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聖夜の黄昏  作者: ナオ
9章 魂の回廊
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刹那の檻

光が、音を置き去りにした。


ポート・モロウズの廃工場地帯。

夜空を焼き尽くす純白の閃光が弾けたその瞬間、イリスの時間は引き伸ばされたフィルムのように、限りなく停滞した。

鼓膜を打つはずの爆音は、まだ届かない。


ただ、圧倒的な熱量と、空間そのものを雑巾のように絞り上げる強大な負荷だけが、スローモーションの世界で彼女を襲っていた。

目の前で、黒い戦闘服の兵士が一人、重力を失ったかのようにゆっくりと宙へ浮き上がっていく。

いや、浮いているのではない。空間の歪みに捕らえられ、その体躯が飴細工のように捻じ曲げられようとしているのだ。

彼の装甲服の繊維が、一本一本弾け飛び、ヘルメットのバイザーに走る亀裂が、氷の結晶が成長するようにゆっくりと広がっていく様が、痛いほど鮮明に見えた。


(……逃げて)


叫ぼうとした喉は、熱波に焼かれて音を出さない。

だが、その熱のおかげで、イリスを拘束していた特殊合金のネットがドロリと溶解し、彼女の体から滑り落ちた。

自由だ。だが、それは破滅の中の自由に過ぎなかった。


イリスは、崩れ落ちそうになる膝を叱咤し、瓦礫に手をついた。

左足の感覚がない。見ると、膝から下が在らぬ方向へ曲がっている。空間の歪みに巻き込まれたのだろう。

激痛が遅れて脳を焼き切ろうとするが、体の奥底から湧き上がる冷たく禍々しい何かが、無理やり彼女の意識を現実に縫い止める。


(まだ……終われない)


視線の先、瓦礫の上で、あの黒い革表紙の『禁書』が、まるで心臓のように脈打っていた。

ドクン、ドクン。

本から溢れ出す黒い靄が、イリスの四肢に絡みつき、強制的に体を動かそうとする。

それは慈悲ではない。ようやく見つけた「器」を壊させまいとする、寄生者の生存本能のような、悍ましい執着だった。

この緩慢な地獄を作り出しているのも、きっとこの本だ。死の瞬間を永遠に引き伸ばし、その中で足掻けと強要している。


イリスは這いずり、震える手で禁書を掴んだ。

その瞬間、焼けた鉄を血管に流し込まれたような衝撃と共に、膨大な魔力が逆流してくる。

彼女は、今にも鉄骨に押しつぶされそうな兵士たちを見上げた。彼らは自分を捕らえ、実験台にしようとした敵だ。

だが、その歪んだ空間の中で必死に生にしがみつく姿は、あの日の自分――瓦礫の下で震えていた、無力な子供の姿と重なった。


(……誰も、死なせない)


魔法名など叫ばない。そんな余裕はどこにもない。

ただ、強く、強く念じるだけだ。

イリスは、自らの命を薪にくべるようにして、魔力を練り上げた。

空間を繋げ。彼らを、ここではない場所へ。


彼女の手から放たれた淡い光が、瀕死の兵士たちを包み込む。

空間の歪みに飲み込まれる寸前、彼らの姿が陽炎のように揺らぎ、かき消えた。

成功したかどうかも分からない。だが、少なくともこの地獄からは弾き出した。


「……っ、ぐ……!」


代償として、イリスの皮膚が裂け、鮮血が滲む。

禁書の奔流は、もはや彼女の制御を超え、暴走した獣のように周囲の空間を喰らい尽くそうとしていた。


イリスは血の滲む目で、必死に意識の網を広げた。

この廃墟に、逃げ遅れた命はないか。

冷たい風に乗って、微かな鼓動が伝わってくる。路地裏で眠っていたホームレス、迷い込んだ野良犬。小さく、震える命の灯火たち。


(全部、逃がす……!)


一つ、また一つ。感知した命を、安全な場所へと転送していく。

そのたびに、イリスの視界が黒く塗りつぶされていく。内臓が軋み、骨が悲鳴を上げる。

もう限界だ。意識の糸が切れかける。


その時だった。

感知した意識の網の、一番端。爆発の衝撃波が、今まさに到達しようとしているエリアの境界線に。

懐かしくて、泣きたくなるほど温かい気配を感じた。


「……ノエ、ル……?」


どうして。どうして、こんな危ない場所にいるの。逃げてって、言ったのに。

ゆっくりと迫る衝撃波の壁が、ノエルと、その隣にいる大きな影――ルドルフを飲み込もうとしているのが、「視」えた。

このままでは、間に合わない。


イリスは、残った全ての魔力を、精神力を、そして自らの命を、その一点に叩きつけた。


(守って……!!)


理屈ではない。計算でもない。

ただ、彼らを生かしたいという願いだけが、暴走するエネルギーの向きを変えた。

炎の壁が、まるでモーゼが海を割るように、ノエルたちの前で左右へと逸れていく。


ドォォォォン……!


現実の時間で言えば、瞬きするほどの出来事だっただろう。

だがイリスにとっては、永遠にも等しい時間、素手で業火を受け止めているような感覚だった。


「……あ……」


ノエルが無事なのが分かった。彼が無傷で、何かを叫んでいるのが分かった。

よかった。

その安堵と共に、張り詰めていた糸が切れた。

暴走したエネルギーが、ついにイリス自身を飲み込む。業火が、彼女の体を舐める。


私はここで、この炎と共に消える。これは禁書を使った罰なのだろうか。


だが、腕の中の禁書は、それを許さなかった。

黒い表紙が、どろりと熱く脈動する。

『死ぬな』『まだ終わらせない』

言葉ではない、強烈な呪いのような意志が、イリスの思考を塗り潰す。


本が勝手に開き、未知のページが風もないのにめくられていく。

禁書は、消えゆく意識の中で彼女が直近に繋いだ「魂の回廊」の残滓を無理やり手繰り寄せ、強制的な転送の術式を編み上げていく。

拒否する間もなく、イリスの視界が暗転した。

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