揺らぐ天秤
新年を迎え、サンタクロース協会はようやくクリスマスの喧騒と、その後の感謝の祝祭を終え、静けさを取り戻しつつあった。
だが、その静寂は、降り積もる新雪のように穏やかなものではなく、どこか張り詰めた、薄氷の上を歩くような危うさを内包しているようだった。
オーロラがいつもより低い空で揺らめき、凍てつく風が協会の尖塔を撫でていく。
聖ニコラス22世の執務室は、暖炉の火が頼りなげに揺れるばかりで、主の心の内を映すかのように、どこか薄暗く感じられた。
そこに、スネーランドでの任務を終えたグスタフが、旅装を解く間もなく訪れていた。
「――以上が、スネーランドでの配達状況、及び、ノエルとの接触に関する報告です」
グスタフは、暖炉の前に置かれた古びた革張りの椅子に腰を下ろすこともなく、立ったまま簡潔に述べた。その口調は、長年の信頼関係からくる率直さはあったが、協会の長に対する敬意を欠くものではなかった。
「ノエルは……見習い時代の面影を残しつつも、少し顔つきが変わったように見受けられましたな。困難な旅が、彼を鍛えているのでしょう。ルドルフも健在でした。ただ、イリスの行方については、依然として……」
聖ニコラスは、窓の外、淡く光る氷の結晶が舞う景色に目を向けたまま、静かに頷いた。
「……そうか。ノエルも、ルドルフも、息災であったか。それは何よりじゃ」
その声には、安堵と、そしてそれ以上の深い憂いが滲んでいた。
「ニコラス様」グスタフは一歩踏み出し、問いかけた。その声には、純粋な疑問と、そしてわずかな焦燥感が混じっていた。「イリスの行動は、もはや協会としても看過できぬレベルに達しているのではないでしょうか。そして、ノエルはたった一人で、あまりにも大きなものを背負おうとしております。協会として、彼らに何らかの形で……いや、公にできぬ形であっても、支援の手を差し伸べるべきではないのですか? このままでは……」
聖ニコラスはゆっくりと振り返り、その深い瞳でグスタフを見つめた。
「グスタフよ。おぬしの懸念はもっともじゃ。儂とて、胸を痛めぬ日はない。じゃがな……」
彼は言葉を選びながら、静かに続けた。
「イリスが、なぜあの禁書に手を伸ばし、あのような道を選んだのか……その根底にある、世界の歪みと子供たちの悲しみを思う時、我々が長年守り続けてきた『伝統』や『正義』が、果たして絶対のものであったのかと、自問せずにはおれんのじゃ」
「それは……」グスタフは言葉を失った。協会の長たる聖ニコラスから、これほどまでに協会の存在意義を揺るがしかねない言葉が出るとは、予想だにしていなかったからだ。
「我々サンタクロースは、子供たちに夢と希望を届ける。それは崇高な使命じゃ。じゃが、その優しさが届かぬ場所で、今この瞬間にも涙を流し、未来を奪われている子供たちがいることもまた、厳然たる事実。イリスは、その現実に、我々とは違うやり方で立ち向かおうとしておるのかもしれん。そしてノエルもまた、イリスを救おうとする中で、何か新しい答えを見つけ出すやもしれぬ」
聖ニコラスは、ふ、と自嘲にも似た笑みを浮かべた。
「儂ら年寄りの凝り固まった観念で、若い世代の可能性の芽を摘むようなことはしたくない。彼らの行動が、この世界にとって、そして協会にとって吉と出るか、あるいは凶と出るか……それは、彼ら自身と、そして世界が示す答えを、静かに見守るしかないのかもしれん」
「今は……干渉せぬ。それが、今の儂にできる、唯一のことじゃ」
その言葉は、達観のようでもあり、深い諦念のようでもあり、一方で現状維持を望む指導者の、巧みな責任逃れのようにもグスタフには聞こえた。
グスタフは、それ以上何も言えなかった。協会の長の決意は、重く、そして揺るぎないものに感じられたからだ。
執務室を辞したグスタフが、凍てつくような協会の回廊を歩いていると、工房の方から、若い見習いたちや、いくつかの妖精たちのひそやかな話し声が聞こえてきた。それは、以前のような無邪気な賑わいとは違う、どこか熱っぽく、そして不安げな響きを帯びていた。
「イリスの行動は、間違っていないと思う。力には力で応じなければ、何も変わらない」
「いや、我々の本分は、あくまで子供たちに笑顔を届けることだ。世界の大きな争いに、我々が直接関わるべきではない」
「ノエルは、一人で大丈夫なのだろうか……。彼を手助けしたいと願う者は、私だけではないはずだ」
「そもそも、今の協会のやり方で、本当に全ての子供たちを救えているのだろうか……」
一人一人の胸の内に秘められた想いが、見えない波紋のように協会全体に広がり、その空気を静かに、しかし確実に揺るがしている。この聖域にも、外の世界の歪みが、そして時代の変化の波が、否応なく押し寄せているのだ。
協会に集う者たちは皆、何らかの複雑な事情を抱え、この場所に救いを求めてきた者たちも少なくない。だからこそ、イリスやノエルの行動に対する想いもまた、一様ではないのだ。
グスタフは、ふと、回廊のステンドグラスから差し込むオーロラの光が、床に奇妙な影を落としていることに気づく。まるで、光と影がせめぎ合っているかのように。
その時、前方から古株の妖精、グレンが、いつものように杖をつきながらゆっくりと歩いてくるのが見えた。
すれ違い様、グレンは足を止め、意味深長な目でグスタフを見上げた。
「ニコラスの坊やも、つらい立場じゃろうな。…じゃが」
グレンは、しわがれた声で、しかしはっきりとした口調で続けた。
「『天秤』が、いつまでも同じ場所で均衡を保ち続けられるとは、この老いぼれには到底思えんがな。…いずれ、どちらかに大きく傾く時が来るじゃろう」
「天秤……? グレン殿、それは一体、どういう意味ですかな?」
グスタフは、その言葉の奥にある何かを感じ取り、問い返した。
グレンは、ふふ、と森の奥の木霊のような笑い声を漏らした。
「さあてな。ただの老いぼれの戯言じゃよ。」
彼はそれ以上何も語らず、再びゆっくりと歩き出し、回廊の薄闇の中へと消えていった。
執務室では、聖ニコラスが一人、窓の外の、いつもより激しく揺らめくオーロラを見上げていた。
その瞳には、深い疲労と、そして協会の長として、あまりにも重い運命の天秤を、たった一人で支え続けようとするかのような、孤独な決意が宿っていた。
北極の静寂は、見えない力によって、少しずつ、しかし確実に蝕まれ、揺らぎ始めていた。