過去という名の亡霊
マンハッタの夜景は、冒涜的なほど美しかった。地上で蠢く欲望と絶望を養分に、無数の光が今夜も飽きることなく輝いている。
ヴァレリアは、床から天井まで続く一枚ガラスの前に立っていた。手の中には、年代物のボルドー。完璧に設計された輪郭が、眼下に広がる光の海に重なって映り込んでいる。ニュースが早くも事故と呼び始めた、あの爆発の残響など、この光の奔流の前では、川面に落ちた小石ほどの意味も持ちはしなかった。
テーブルの上のスマートフォンが、無機質な音を立てて震えた。
彼女は振り返らなかった。誰からかは、見るまでもない。幾重にもプロキシを噛ませた、使い捨てのゴースト番号。これを特定し、よりにもよってこの夜に鳴らせる人間など、世界にただ一人しかいなかった。
画面をなぞり、スピーカーに切り替える。聞き慣れた声が、静寂に満ちた室内へ、するりと滑り込んできた。
『もしもし? 君、面白いね。アプローチは悪くないけど、詰めが甘すぎる。そんなやり方じゃ、すぐに足がつくよ』
完璧に整えられた唇が、皮肉な形に歪んだ。
「久しぶりね、K。その口説き文句、懐かしいわ。一番最初に私の正体を暴いたときも、あなた、そうやって電話をくれた」
電話の向こうで、カイトがふ、と息を吐く。そして、世界で彼だけに許された、古い呪文のような名を口にした。
『……アビゲイル』
その響きに、グラスの脚を持つ指が、わずかに締まった。
アビゲイル。瓶底眼鏡の、櫛の通らない髪の少女。誰からも見下されてきた過去の名。冷たい床の上で世界そのものを呪った、無力な亡霊の名。今ではもう、カイトただ一人しか呼ぶことのない、旧い世界の残骸。
『あんたは昔から、清廉潔白な聖人じゃなかった。カジノから金を抜き、自分の戸籍まで偽造した。俺だって同じだ。お互い、善人ぶる気はねえ』
カイトの声は、平らだった。
『だが、俺たちの間には、こういう世界で生きる者同士の、奇妙な信頼があったはずだ。……なんで、あいつらを駒に使った。イリスを、GOGに売った』
ヴァレリアは、喉の奥でくすくすと笑った。
「あなたって、本当に面白いことを言う。技術は一流でも、中身は子供のまま。その『信頼』とやらに、いったいどれほどの値がつくと思っているの?」
彼女は、窓の外の光へ視線を戻した。
「教えてあげる、坊や。これが大人のやり方よ」
グラスのワインを飲み干し、静かに置く。
「使える縁は、常に繋いでおくもの。あなたとの関係も、そうだったでしょう。互いの能力が、必要だった。それだけ。あなたが引き合わせてくれた、あの子たち──純粋で、人を疑うことを知らない見習いサンタと、喋るトナカイ。それに、あの子たちが追っている、銀色の髪の魔女。そして」
極上の獲物を舌で転がすように、彼女はその語を口にした。
「『魔法』。これ以上ない手札が、向こうから私の手の中へ、ころころと転がり込んできた。使わないなんて、それこそ非合理でしょう?」
『俺が教えたのは』
カイトの声が、初めて尖った。
『情報の非対称性で、巨大な権力に風穴を開ける技術だ。人を駒にして弄び、裏切るための道具じゃない』
「あら、綺麗事」
ヴァレリアは、心底楽しそうに笑った。
「あなただって、私の才能が『有用』だったから、私を見つけ、技術を叩き込んだ。退屈しのぎのゲームに、私が役立ったからでしょう。私たちは共犯者。それ以上でも以下でもないわ」
空になったグラスの縁を、指先がなぞった。
「いつまでも過去に浸って。──感傷はバグよ、K。最強のハッカーが、そんな単純なプロトコルも理解できないの?」
長い沈黙があった。
『……そうだな。あんたの言う通りだ』
カイトの声から、すうっと熱が引いた。
『俺のミスは、情報不足じゃない。過去の感傷に囚われて、あんたの本質を見誤ったことだ。あんたはもう、俺の知ってたアビゲイルじゃない。ヴァレリアっていう、化け物になってた』
「ええ、そうよ」
ヴァレリアは、満足げに頷いた。
「ようやく、分かったようね」
『……ああ。分かったよ』
電話の向こうで、深く、重い息。そして、静かに。
『お前がそういう奴だってことは、よく分かった。……いや。ずっと前から、分かってたのかもな』
通話は、向こうから切れた。
プツリと途切れた電子音が、広すぎる部屋の沈黙へ吸い込まれていく。
ヴァレリアは、黙り込んだスマートフォンを、興味を失った玩具のように放った。
窓の外の光は、変わらず美しい。彼女はしばらくのあいだ、動かなかった。次の一手のことも、明日のことも、考えはしなかった。
やがて、グラスへ手を伸ばした。
中は、とうに空だった。
────
カイトの『すまない』が、フードトラックの薄暗い車内に、まだ重く残っていた。
「GOG……? あの、GOGが?」
リリィが、信じられないという顔で、ノエルの手の中のスマホへ身を寄せた。
「電気も、食べ物も、映画も、物流も。世界中の暮らしに、根っこから食い込んでる会社でしょう。ヘリオスと並ぶ、二大巨頭の。……そんな会社が、どうして軍隊みたいな真似をして、イリスさんを襲うのよ」
『……俺も、ついさっきまでそう思ってたよ』
カイトの声に、苦渋が滲む。
『表向きは、ただのバカでかいコングロマリットだ。ヘリオスには一歩譲るが、それでも世界を二分する化け物。社会そのものみたいな顔をして、あらゆる産業に根を張ってる。……だが、あの閃光を見てすぐ、あいつらのネットワークの、いちばん深いところをこじ開けた。出てきたのは、妙なプロジェクトの尻尾だ。「魔法」を研究してやがった。それも、兵器にするためにな』
「じゃあ……ジェシカさんは」
リリィの声が、わずかに掠れた。思い出すのは、あの摩天楼のラウンジでジェシカが去ったあと、ふと鼻をかすめた、甘くむせ返るような花の香り。そして、彼女が用意した、あの匂いのない部屋。ばらばらだった違和感が、かちりと音を立てて繋がる。
『……それが、俺には確かめようがねえ』
カイトは、正直に言った。
『ジェシカがヴァレリアっていうGOGの幹部だってことは、俺は知ってた。だからこそ、街中に監視網を持つGOGの力を借りるのが、人探しの一番の近道だと踏んで、お前たちに引き合わせた。……あいつとは長い腐れ縁でな。企業のスパイだろうがなんだろうが、俺たちの信頼までは裏切らない。そう、思い込んでた』
『……いや、違うな』
カイトは、自嘲するように言った。
『俺が掴めたのは、GOGが魔法を狙ってた、ってとこまでだ。ポート・モロウズで何があったか、細けえことは何一つ分からねえ。だが──繋げれば、見える』
彼は、一つずつ、指を折るように言った。
『GOGは魔法を欲しがってた。そのGOGの人間を、俺がお前たちに紹介した。そして、お前たちがイリスの居場所を掴んで、ジェシカに──ヴァレリアに、伝えた』
『……あいつが動かないはずがねえ。GOGをあの場所に呼び込んじまったのは、俺だ。俺の、ミスだよ』
「僕たちが」
掠れた声だった。
「僕たちが、イリスの場所を、ジェシカさんに教えたから。だからイリスは──」
「違うよ、ノエル」
ルドルフが、穏やかな、しかし芯のある声で遮った。
「GOGに襲われるより前から、イリスは自分の意志で、あの道を選んでいた。君が背負うことじゃない。カイト、君もだ」
ノエルは、弾かれたように立ち上がっていた。
「待つんだ、ノエル!」
ルドルフの制止より、扉の跳ね開く音のほうが早かった。
「どこへ行くの、ノエル!」
リリィの声は、遠ざかるサイレンに掻き消された。
車内に残されたスマートフォンの向こうで、カイトはただ、苦く黙り込んでいた。




