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聖夜の黄昏  作者: 那王
6章 摩天楼の深淵
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揺らぐ天秤

新年を迎え、サンタクロース協会はようやくクリスマスの喧騒と、その後の感謝の祝祭を終え、静けさを取り戻しつつあった。だが、その静寂は、降り積もる新雪のように穏やかなものではなく、どこか張り詰めた、薄氷の上を歩くような危うさを内包しているようだった。


協会の「大書庫」。天井まで届く巨大な本棚には、数百年分の子供たちのリストや、古の魔法書が並ぶ一方で、部屋の中央には最新鋭のサーバーと、世界中の物流・気象データをリアルタイムで解析するホログラム地球儀が稼働している。古い羊皮紙の匂いと、電子機器の排熱の匂いが混ざり合うこの場所で、聖ニコラス22世は、十数名の若い見習いたちに囲まれていた。彼らはまだ協会に来て日の浅い、ノエルやイリスよりもずっと年下の子供たちだ。


「ニコラス様、質問があります」一人の少年がおずおずと手を挙げた。手には、タブレット端末が握られている。画面には、アメリアで起きたテロのニュース――イリスが引き起こした破壊の痕跡が映し出されていた。


「イリスお姉ちゃんは、悪い人たちを懲らしめるために戦ってるんですよね?どうして僕たちやニコラス様は、助太刀しないんですか?僕たちの魔法があれば、悪い会社や意地悪な軍隊なんて、すぐにやっつけられるのに」


その純粋で、だからこそ残酷な問いに、周囲の見習いたちも一斉にニコラスを見つめた。彼らの瞳には、正義への憧れと、現状への不満が渦巻いている。


ニコラスは、深く刻まれた皺の奥にある瞳を細め、ゆっくりと、子供たちと同じ目線になるように屈みこんだ。「ふむ……。では、お前さんたちに一つ、昔話をしようかの」


ニコラスは杖を振り、空中に光の粒子で絵を描き始めた。それは、深い森と、そこに住む動物たちの姿だ。


「ある森に、鋭い牙を持つ大きな狼がおった。狼は時々、村の羊を襲う。だから村人たちは『悪い狼はいなくなればいい』と願った。そこで、ある魔法使いが狼をすべて消してしまったのじゃ。さて、森はどうなったと思う?」


「平和になった!」少年が即答する。


ニコラスは静かに首を振った。光の絵の中で、森の草木が枯れていく。「いや。狼がいなくなったせいで、鹿が増えすぎてしまったんじゃ。鹿たちは森の草木や木の芽を食べ尽くし、やがて森は枯れ果ててしまった。その結果、鹿も、他の動物たちも、みんな飢えて死んでしまったそうじゃよ」


子供たちは不思議そうな顔をした。


「世の中にある『巨大な会社』や『国』というのも、この狼によく似ておる」ニコラスはホログラム地球儀を指差した。そこには無数の光の線が脈打つように走っている。

「彼らは鋭い『武器』という牙を作る一方で、その強靭な背中で、世界中に薬や食料、衣服という『恵み』も運んでおる。この前の報告にもあったな。とある工場の機能が止まったせいで、遠く離れた極北の島に、冬服や暖房器具が届かなくなったとな」


ニコラスは子供たちの顔を一人一人見渡した。「彼らを『悪者だから』と魔法で消し去るのは簡単じゃ。だが、そのせいで森のバランスが崩れ、巡り巡って、何も関係のない子供たちが凍えることになるかもしれん。世界は、悪いところだけを切り取って捨てられるほど、単純にはできておらんのじゃよ」


「でも……!」少年は食い下がる。「じゃあ、戦争を起こす人たちは?畑を荒らすイノシシみたいに、ただ悪いだけの奴らもいるでしょう?」


「そうじゃな。私利私欲のために畑を荒らす者はおる。だが、もしかするとその獣たちは、自分たちの森を焼かれて、仕方なく畑を荒らしているだけかもしれんのじゃ。」


ニコラスの声が、一段低く、厳かな響きを帯びた。


「理由はどうあれ、荒れた畑を見て、怒りに任せて山ごと燃やしてしまえば、どうなる?雑草や害獣は消えるかもしれんが、そこに咲いていた花も、これから芽吹くはずだった種も、すべて灰になってしまうじゃろう。そして、住処を追われた獣たちは、今度は火を放った者を憎み、死に物狂いで襲いかかってくる」


「それを根絶やしにするまで焼き続けるか?それはもはや、サンタクロースではない。ただの『破壊者』じゃ」


ニコラスは、書庫の奥にあるガラスケースに目をやった。そこには、数百年前に作られた、素朴な木彫りの人形が飾られている。「昔はよかった……。魔法は、もっと神秘的で、ささやかなものじゃった。木片に魂を吹き込み、ブリキの兵隊に行進させる。それは科学では決して解明できぬ、純粋な奇跡じゃった」


彼は視線を、手元の最新鋭の端末へと落とし、複雑な表情を浮かべた。「だが、人間の知恵――科学技術が急速に育ったように、我々の魔法もまた、急激に姿を変えてしまった。衛星の目を欺き、電子の海を泳ぐ……。現代の魔法は、あまりにも科学に近く、そして世界という森そのものを焼き払えるほどの『火』になりすぎてしもうた」


「この大きくなりすぎた力が、森にどんな影響を与えるのか……正直なところ、この老いぼれにも、もう把握しきれてはおらんのじゃよ」


書庫に重い沈黙が落ちる。その時、入り口の扉が開き、任務を終えたグスタフが入ってきた。彼は子供たちに囲まれるニコラスの姿を見て足を止めたが、ニコラスは手で「構わん」と合図を送った。


「それにな」ニコラスは自嘲気味に笑い、子供たちに向き直った。「お前たちは、私たちが万能だと思っておるようじゃが、それは買い被りじゃよ。トナカイが空を飛べるのはいつじゃ?」


「クリスマスの夜です」少女が答える。


「そう。世界中の子供たちの『信じる心』が満ちた、特別な夜だけじゃ。今の時期、わしらはただの老人と、少し鼻の赤いトナカイに過ぎん。もちろん……」ニコラスの目が、一瞬だけ鋭く光った。


「『禁書』にあるような、森のことわりを無視した魔法を使えば、季節に関係なく空を飛び、岩を砕くこともできる。だが、それには必ず『代償』が伴う。自分の命を削り、森の空気を汚すほどのな。 我々は、それを使わないことを選んだ。 だが、イリスは……彼女は、その痛みを引き受けてでも、進むことを選んでしまったのじゃ」


子供たちは言葉を失っていた。万能だと思っていたサンタクロースの、あまりにも人間臭い苦悩と限界。


「わしらの仕事は、森を焼き払うことではない。プレゼントという優しさを届けることで、次の世代の心に、争いを生まない種を蒔くことじゃ。気が遠くなるほど時間のかかる、地味な仕事じゃよ。だが、わしはそれを信じておる」


ニコラスは子供たちの頭を優しく撫でて解散させた。見習いたちは、複雑な表情を浮かべながらも、それぞれが何かを深く考え込みながら部屋を出ていく。


残されたのは、ニコラスとグスタフだけとなった。


「……森の寓話ですか。相変わらず、たとえ話がお上手ですね」グスタフは、深い敬愛を滲ませた。「スネーランドでの任務、完了しました」


グスタフは報告の形を取りつつ、ニコラスの横顔を見つめた。「……ですが、ニコラス様。あのお話は子供たちへの教訓であると同時に、ご自身への戒めでもありませんか?」


ニコラスは苦笑した。「お見通しか。……そうじゃな。わしは、怖いのじゃよ」


「怖い、ですか?」


「この強大になりすぎた魔法という『火』を使って森を変えたとして、その結果に、わしのような老い先短い身が責任を持てるのか。……森の未来を決めるのは、いつだって次の時代を生きる若木であるべきじゃ。だから、わしは手を出さん。……いや、出せんのじゃよ」


ニコラスは、震える手を見つめた。「イリスが使う禁書の魔法……あれは、かつて我々が『森を壊しかねない』として封印した力の奔流じゃ。わしらも使おうと思えば使える。だが、実戦で磨かれた今のイリスに対抗するには、こちらも同等の『代償』を払い、森を焼く覚悟が必要になる。今のわしに、彼女を力で止める術はない」


「だから……ノエルに託したのですか」グスタフが静かに問う。


「ああ。力による制圧ではなく、心による救済。それができるのは、彼女の痛みを誰よりも理解し、同じ目線に立てるノエルだけじゃ」


聖ニコラスは窓の外、揺らめくオーロラを見上げた。「狼も羊も、毒草も薬草も、すべてが絡み合って世界という森はできておる。その歪みの中で、イリスもまた、役割を持った『悲しい狼』になろうとしておるのかもしれん。……天秤は大きく揺れておるな。どちらに傾くか、それはもう、神のみぞ知るところじゃ」


グスタフは深く一礼した。「ノエルは、スネーランドでたくましく成長しておりました。彼なら、あるいは」


「そう願いたいものじゃな……」


北極の聖域は、静寂に包まれている。だがその静けさは、何もできない無力さと、それでも若者たちを信じようとする祈りの均衡の上に、辛うじて成り立っているものだった。

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