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八章 クロクテシロイセカイノミエカタ

 人間の世界に満ちているのは『白』と『黒』。少し前まで『灰』もあった。

 色の簒奪者が奪い去ったのは十年前。

 それ以降の人間の世界には、『白』と『黒』だけが存在していた。

 例えば人工的な素材で作られた、数多の建物の壁は『白』く、屋根は『黒』く。

 服も『白』に『黒』で模様をつけたり、その逆だったり。

 ――それゆえに『白と黒の世界』。

 簒奪者はそんな世界を満足げに見ているという事は無く、人間世界の外側――自然の世界に目をやって、それはそれは忌々しそうに舌打ちしているのだった。

 その人物は『色』を憎んでいた。年齢は十八前後。従者の『二人』の目には、彼の髪は美しい『黄金』に見えた。彼ほど美しい髪を持つ人間はいないと、従者は思っていた。

 瞳は、澄んだ水面に浮かぶ空のような『青』の宝石のように見える。

 彼にも自分の姿の美しさは『見えている』はずだった。

 ――彼は『色を見る者』。この世界の真実の一端を認識できる存在。

 二人が自ら『悪夢の絵本』を授け、その能力をゆっくりと磨き上げた逸材。

 しかし彼の悲劇は、その人とは違う能力にある。

 彼は色を『見る』だけで、『知っている』わけではなかった。例えば従者から、自分の髪がこの世のものとは思えないほど美しい『黄金』で、瞳は宝石のような『青』と賛美されても、彼にそれを理解する事はできない。彼は『色を見る事』しかできないから。

 それどころか、気持ち悪いとさえ思うようになった。他人に『見えない』領域を認識する事ができる能力を、彼は幼い頃から忌み嫌い続けて――一度は目を潰そうとまでした。

 それを思いとどまったのは従者が現れた時だった。今から目を潰そうとしていた彼の元にやってきた従者は、彼が『見ている』世界を同じように『見る』事ができたのだ。

 その瞬間に彼の旅は始まっている。

 簒奪者となって、世界の全ての『色』を奪う。そうすれば自分の異質さを自覚する事はなくなる。正直なところ『白』や『黒』が一番心地よく感じ、他の何より好きだった。

 従者は無条件でその考えを支持し、練習がてらに『灰』を世界から消した旅は今もまだ続いている。それは、すべての『色』を世界から消し去らない限り、終わらない旅。

 色を奪う彼と同じ世界を共有する存在の、『白』と『黒』の従者。

 彼らはとある『遺跡』を目指して――単独行動中だった。

 今から逢いに行くのだ。己の主人と対になった、似て非なる存在に。

 それは裏切りにも等しい行動だった。

 実際に彼は、この行為を『裏切り』だと認識するだろう。右と左で異なる姿形を持った歪な従者は、流れが穏やかで湖のような川の岸辺で、鏡のような水面を見つめていた。

 今宵は月夜。周囲は仄かに明るかった。

「エストはなんて言うかな?」

「怒るんじゃないかな?」

「でも仕方が無いよね。それが私の仕事だし」

「うん、仕方が無い。それが俺の役目だし」

「裏切りだって言われるだろうね」

「絶対に裏切りって言うだろうね」

「でも、本当に仕方が無い事なんだから、逢いに行かなきゃ」

「それが一番の方法なんだから、逢いに行くんだ」

「そうだよね」

「そうだよな」

 鏡合わせの彼と彼女は、そっくりな顔に笑みを浮かべた。

 草を踏みつけて立ち上がる。そこには『一人』だけが存在していた。

「「さぁ、逢いに行こうか」」

 声が重なり、『従者』は歩き出す。


     *  *  *


 クリスの一件から数日。また遺跡の中をうろつくボクは、彼女の言葉が心に突き刺さったままだった。一応、心配かけないように平気なフリはしてるけど、バレてそうだ。

 バケモノ。

 その一言が突き刺さったまま、棘が抜けない。壊れたクリス、くすくすと楽しげに朗らかに笑って生きているだけの少女。彼女がボクに突き刺したその棘が……疼く。

 彼女はもう一人のボク。ボクだって、ああなっていた可能性がある。彼女の事は絶対に忘れてはいけないというか、忘れてしまうという心配をする事さえ間違っている。

 ボクが死ぬその瞬間まで忘れられない、絶対。

「はぁ」

 ため息を零す事で意識をリセット。いつもなら頬をバシバシ叩くけど、その元気はまだ復活できていない。あの出来事でしおれてしまった心を、今は優しく治している途中だ。

 朝からボクがしていたのは、いつものように『遺跡』の中を歩き回る事。ガーネットもアマランスも今日はボクの近くで瓦礫やら何やらを、どかしたり覗き込んだりしている。

 ……にしても見つからないな。色の『象徴』とか言うからには、たぶん色がついている物を探しているんだろうけど、ボクには『見えない』からどれがどれやらサッパリ。

 ガーネットは第六感的なところでわかるって言ったけど、今のところ『コレだっ!』的感覚がきた事は一度も無い。マネキンや人骨による、精神的疲労ならたくさん感じたけど。

「あ、ボク向こうを探してくるね」

「気をつけて。足場が悪いところもあるから」

「何かあれば叫ぶなりしろ」

「ん」

 笑って手を振り、ボクは上の階へ。懐中電灯で足を置く場所をちゃんと照らして確認しながら、変なものを見たり踏みつけたり蹴飛ばしたりしないよう注意する。

 祟られたり呪われたりするのだけは嫌だ。

 実際、そういうシロモノがわんさかと眠っている場所なんだから、ここは。

「よ……っと、げほっ」

 咳きこみながらモノをどかして、その奥に見つけた棚に手を突っ込む。ふと、指先に冷たくてざらりとした――たぶん金属だと思う冷たさが触れた。

 一瞬だけ触れて離れたそれを探し、掴み、ボクは棚から引っ張り出す。

 懐中電灯の光の中に浮かび上がったそれは、金属の板――というか髪飾りだった。

 錆びてボロボロだけど、どうやら挟んで使うタイプの髪留めみたい。

 祭りの時にやってきていた露店で似たような形の髪留めを見た事があるしけど、やっぱりそういう道具類って、最終的には同じような形に行き着くのかな。

 まぁ、これは違う。ピンと来るどころかがっかりしただけ。もう何度も繰り返した行為だからため息も出てこなかった。元の場所に押し込んで、次の棚を覗き込む事にする。

「それにしても……」

 ボクは手当たり次第に『象徴』を探しながら、建物が『遺跡』ではなかった時代の事を思うようになっていた。一部の専門家だけが夢に描くか、彼らでさえ想像もできない便利で高度な技術を、当たり前の事として日々の暮らしの中で使っていたかつての人間。

 醜く争った挙句、一人の人物に悲劇をもたらし『色』を奪われた哀れな民衆。

 呪われた血を受け継いだ――ボク達。

 人間が犯した罪は、こんな仕打ちを受けるほどのものだったのか。

 これほどまでの罰を受けるに値する罪を、かつての人間は犯してしまったのか。

 今を生きるボクに、その事を判断できるわけが無い。

 戦争なんてボクの祖父母世代が幼い頃に一度あったという話しか知らないし、名前しか知らないような遠くの国同士の話だった。ずっと関係なかった。ずっとそう思っていた。

 まさかこんな身近に感じ、あれこれと考えることになるなんて……。

「あんま嬉しくないや」

 棚の奥にあった何かをどかすために摘み上げ、後ろにポイっと投げ捨てた。ガーネットに言われるまま作業を続けてきたけれど、やっぱり成果なんて何一つ出ていない。

 しいていうなら、ボクの考え方がちょっとだけ前と変わってきたくらいで、それは目的にはまったく関係が無かった。……何も変わっていないよりはマシか。

 考え方。流れるままになっていたボク。絵本の事も深く考えないでいた。

 今は、それが幸いだったのかもしれない。クリスの一件はボクにそう思わせた。どこかが変わっていたら……今、クリスは隣にいたのかもしれないと思う。もしも彼女がボクと同じ『選ばれた者』ならば、一緒に『象徴』を探して旅をするとか、そういう未来もあったはずだ。

 それが完全に消えたのが、悲しい。

 彼女は何も悪い事はしていない。被害者なのに。

 酷い事をされたらムカつくだろうし、憎む気持ちだってわからないわけじゃない。

 だけど『そろそろいいんじゃない?』って思う。

 もう充分、罰は与えたじゃないかって。だから人間は、そろそろ赦されてもいいんじゃないかって思う。これ以上は、ただの虐殺か……弄んでいるだけなんじゃないかって。

 だからボクは探す。自分にできる事をやる。

「とはいえ、うまく行かないなぁ……」

 さっきから見つけたものといえば、錆びた髪飾りからよくわからない布切れとか。何となくどういう使い方なのかわかるだけで、結局『ゴミ』としか言えないモノばっかり。

 これじゃゴミの分別じゃないか。そういえば『夫婦』の妻にも、燃えるものと燃えないものをちゃんとわけてから捨てなさいとか、何度も何度もしつこく言われたっけ。

 思い出してちょっと憂鬱。

 大嫌いとか言いながら、実はしょっちゅう思い出していた。

 何だかガキみたいで気に入らない。どの辺が、と言い切れない辺りが、余計に苛立ちを膨らませていく。こう、適当な壁でも何でもいいから蹴りたい感じ。ムカムカする。

 この辺りにはもう何も無い。勝手に結論して別の場所に向かう。

 壁のどこかに大穴でもあけばいいのに。空気が篭って、気持ち悪い。

 思考もグルグルするだけで何の成果も生まないし。

 と、視界の端っこのさらに端っこで何かがきらっとした。

 ほとんど条件反射に近いスピードで、ボクはそっちに向かって走り出す。

「あれ、は……」

 しばらくしてボクの視界に入ってきたのは、小さな棒の欠片だった。先端の片方が緩やかに丸くなっていて、長さは人間の大人の指くらいしかない。太さもそれくらいだった。

 人間の指そっくりに見えたから、壊れたマネキンかと思ったけれど違う。

 足が勝手にボクを棒に近づけていく。

 そして屈めば手が届く位置まで来た瞬間だった。

 なんでだろう――光って見えた。

 太陽の光を浴びて煌めく水面のように、人間の指ほどの長さと太さしかない棒は、どうみてもガラクタのはずなのに、ボクの視線をガシっと固定してしまって離してくれない。

 ボクは誘われるように手を伸ばす。拾ってみると軽かった。

 表面はベトベトした感じ。ここを握って、という事なのか紙が巻かれていた。

 でもそれだけじゃ何の道具だったのかがわからない。

 においをかぐと油っぽい感じの匂いがする。

 正直、いい匂いとは言いがたかった。この柔らかそうな棒は台所用品なのか、それとも医薬品なのか……あぁ、でも匂い的に後者は違うと思う。脂臭いし、薬とは思えない。

 これの他に何かないか探そうかと思ったけれど、そろそろ二人のところに帰った方がいいかもしれない。心配かけてケンカされても困るからね。

 ボクは見つけた一本の棒を手に、来た道を引き返そうとした時。

「「みーつけた」」

 二つの声が、見事にハモって聞こえた。

 明らかに何かが出そうな場所で、本当に何かが出てきてしまう。そんな状況で、世の人間は大まかに分類すると二種類の行動を取るとボクは思う。

 それは『逃げる』か『叫ぶ』の二つ。

 もちろん気絶という展開もあるだろうけど、ボク的にそれは行動とはちょっと言いがたいので除外。動けないというのも同じ理由で除外した。

 そしてボクは――動けなかった。

 声が聞こえたのは明かりがギリギリ届く前方。つまり近くに『何か』いる。それもボクがあった事も無い何か――いや『誰か』。もしかしてガーネット達の仲間なのだろうか。

「「はじめまして、『色を知る者』さん」」

 その『何か』達はゆっくりとボクに向かってきた。

 くすくす、と笑う声はハモる。どうやら少女と少年が一人ずついるらしい。

 足音は一つしか聞こえないけど、声はちゃんと二つだ。お互いに手を伸ばしあえば触れ合える距離で、その正体がまだ見えてこない『何か』達はピタリと足を止めた。

 ――ボクは見た。見てしまった。

 それは、とても異様な姿形をした人間。だと思われるモノ。

 右と左で髪の長さが異なっていた。

 それもはっきりと、意図的にやったにしても不自然なくらいに分けられている。まるで髪の長さが異なる同じ顔の人間を真っ二つにし、それぞれの右側と左側を一つにくっつけたかのような感じ。……というか、そう説明するしかない容姿だった。

 着ている服も半分。髪が長い右側はフリフリのスカート。

 お人形さんと言われそうな、あるいは御伽噺のお姫様のようなデザインだった。

 片方はフリフリこそついているけど、こっちは普通のズボン。

 右半分しかないスカートと、左側だけのズボン。

 服はちょうど身体の中心ラインに沿って、太い糸でジグザグに縫い合わされていた。

「「私=俺はスノゥ/オニキス。君と似て非なる『色を見る者』の従者」」

 二人と言っていいのか、スノゥ/オニキスは会釈して挨拶する。

「色を……見る?」

「「その通り。私=俺の主人は『色を見る者』。君と似て非なる別の人」」

 喋る声も笑う声も、彼女――あるいは彼の声は重なっていた。歌をうたったら誰もが聴き惚れるような、とても綺麗なハーモニーになっただろう。……その異様な姿さえ見なければ。

 スノゥ/オニキスは微笑み、さらに接近してくる。

 肩につく程度まで伸ばした左側、下ろせば毛先がおしりまで届きそうな右側。それぞれの髪が時計の振り子のように、動くたびに左右にゆらゆらふらふら揺れた。

 伸ばす指先。右手がボクの頬に触れる。ヒンヤリしていた。

「「君が――だったら」」

 哀しげに、切なげに、スノゥ/オニキスが重なる声で呟く。

 左右の瞳がゆっくりと、泣き顔に似た形になっていった。

 何かの要因で泣きそうになっているのか、悲しいだけなのかはわからない。

 その声は小さすぎて、ボクにすべてを聞き取る事はできなかった。

「「ん? それは?」」

 彼女あるいは彼がボクの手に視線を向ける。そこにはさっき拾ったばかりの、あの棒切れが握られていた。落っことさないようにしっかり握っていたらしい。

 無意識って凄いと思った。

「さっき拾ったんだけど……これが何なのかわかるの?」

「「うん。だってこれ『クレヨン』だよね。お絵かきに使うんだよ」」

「お絵かきに? コレを?」

 こんな油臭い棒切れをどうやって使うんだろう。っていうかこの棒って『クレヨン』っていう名前だったんだ。当たり前だけど全然知らなかったし、聞いた事も無かった。

 昔の人ってこういうのを使ってたんだ……。ボクらのお絵かきっていったら、砂の地面に木の枝で丸とか三角をぐりぐりーって感じだったから、ちょっと新鮮。

 そりゃ、紙に描くお絵かきも無いわけじゃないけど、それさえ子供の――とても幼い頃に終わってしまうお遊戯だった。ボクだって三歳くらいで卒業した。

 わざわざそれ専用の道具を作るほどじゃないと思う。ただの暇つぶし感覚だったし。

 何だか、昔の人間へのイメージが変わっていく。

 とても暇な人達だったんだろうか。

「「クレヨンにはいろんな『色』があるんだよ。昔の人はたくさんの『色』を使って風景とか人間とか頭の中の想像を、目に見える形にしたがる傾向があったんだよね。クレヨンはその『子供用』の道具。まぁ、大人でも使ってる人はいたけどね。ゲージュツカとか」」

 暇を持て余していたっていうのも正解だけどね、とスノゥ/オニキスは笑う。

 何だか変な気持ちになりながら、僕は手の中の『クレヨン』を見る。これでお絵かきとかやってたんだな、昔の人。どんな風に使ったんだろう。ちょっと興味があるかも。

「今は無いよね、こういう道具」

「「だって『色』が無いから。絵にして残す『美しいもの』に気が付かないしね」」

「そっか……」

「「人間という種が捉えられるのは『白』と『黒』の二つだけ。そして普通の人間は『色を知らない』から、その不幸には気付かないまま、知らないまま生きて死ぬ。どんなに頑張って意識してもそれが何の『色』なのかわからない。疑問も抱かないまま回り続ける」」

 そして世界には自然と『白』と『黒』だけが満ちていった。

 どうあがこうとも、人間に許されたのはその二つに縋りつく事だけ。

 それ以外は『神様』が奪ってしまったのだから。

 ガーネットはこれという問題は無さそうな様子で言っていた。

 だけどさ、たった『二色』しか無い世界――『白』か『黒』の二択しか存在が許されていない世界って、本当は凄く歪なモノなんじゃないかな?

 いっそ全部奪っていけばいいのに、そうはしなかった『神様』。

 そこまで『神様』を怒らせた大昔の人間って……どんな事をしたんだろう。

「この世界はとても歪で異質。だから『色を見る者』は世界から『色』を全部無くす事を決めて旅を始めた。だって彼は、君と違って『色を見る者』だから」」

「ごめん、意味がちっともわからない。意味というより、そういう事になった動機が理解できないともいう。見知らぬ人の話ってだけでも、ぶっ飛びすぎて理解が追いつかない」

「「どういえばいいんだろ。君は『色を知っている』だけ。彼――私=俺の主人は『色を見る』だけ。空が『青』で血が『赤』で葉が『緑』で太陽が『橙』だ、という君が普通に知っている事を知らない。つまり『色が見えているイコール知っている』じゃない」」

 それは同感。

 ボクはただ色と呼ばれる存在の事を、知識として知っているだけ。

 それそのものが『見えている』わけじゃない。

 だから色が『見えている』事と『知っている』事は違う。それはわかる。

「「彼は空の『青』を見ている。見る事ができる。だけどそれを『青』と知らない。知らないのに『色』が視界に入る。すっげーきもちわりぃ、吐きたい、うげー。そういう事」」

「……」

「「気持ち悪いモノを排除したいのは普通。当然。あったりまえー的思い。人間ってそういう生き物なんだから。アマランスが大嫌いな人間の、大嫌いな一番の理由と同じ」」

 ボクは空が『青』なのはわかるけど、『青』が見えているわけじゃない。誰かに教えてもらったわけじゃないのに、ボクはそれを当たり前の常識として受け入れてきた。

 教えてくれたのはあの絵本。資格を持つ者の心を鏡のように映し、わずかに有する能力を磨き上げ鍛え上げ大きく育てるための箱庭。時に人を壊してしまう『悪夢』の元凶。

 もしかして、スノゥ/オニキスの主人も、同じ絵本を持っているのだろうか。少し気になったから尋ねようと思った。いや、素直に教えてくれるかなって、少しだけ迷った。

「「ところでさ、もうこの世界から失われている『色』があるって知ってる?」」

 結局、疑問を口にできないまま、スノゥ/オニキスが先に喋りだした。その顔に薄く浮かんでいる表情が、さっき小さな声で何かを言った時と似ているように見えた。

「「ガーネット達は知っていると思うけどね。たぶん君には言ってないと思う。ビックリするくらい人間嫌いのアマランスだけど、そんな彼でもこれは言いにくいだろうし」」

 ガーネットはともかく、アマランスでも言いにくい。

 人間嫌い、という単語がくっ付くって事は、きっとボクの事。

 意図的に言わない事になっている事って何だろう。

 ……気がついているのに気がつかないフリをしている、嫌な気持ちだ。

 気がついているのに知らない事にしている何か。

 身体が震える。

 動け、そしてスノゥ/オニキスを黙らせろ。

 知らない事にしたいなら、知らない事にしてきたのなら。

 それなら、そのままでいいじゃないか。

 聞くな黙らせろ口を塞げ。

「「数年前に私=俺が『主人』にあったその日、この世界から一つの『色』――そしてその色に属するモノの大半が欠けた。地名とかことわざとか、そういうのは残されたけど」」

 聞きたくないのに音が聞こえる。

 黙らせたいのに身体が身体を押さえ込む。

 スノゥ/オニキスには、震えているだけに見えるかもしれない。

 でもボクは、殴ろうとしているのか、口を塞ごうとしているのか――それとも命を奪おうとしているのか。自分でもわからない衝動に押される身体を必死に止めていた。

 聞きたくないのは『お前』の勝手だ。

 ボクは聞きたいんだ。邪魔するな。

「「欠けたモノの一つは名前。ある子供の『名前』が消えた。本人も家族も、その子がどんな前なのかわからなくなった。わからないから呼ばなくなった。子供は寂しくなった」」

 声だけが聞こえる。

 目の前はグチャグチャ。

 頭の中も。心も。

「「私=俺の主人にとってそれは練習。子供からしたら、ただの練習で自分の名前を『殺される』んだから、きっと事実を知ったら怒ると思うね。自身の存在否定に等しいから」」

 手からころりと零れていくクレヨン。

 それをゆっくりと拾い上げるスノゥ/オニキス。

「「今から奪った『色』を返す。ちょっと手を握ってくれないかな?」」

 言われるまま差し出されたスノゥ/オニキスの手を握り返した直後、反対の手に握られていたクレヨンがゆっくりと形をなくしていった。まるで薬が水に溶けるような光景。

 まるで昇っていく煙のように、クレヨンは細く短くなって消えていく。スノゥ/オニキスの言葉がクレヨンを『持っていく』ように、そばにいるボクには見えていた。

「「世界に満ちる、数多のモノは『灰』になる」」

 ヒトも、草も、関係なく。

「「世界に在るすべてのイキモノは『灰』に還る」」

 それがイキモノの運命。

 なぜならば。

「「命が燃えつき消えた後に、残されるのは『灰』だから」」

 命が燃える。

 その場に残されるのは『灰』。

 ボクの中で鍵穴に刺した鍵を回す音がした。

 ――声が蘇る。

 ずっと幼かった頃の記憶の中で、光り輝いている声。

 目の前で揺れている数本のろうそくと祝福の歌。二人の大人がとてもとても優しい微笑みを浮かべて、今よりずっと幼いボクを見つめていた。とても、幸せそうだった。

 お前の名前は神話を元につけたんだよ。世界が炎に焼かれた時の事だ。神様は炎がすべての命を奪った事を嘆き悲しみ、何もできなかった事を心から悔いた。自分がもっと早く何かをしていればよかったのに……。そう呟いて両の眼から涙をお零しになったのだ。

 涙は溢れ続けて、下に積もった灰を濡らした。神様はたっぷりと濡れて粘土のようになった灰をゆっくりとこねる。そして人の姿に作り変えた。人の姿をした灰の塊が生まれた。

 たくさんのヒトの灰が混ざっているから、そんな事をしても蘇らせることはできないと知りながら、一人ぼっちになった神様にはそんな事しかできなかったんだ。

 神様にだって限界はあるさ。でなければ人々の『願い』の中に、叶うものと叶わないものが出てくるはずが無い。だから神様にだって、できる事とできない事があったんだよ。

 でも神様の祈りは『叶った』。灰の人形が大きく膨らんで、人間になったんだ。

 灰になっても生きたいと願った人々の想いが、神様の願いを叶えてしまったんだよ。神様はとても喜んで人形をたくさん作って、人間をたくさん生み出した。

 そして、何もできなかった事を蘇った人々に詫びた。人々は神様を許した。神様がどれだけ苦労して灰の人形を作ったのか、人々はちゃんと見ていて、知っていたからだよ。

 以来、それが何のモノであれ『灰』は神聖なものとして扱われているんだ。

 暖炉の灰を残さず集めて教会に持っていくのはそのためだよ。

 すべての灰は『生命の象徴』なんだから。

 お前は生まれてすぐに何度か死にそうになって、そのたびに息を吹き返した。子供のころから病弱で、ちょっとした風邪をこじらせては生死の境を彷徨った。

 だけどそのたびにお前は、何度も何度も元気になった。

 その姿を見た時に思ったんだ。

 あぁ、まるであの神話のようだって。生まれたばかりのお前は『死にたくない』って叫んでいる、熱にうなされながらも幼いお前は必死に思っているんだなって。

 だからお前の名前は――。


 オマエノナマエハ《ハイノムスメ》。

 ワタシタチノタイセツナ、アイスル――。


「うそ、だ……だってお父さんもお母さんも、ボクが嫌いじゃないか」

 ふらり、と座り込んだボク。

 思い出してしまった事が、心を深々と抉っていた。

「「それは違うよ。色が死んだ日から名前を呼んでもらえなくて、色を『知っている』からこそ戸惑って最終的には拗ねた。ただそれだけの事。君だけが悪いわけじゃない」」

 じゃあ、何だ。あの『夫婦』――お父さんとお母さんがやたら冷たかったのは。冷たいと思っていた言動の原因は、ワケもわからず拗ねたボクのせい。ボクが悪かったんだ。

 そりゃ、拗ねるばかりの子供なんてかわいくないよ。

 愛せるわけがない。

 当然じゃないか。

 被害者ぶって……バカじゃないの?

「「これで世界に『灰』が満ちた。よかったね」」

 にっこり、とスノゥ/オニキスは微笑む。

 ボクがグッタリしているのを見て、なおそんなふうに笑えるんだと思ったらちょっとムカっとした。しかも自分の仕事は終わったといわんばかりに、この場を立ち去ろうとしているんだから、ボクの怒りはぐんぐんと成長し、みるみるうちに膨れ上がる。

「「それじゃ私=俺はもう行くね。そろそろ戻らなきゃ怒られるんだ」」

 スノゥ/オニキスは右手でスカートの端をちょこんとつまみあげ、ようやく立ち上がったばかりのボクに向かって一礼する。その仕草は御伽噺に出てくるお姫様みたい。

「「私=スノゥ・ホワイトと俺=オニキス・ノワール」」

 その手が、ボクに向かって差し伸べられて。

「「狭間の名を持つ《灰の娘》。私=俺は、君の行く末を祝福するよ」」

 くるり、と踊るように背を向けて、スノゥ/オニキスは歩き出した。

「「……一緒に行く人が、君だったらよかったのに」」

 小さく呟いた声。ボクはまた聞きそびれてしまった。スノゥ/オニキスの姿はすぐに見えなくなって、その場に残されたボクは思い出した事、忘れていた事を記憶に刻み付ける。

 どうして忘れていたんだろう。これは『色が死ぬ』という事なのだろうか。

 わからない事だらけだった。でも痛いほどの悪寒と恐怖は、ボクがそれを忘却していたという事がどれだけ恐ろしいかを教えてくれる。

 思い出せた喜びと、忘れていた事への恐怖が混ざり合っていく。

 しばらくして『異変』に気が付いたガーネットとアマランスが駆けつけて、スノゥ/オニキスとの事を話して、ボクはそのまま意識を手放す事にした。

 ……とても疲れた日だった。

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