼女の手から放たれた淡い光が、瀕死の兵士たちを包み込む。
空間の歪みに飲み込まれる寸前、彼らの姿が陽炎のように揺らぎ、かき消えた。
成功したかどうかも分からない。だが、少なくともこの地獄からは弾き出した。
「……っ、ぐ……!」
代償として、イリスの皮膚が裂け、鮮血が滲む。
禁書の奔流は、もはや彼女の制御を超え、暴走した獣のように周囲の空間を喰らい尽くそうとしていた。
イリスは血の滲む目で、必死に意識の網を広げた。
この廃墟に、逃げ遅れた命はないか。
冷たい風に乗って、微かな鼓動が伝わってくる。路地裏で眠っていたホームレス、迷い込んだ野良犬。小さく、震える命の灯火たち。
(全部、逃がす……!)
一つ、また一つ。感知した命を、安全な場所へと転送していく。
そのたびに、イリスの視界が黒く塗りつぶされていく。内臓が軋み、骨が悲鳴を上げる。
もう限界だ。意識の糸が切れかける。
その時だった。
感知した意識の網の、一番端。爆発の衝撃波が、今まさに到達しようとしているエリアの境界線に。
懐かしくて、泣きたくなるほど温かい気配を感じた。
「……ノエ、ル……?」
どうして。どうして、こんな危ない場所にいるの。逃げてって、言ったのに。
ゆっくりと迫る衝撃波の壁が、ノエルと、その隣にいる大きな影――ルドルフを飲み込もうとしているのが、「視」えた。
このままでは、間に合わない。
イリスは、残った全ての魔力を、精神力を、そして自らの命を、その一点に叩きつけた。
(守って……!!)
理屈ではない。計算でもない。
ただ、彼らを生かしたいという願いだけが、暴走するエネルギーの向きを変えた。
炎の壁が、まるでモーゼが海を割るように、ノエルたちの前で左右へと逸れていく。
ドォォォォン……!
現実の時間で言えば、瞬きするほどの出来事だっただろう。
だがイリスにとっては、永遠にも等しい時間、素手で業火を受け止めているような感覚だった。
「……あ……」
ノエルが無事なのが分かった。彼が無傷で、何かを叫んでいるのが分かった。
よかった。
その安堵と共に、張り詰めていた糸が切れた。
暴走したエネルギーが、ついにイリス自身を飲み込む。業火が、彼女の体を舐める。
私はここで、この炎と共に消える。これは禁書を使った罰なのだろうか。
だが、腕の中の禁書は、それを許さなかった。
黒い表紙が、どろりと熱く脈動する。
『死ぬな』『まだ終わらせない』
言葉ではない、強烈な呪いのような意志が、イリスの思考を塗り潰す。
本が勝手に開き、未知のページが風もないのにめくられていく。
禁書は、消えゆく意識の中で彼女が直近に繋いだ「魂の回廊」の残滓を無理やり手繰り寄せ、強制的な転送の術式を編み上げていく。
拒否する間もなく、イリスの視界が暗転した。




