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七章 ツイノムスメ

「――つまり、キミは家出というわけか」

 目の前のご主人は、驚きながらも笑いそうな表情だった。

 奥さん曰く、酔っ払っているらしい。

 ボクは苦笑しながら、ひたすら話を聞く側に回っていた。

「まぁ、ケンカするほど仲がいいというしな。できるうちにしておくといい。いなくなったら二度とできないんだからな。……ワシだってもっとしていればよかったのかもなぁ」

 そして今度は泣き出した。感情表現のふり幅がすごいご主人だ。一人旅の理由として半分くらいウソ――家族とケンカして家出したという事を伝えただけなんだけど。ちなみにもう何回も繰り返しているやり取りだ。酔うと人生相談を受け付けたくなるらしい。

 今は奥さんに背中を撫でられ、慰められている真っ最中。何でも親兄弟はもうなくなってしまっていて、何かあるたびに思い出しては後悔して『こうなる』……との事。

 酔いとセットになると手がつけられないから寝かしつけるわね、とご主人は奥さんに抱えられるようにして自室へと消えていった。……まるっきり子供だ、と思うボク。

「それじゃ、もう今日はお休みしていいわよ」

 しばらくして戻ってきた奥さんは、そう言ってまた部屋に戻っていった。ボクは寝泊りしている部屋に入って、そこに置かれたちょっと古めの二段ベッドの上側に腰掛ける。

 逃げ出すようにガーネット達から離れて、そろそろ一週間近く経った。街道をてくてくと歩いていたボクは、通りかかった近くの町に住んでいる家族のお世話になっていた。

 ボクの両親という事になっている例の『夫婦』とは別物って感じの、比べる事さえ失礼としか言えないくらい優しい夫婦。こんな両親だったらって、思ってしまうくらいだ。

 そしてボクより少しだけ年上の女の子が、夫婦の間には生まれている。

 名前はクリス。長い髪が綺麗で、ボクよりずっと大人っぽい身体つきだった。何でそんなことわかるのかと言うと、空いている部屋が無いので居候させてもらっているから。

 というか、確かにだぼっとした服を重ねて着ているけど、さすがに出るところが出ているか否かは見ればわかる。……別に羨ましいわけじゃないけどね。ボク、まだ子供だし。

 顔つきはどことなくご主人、つまり父親似。目元辺りなんてそっくりだし。でも全体的な雰囲気などは奥さん、母親似だと思う。温和そうでまったりした、綺麗な女の子だ。

 一人っ子なのに二段ベッドなのは気になったけど、あちこちキズが付いているからきっとおさがりなのだろう。こういうのって、作るにしろ買うにしろ大変だろうから。

 クリスは外にいるみたいだった。そういえばさっき――ご主人がお酒を飲み始める少し前に外に出て行ったし、どうやらまだ外から戻ってきていないらしい。

 まぁ、おかげでボクは心置きなく絵本を読める。そして一人でじっくりと思考をめぐらせる事ができる。絵本を読んでいる時は、何故か思考がとてもよく動く気がしていた。

 なんて言えばいいのだろう。他の事を考えなくてすむ、という感じかな。

 一つの事だけを考えていられる時間。

 その事だけに支配されてしまうような。

 息苦しさと幸福を、同じ量、一緒に感じられる。

 故郷でも旅でも感じなかった、ある意味、ボクが求めていた世界。

 無理やり引きずられているのかもしれない。思考に。絵本を読みながらの考え事はボクを次第に魅了する。このままだと、これ無しじゃ生きられなくなるのかも、とさえ思う。

「はぁ……」

 そのワリに思考は一向に片付かない。集中できるのはいいけど、五つの問題に決着が付く頃には、同じ数の新しい疑問が浮かんできてしまう。ボク一人じゃ、これが限界かも。

 だけど……まだ帰れない。

 こんな気持ちのまま、彼らと一緒にはいられない。

 だからボクは戦わなきゃ。一人で。

「うー、疲れた……」

 でもさすがに集中すると疲れてしまう。ボクは絵本を閉じて枕元に置くと、ベッドの上に仰向けに倒れた。天井が近く見える感覚は、小柄なボクにとっては珍しい経験だった。

 ガーネットもヴァーミリオンもアマランスも、そしてエストも。みんなボクより頭一つか一つ半くらい背が高くて、ボクがどんなに頑張っても勝ち目は無さそうって感じだ。

 彼らが屋内で上を見るとこんな感じなんだろうか。

 手を伸ばしたら届きそう。ためしに伸ばしてみたけれど、微妙に届かない。

 爪が伸びていたらかすったかもしれなかった。

「……ふぅ」

 ボクは寝転がったまま考える。絵本無しで考えてみる。外から聞こえる音が気になって集中しにくいけど、まぁ、これはこれで悪くない。むしろこっちが『普通』だから。

 ゆっくりと意識を静めていく。

 眠る直前が一番心地よく集中できる。

 だけど寝てはいけない。まだ、もう少しだけ考えていたい。

 ボクには第三者の力を借りないと見えないけど、もしも本当に『色』が存在しているとしたなら、本当に空は『青』で、血は『赤』で、葉は『緑』で、太陽は『橙』なのか。

 知らない間に刷り込まれた知識はそういっている。

 だけどそれが正しいのか、今のボクに確かめるすべはなかった。

 あの作業を続ければ、それを確認できるのかもわからない。

 そもそも、絵本はどうしてボクに『色』を教えてくれたのだろう。見えないもの、感じられない事をどうやって。何から何までわからない。これさえも『神様』の筋書き……なのかな。

 だとすると滅んでは蘇る、この世界の物語はただの喜劇だ。

 何か神だ。死んでからも世界を呪い続けている大バカ者じゃないか。

 もういないのはわかっているけれど、やっぱり誰かが一発殴ってやらないと。

 ボクだったら間違いなく『絵本』。

 縦で一発。それでもダメならプラス九発。ついでに角で五回くらい。

 さすがにそれだけやれば目も覚める。そしたら、ちょっとくらいは話が通じるようになるかもしれない。今よりマシになるならもう何だっていい、とさえボクは思った。

 だけど、こんなシナリオを用意するほどの……どんな『悲劇』に、あの人にしてあの方である神は見舞われたんだろう。かつての人間は、どんな罪を犯したのだろう。

 家族が殺される、恋人を殺される。

 子供のボクにはそんな、ありきたりな事しか思いつかない。

 罰を与えるにはそれに似合う罪が必要。だからきっと、こんなシナリオの上に置き去りにされてしまうくらいの事を、大昔の人間はいろいろとやってしまったのだと思う。

 その償いを人間はちゃんとできたのだろうか。

 できていないから、こうして罰を受け続けているのか。

 ダメだ、ボクにはやっぱり何もわからない。

 ご主人や奥さんには話せないし、相談だってできない。年が近いとはいえ、こんな事はクリスにだって言えない――というか相談できるほど、彼女とは親しくなっていないし。むしろ裂けられ気味でちょっと困っている。そんな悪い第一印象を与えたのかって、不安にもなる。

 そうなると相談できる対象なんて、やっぱりガーネット達くらいだ。

 一人になって落ち着いてきた。ボクがバカだったんだ。そんなの旅に出た直後辺り、いやそのずっと前からわかりきってた事なんだけど、やっぱりボクはバカだ。救いようの無いバカ。

 やっぱり、戻ろう。それからいきなり出て行った事を謝って、気になっている事を徹底的に訊きまくろう。最初からそうしていればよかったんだ。逃げるほどの事じゃない。

 いきなりだけど明日、ご主人と奥さんに帰る事を伝えないとな。

 見ず知らずの他人を家に泊めてくれた人達。何とか恩返しもしたいけど……子供のボクにできる事ってあまり無い。心の底からの感謝の気持ちを、どうやって言葉にしよう。

 うーむ、と悩んでいるとコトコトと音がした。続いて扉が開く音。身体を起こしてベッドの上から下をのぞき見ると、外出から帰ってきたばかりらしいクリスの頭が見えた。

「あ、お帰りクリス」

「……ん」

 ただいま、と答えるクリス。こっそりと憧れているサラサラの長髪が揺れた。ボクもいつかあれくらい長く髪を伸ばしてみたい。まぁ、それだけ手入れとか大変そうだけど。

 それにしてもこんな時間に、彼女はどこへ行っていたんだろう。どうやら走って帰ってきたらしく、その呼吸はとても荒かった。走るなら、もっと余裕を持てばいいのにとボクは思う。

 何かを大切そうに抱えているようだけど、羽織っている外套に隠れてわからない。

「ねぇ、クリス。ボクね、帰ろうと思うんだ……」

 ここにいても何も解決しない、解決しかけている『フリ』しかできないから。

「そっか……うまく仲直りできるといいね」

「うん」

 クリスは微笑む。ボクとそんなに離れていないはずなのに、彼女の微笑みはずっと大人びた印象を抱かせる表情だった。綺麗、っていうのかな。少し儚げな感じもするけど。

 部屋の窓際にある机の上に荷物を置くクリス。隣に外套を軽く畳んで置いた。

 たぶんもう寝るのだろう。時間的にも寝ているべき時刻になっている。ボクも荷物を軽くまとめて寝ようとして、彼女がずっと抱えていたと思う『荷物』が目に入った。

 それは一冊の書物――というか、絵本。ボクが今抱えていて、カバンの中にしまいこもうとしている、あの絵本だった。少し汚れているようだけど、間違いなく同じモノ。

 そういえばエストは、この絵本は『ばら撒かれた』とか言っていた。ガーネットもばら撒いたと言った。証拠なんて無いけど、ボクは二つが同じ絵本だと感じていた。

 ゆっくりと床に立つ。クリスはボクに背を向けて着替えている。長い髪を緩く三つ編みに結っていて、それが乱れて色っぽく見えた。それを横目に、ボクは絵本に手を伸ばす。

 近寄ってハッキリした。同じだ。この絵本とボクの絵本は同じものだ。表紙とかボロボロになっていてかなり古びた感じになっているけど、間違いなくボクの絵本と同じモノ。

 開こうかな。

 でもすごく大切にしているみたいだった。

 開いちゃおうかな。

 でも勝手に見たら怒るかもしれないな。

「……何、してるの?」

 いつの間にか振り返ったクリスが、こっちを見ていた。その視線が机の上の絵本と、ボクの間を行き交う。疑問に思っている感じでもあり、驚いている表情でもあった。

「いや、見覚えがある絵本だったから……同じかなって、これと」

 ウソではない理由。実際にそれを確認したくて近寄った。だから絵本を手に持っていたとしても、あるいはマジマジと見つめていても、この理由なら怪しまれない……はず。

「おな、じ?」

 クリスはきょとんとした表情を浮かべた。

 同じ絵本があるって、思っていなかったような感じだった。

 まぁ、聖都じゃ所持している人には罰が与えられているようだし、それを思うと見つけられた絵本は燃やされていそうだ。だったら、『他は無い』と思っても不思議じゃない。

 もしかしたら、これをキッカケにクリスと仲良くなれるかもしれない。そりゃ、明日にはもうここを出ていく事になるけど、それでも少しくらい仲良くなってさよならしたい。

 そう思い、ボクは自分の絵本を軽く上げて。

「面白いよね、凄く」

 にこっと、笑った。

 ボロボロになるまで読み込んだクリスも、同じように思っていると、思ったから。だから自分が持つ絵本を見せて、ボクはまだまだ読み込みが足りないなぁ、なんて苦笑して見せた。

 だけど。

「……っ」

 クリスは目を見開いて、ボクを見つめた。視線が絵本に向けられる。

 想像とかけ離れた表情が浮かぶ。さすがに様子がおかしかった。

「あなた……」

 小さな声でクリスが何かを言っていた。小さすぎて、聞き取れなかった。何かに驚いている様子だって事だけは、そのこわばった表情でさすがにわかったけど、それだけだ。

 この絵本、嫌いだったんだろうか。でもそれなら大事に持っている事は無い。適当に捨ててしまうとか、もっと手っ取り早く暖炉の焚きつけにしてしまえば、それで全部終わるのに。

 何かを問う前にクリスは部屋を出る。もちろん、例の絵本を抱えたまま。突然の事に追いかける気力もわかず、ボクは今までで最大級の疑問だけを抱えて眠るハメになった。

 明日聞いてみようかなと思うのを最後に、意識がすうっと消えていく。


     *  *  *


 町を走る。特徴的な長髪を捜す。朝起きると奥さんが大慌てだった。そしてご主人は家の周りで大声を出しながら走り回っている。近所の人も総出で捜していた……クリスを。

 ――クリス。

 彼らは口々に彼女の名前を呼び叫ぶ。いきなりいなくなってしまった少女。ボクだけが彼女が『絵本』ごといなくなってしまったと知っている。でも、理由はわからなかった。

 誰もわからない、誰も知らない。クリスが消えた理由を、その原因を。ボクだって想像なんかつかない。いきなり――としか言えないクリスの失踪。誘拐の線もあるという話だった。

 なぜ、どうして……。捜す人々の顔にはそんな感情が浮かぶ。道端でどこを捜したかを話し合う人達から、ボクは知らなかったクリスのもう一つの顔を、ちらほらと聞き集める。

 クリスはやはり大人しい娘、として周辺には認識されていたらしい。でも、夜な夜などこかに出かけている事はみんな知っているようだった。少し前に知り合ったばかりのボクでさえ初日に気が付いたところからして、彼女に隠れつつというつもりは微塵も無いらしい。

 いや、出かけていると言うよりも家の近くでぼんやりしている、というべきか。何かを手に空を見上げて星を眺めるでもなく、ただぼんやりと立っているように見えるらしい。

 だから一部住民はこう言っている――不気味だと。

 まぁ、そう思うのも仕方がない気もする。そういう癖がついているのか、クリスは物音をあまり立てないで歩く。だからいきなり声をかけられて、驚いた事も少なくなかった。

 彼女のような人の事を神秘的というのだろうか。ボクはちょっと変わったその雰囲気などをそう思ったけど、他の人は違ったらしい。でも不気味って言い方はどうかと思う。

「どこかに神隠しにでもあったんじゃないかい?」

「あの子はどこか変わってたからねぇ……お姉さんを亡くしてから、暗くなったし」

 捜すより雑談に花を咲かせるおばさん達。

 またか、と思いながら傍を通り過ぎようとした。

「そりゃ、目の前で殺されればね……しかもあんな死に方じゃ、仕方が無いさ」

 ――殺された?

 傍を駆け抜けかけたボクの足が、石になってしまったかのように固まる。

 そのまま続きを促すように、ボクはそちらに全神経を向けた。

 一字一句も聞き逃さない。聞き間違いなんて許さない。そんな自分でもわからない衝動に突き動かされて、ボクは静かに呼吸をしながら聞き耳を立て始めた。

「あれ? そんな事あったかい? 病死したとか事故死したってのは聞いたけどねぇ」

「十年前だったか、聖都で変な本がばら撒かれて、気が狂った連中が暴れまわって死人が出た騒ぎがあっただろう。あれで年の離れたお姉さんが亡くなっているんだよ、それもあの子の目の前で。それが尋常じゃないくらい酷い死に方だったから、町でも知ってるヤツは少ないな」

 それってあの絵本の一件の事、だと思う。ボクと彼女が持っている『絵本』がばら撒かれてたくさんの人がおかしくなって、そして数え切れないほどたくさんの人が死んでしまった。

 それにクリスが巻き込まれていたなんて、知らなかった。

 でも――それなら、どうして彼女はあの絵本を持っているんだろう。あの絵本が原因だって事はみんな知っているようだし、それをクリスが知らないはずが無いのに。もしボクがクリスの立場だったら恐ろしくて憎くたらしくて、あんな大切にしようなんて絶対に思わないのに。

「それからあの子は無口になっちまった。毎夜毎夜、外でぼんやり突っ立ってる。話しかけても反応一つしない。まったく、不気味な娘だよ……見た目が整ってるから余計にね」

 いやだいやだ、と締めくくったおばさん。いつもだったら子供っぽい無邪気さを装いながら嫌味の一つは言えるのに、そんな事を口に出す余裕がボクの中から消えている。

 焦りだけがボクの中で荒れ狂った。

 根拠もない、嫌な予感が身体をめぐる。

 寒気。吐き気。悪寒。ありとあらゆる感情が噴出す。

「真っ青だな」

 もしもその時に、聞き覚えがある『彼』の声が聞こえてこなかったら。ボクは耐え切れなくなって、その場に倒れていたかもしれない。それくらい、ボクはヤバかった。

 見上げた先にはエストの顔。

「エスト……」

 何故かはわからなかったけど、安心した。救われたって、思った。

「何かあったのか? 店に行っても留守番もいなくて、困っているんだが」

「そ、そうだっ。エストは見なかった? エストみたいに髪が長くて、年齢はボクよりちょっと上くらいで、綺麗な顔つきで、それから――例の『絵本』を持った女の子。朝からいなくなっててさ、町の中にいないから外にいるのかもって、みんなで捜してるんだけど」

「……女の子か」

 エストはふむ、と唸って沈黙する。

 それからはっと何かを思い出した顔をして。

「そういえば町に来る途中で人影を見たな。てっきり遺跡の周辺でウロウロしている変な連中の一人かと思ったが、もしかするとあれがそうだったのかもしれない」

 遺跡周辺をウロウロする……という事は、たぶんアマランスだ。ガーネットの髪の毛はそんなに長くない。でもアマランスなら身長はともかく、見た感じはクリスと似ていると思う。

 まさか森にいるなんて事は。だけどエストが目撃した人影が誰かわからないなら、確かめる以外に判断する事はできないだろうし。だけどもしも目撃情報が違ったら。本当の彼女は全然違うところにいて、ボクが違う方向に行ってしまったために最悪の事態になってしまったら。

 どうしよう。迷う。困る。彷徨う。

 判断は速い方がいいとわかっている。だけど――。

「行くなら早くした方がいいぞ。住民はどうも街道を捜すらしい。もし俺が見たのがその女の子なら、今頃はかなり置くまで進んでいるはずだ。……遺跡の周辺とかな」

「……っ」

「というか、お前は何でこんなところに」

「ごめん! ありがと! ボク、クリスを捜しに行くから!」

 問いかけるエストを置いて走り出す。まずは荷物を取りに戻らなきゃいけない。それから森の中に彼女を捜そう。ガーネット達とあえたら、協力してもらえるように話もして。

 街道沿いにいるならそれでよし。でもエストが見たのがクリスなら。

「早くしないと……っ」

 ご主人も奥さんもいない家に飛び込む。ボクはクリスの部屋に置いたままにしてあった荷物を抱えると、そのまま外に向かって走り出す。人々の合間をすり抜け、道に飛び出した。

 ここからじゃ走り続けても、森に着くのは昼過ぎだ。そしてボクに走り続けるなんて事はできないから、短く見積もっても森に着くのは夕方頃。ヘタすればもっと遅れるだろう。

 それが早いのか遅いのかわからない。

 だけど少しでも早く、少しでも追いつけるように、ボクは走る。

 一秒でもいい、彼女の姿を見つけたい。

 説得でも何でもして、いざとなれば殴ってでも連れ戻さないとダメだ。

 原因不明の不安。焦りがボクの足から限界を外した。

 気が付くと空は暮れ始めたばかりで、目の前には森が広がっていた。


「もう少しでヴァーミリオンを呼び戻そうかと思ったよ」

 森に入ってすぐの事。まるでボクが今日帰ってくる事がわかっていたかのように、ガーネットとアマランスが出迎えてくれた。少しだけ嬉しくて、怖い。拒絶されるかもしれないから。

 それだけの事をやったと思っている。

 自覚はちゃんとある。

 だけど怖い。それでも、僕は逃げてはいけない。

「いきなりいなくなるなんて、何を考えているんだい?」

 よくある説教文句。何となく、ボクの中で歯車の配置が変わっていった。

 確かにボクは悪い子としたけど……でも、なんでそんな事、今は。ボクがどれだけ焦っているのはわからないわけが無いのに。説教は甘んじて受け入れるつもりだったけど、だけど。

「こっちがどれほど心配したと思っているのかな。もしかしたら何か事件に巻き込まれたのかもしれないって、二人で探し回ったんだよ。まったく、猪突猛進なのはいいけど――」

「あーもー、ガーネットは煩い!」

 この忙しいのにっ、とボクは大声で叫んだ。さすがに『煩い』と言われるとは思っていなかったらしく、ガーネットとアマランスが唖然とした表情を浮かべる。

 ブチっと切れてしまったボクは止まらない。逃げ出すまでボクを追い込んだ、っていう自覚が無いってわかってしまった。焦ってるのが伝わってないはず無いのに、無視されている事も気に入らない。それもこれも全部ボクの勘違い? ――知った事か。

「何が『象徴』を探せだよ、わけわかんないよ、意味不明だよ。何の説明もしてくれなかったくせに、偉そうに保護者面するな! だいたい絵本の事だって、ボクが訊かなきゃ詳しい説明なんてする気も無かったんだろっ。それがイヤだから逃げたんだよボクは!」

「……っ」

「何が『仕方が無かった』だよ、大勢の人を巻き添えにしておきながら、自分だけが苦しかったかわいそうだとでも思ってるわけ? 何『悲劇のヒーロー』気取ってんだよ!」

 爆発する。

 一人で考えていた事とか、ボクの中に在ったモノが。

「それはキミも同じじゃないか……引き受けた事を投げ出しておいて、気になるなら好きなだけ訊けばいいだろう。私はごまかさず真っ直ぐに答えるつもりだったし、答えた」

「何が『答えた』だよ、あんなの信じられるわけ無いだろ! 訊くまで何も教えてくれない人の言葉、すぱっと信じられるほど子供じゃない! バカにするのも程があるよっ!」

「バカになんてしていない!」

「してるよ思いっきりっ。だいたいガーネットは胡散臭いんだよ。いきなりやってきて意味わかんない事並べ立てて! ボクじゃなかったら絶対に騒ぎになってたに違いないね!」

「うさ……ひ、人がちょっと気にしてる事を」

「とにかく、もうガーネットのいう事は信じないったら信じない! 必要最低限の事も言わなきゃ教えてくれない、そんなヤツなんかと一緒に作業なんてできるわけ無いっ!」

 少なくともボクは嫌だ全力でお断りだっ、という叫びで締めくくる。

 すっきりした。気分がスカッと晴れ渡っている感じだった。

 はた、と気付く。おかしいな。確か仲直りするって予定だった。誰にも何もいわずに出て行った事を何よりも先に謝って、それからいろいろと尋ねようって思ったはずだ。

 これじゃ、ただケンカしてるだけ……。

「あ……」

 小さく漏れた声が現実に意識を引き戻す。……ついにやっちゃった。もう関係とかそういうのが砂粒サイズに粉々だ。ガーネットとはもう終わっちゃったのかもしれない。

 自分が言っている事がめちゃくちゃなのはわかってるよ。でもちゃんと言いたかった。めちゃくちゃだろうが言いがかりだろうがワガママだろうが、とにかく叫びたかった。

 だけど、終わってしまった。

 すっきりした気分が一転する。絶望が膨らむ。

「……すまない」

 そこで謝ったのはアマランスだった。

「説明が足りなかったのは、我も同じだ。許せ。我らにとって、あの十年前の出来事はあまりにも大きすぎた。何をするにも頭の中のちらつき、決断の邪魔をする。……我らにとってあれは今でも『過去』などではない。何度でも繰り返されるかもしれない『今』の出来事だ」

 沈痛な表情のアマランス。そんな顔をされると、困る。

 そりゃそうだ。良かれと思ってやった事が、ある程度の混乱は想定していたとはいえあんな惨事になっちゃったら……絶対に忘れられないだろうし。言いにくいのは仕方が無い。

「……えっと、ボクも悪かったし。いきなりいなくなっちゃったんだし」

 ごめんね、と呟く。なんだか恥ずかしくなってきた。ちらっと見たガーネットは、アマランス以上につらそうな表情で、何かを考えながら――何かと戦っているようだった。

「どう言えばいいのかわからない……私達も、起こった出来事のすべてを把握しているわけじゃない。それでもいいのなら、私達が行った事を、絵本について知っている事を語ろう」

 ガーネットは真剣な目で、ボクを見つめた。

「十年前の一件は、今はもう共にいない『元仲間』が起こした。彼らもきっと、あんな事になるなんて想像もしていなかったと思う。いや、思いたい。私達だってあんな騒動に発展するとは思わなかったよ。ただ、九割以上は捨てられそうだなと……笑っていた」

 それは大半の人には理解できないだろうから。ガーネットが言う。

 ガーネット達は絵本を使って、かすかに残された力――色を見るとか知るとかの能力を強くしようとしたらしい。だから絵本に内容なんて無い。ボクがそう思っているだけでそこには何にも存在していないと、自分達が見ても『白紙』でしか無いと彼らは語る。

 ボクが内容だと思っているものは、ボクの頭の中にある『能力』そのもの。ボクがそれまでの経験で育てた能力の姿。心を映し出す鏡のようなものだ、とアマランスは言う。

 だからボクには内容は理解できても、それを声に出す事も文字に出す事もできない。思考も心も常に動くから、一つのところを捕まえて『形』を与える事は難しいから。

 心と向き合い互いを高めあいつつ、心の底に眠っている能力を目覚めさせる。まるで真珠を大きくするかのように幾重にも包み込んで、あるいは刃物を鍛えるかのように火で炙って何度も何度も叩き鍛えて、ほとんど跡形もなく消されたモノを大きく成長させていく。

 それが『本来在るべき』使い方。

 理想的で、模範的な姿。

 だけど――。

「あの『絵本』は単体じゃ、効力が『あり過ぎる』んだ。人間のあまりにも弱い精神では耐えられないような、過剰な『情報』を刷り込む……それがあの『絵本』だった」

 心を映し出す……というのは、実はとても危険な手段だった。

 確かにかすかな幻のような能力は磨かれる、強くなり、光り輝く。だけど心は能力だけを映し出すわけじゃない。時に己を殺すほどの激しい感情を生み出す機関だった。

 絵本は『何を』強くするかを選ばない。

 その身に映りこむ、すべてを強くしてしまう。

 畏れも、喜びも、哀しみも。

 己が身を喰らい尽くすような狂気さえ、それの前では例外に在らず。

 そこには区別という名の選り好みはなく、すべてにおいて平等に姿を映しこむ『鏡』が存在している。ナイトメアと名付けられし絵本が、静かに覗き込む人間の心を模写する。

 人間は多かれ少なかれ、己の狂気に食われてしまう事があった。

 それを意図的に作り出してしまう事があるのが、絵本。それがもたらしてしまった最低最悪にして最大級の悲劇こそ――ガーネット達が隠していた、あの十年前の聖都の一件。

 資格を持たない大勢の者が手にしてしまったがゆえに、一人から生み出された狂気が大勢の恐怖を呼び、それらが連鎖と融合を繰り返し、互いを高めあってしまったケース。

 それを防ぐには正しい使い方を知る者が、そばで導く非強いうがあった。

 ガーネットはそれが、自分達の役割だったと言った。

 そばにいて導く者、けれど介入はしない。

 ――傍観者。

「だから、私達がそばにいなきゃいけなかった。そばにいて、支えてあげなければ。情報は過度に与えず必要なだけ知らせて、伝えるだけにしようと決めた。あの災厄としか言えない出来事の再来だけは、あの悲劇だけは……どうしても、私達は避けたかったんだ」

 必要の無い感情の揺れを与えないよう、絵本にそれを悟られないよう。

 だが、とアマランスは呟く。木にもたれかかり、腕を組んでいる。

「ただそばにいるだけでは、ダメだったようだがな」

「……当たり前じゃん、そんなの」

 あはは、とボクは笑って。

「――って!」

 まったりと仲直りムードに浸っている場合じゃない事を、ようやく思い出した。いきなり大声を出したから、目の前の二人はぽかんとした顔でボクを見る。まだ安心している場合じゃなかった。周囲を慌てて見回すが、当たり前だけど栗すら敷き人影はどこにも見えない。

「そういえばずいぶん慌てていたようだけど、何かあったのか?」

「そ、そうなんだよアマランス! あのね……!」

 慌ててボクはガーネットとアマランスに、クリスの外見的特徴を伝えて見かけなかったかを尋ねた。二人は森の中を歩き回っていたらしいけど、誰も見ていないという。

「そもそも人が立ち入らない場所だからね……それにここ数日、いつキミが帰ってくるかと普段以上に気配に意識を向けていたから、もし誰かが森の中にいたら気付くと思うよ」

「そんな……」

 もしかして間違えた?

 街道の方に行ってしまったのだろうか。そっちには町の人が捜しに行ってるけど、もしもそれさえ違っていて手遅れになったらどうしよう。キミのせいじゃないよ、とガーネットが優しく声をかけてくれるけれど、それでもボクは自分のせいでこうなった気がしてならない。

 きっと昨日の絵本云々が原因なんだ。むしろあれ以外に、クリスがこんな行動をする原因が思いつけない。あの時の、絵本の話題を出した時のクリスは普通じゃない様子だった。

 絵本の一件に巻き込まれた姉妹。

 死んだ姉と生き残った妹。

 汚れてボロボロの絵本を持ち続けるクリス。

 絵本だけを手に失踪した彼女。

 そして同じ絵本を持つボク。

 きっと、それらが最悪のパターンで繋がったんだ。ボクが逃げなければ、あるいは逃げ出したとしてもあの町にたどり着いてクリスと関わらなければ、こんな事は起きなかったはずだ。

 何かあったら……ボクのせいだ。

 ボクがクリスの、触れてはいけないところに触れたんだ。

 どうしよう、という単語ばかりが頭に浮かんだ。

 身体が動かない。最悪な事ばかりが脳内をめぐって、それを確認するのかもしれないと言う恐怖がボクの身体を縛る。動け、動けない、怖いから行きたくない、逃げたい。

「ねぇ、そのクリスという子は『絵本』を持っていた? 大事に?」

 固まりかけた意識を引き戻す、ガーネットの声。

 ボクは声を出せず、こくこくと頷く事しかできなかった。

 それがどうしたのだろうと思う。絵本は何冊もばら撒かれている。半分くらいはもう燃やされたりしているかもしれないけれど、全滅したってワケじゃないはずだ。

 顔を見合わせる『傍観者』の二人。

 そこにはボク以上の焦りが浮かんでいた。

「……ガーネット、まさか」

「可能性がある」

 二人の間だけで進んでいく話。疑問が恐怖を消す。

「ねぇ、どうかしたの? 絵本がどうかしたって言うの?」

「その子は遺跡にいるよ、きっと」

「え……?」

「さっきも言ったけど、キミのような一部の人間にしか、あの『絵本』は持つに値するだけの価値を見出せないものなんだ。もしもその少女がこの森にきたのなら……いや、遺跡以外にこの森へくる理由は無いといってもいい。街道からもそれる、どこかの町に繋がる裏道も無い」

「案外、絵本を捨てるつもりかもしれないな。遺跡の屋上から投げ捨てれば……ま、よほどの幸運、あるいは運命の悪戯でもない限りはもう一度めぐり合う事もあるまい」

 まさかそんな事のために、と思いながらも……意外とそうなのかも、と思う。もしも森に来ているなら、ガーネットの言う通り遺跡目当ての可能性が一番高いとボクも思った。

 川に投げ捨てるなら、町のそばにも流れている。というか、単に捨てるという目的ならば暖炉にでも投げ入れればすべて終わるのだから……失踪する必要は、ない。

 あえて森に来る理由がるのなら。

 それは、ここにしか無いモノが目当てという場合。

 ここにしか無いモノ、絵本と関わりがあるモノ――遺跡。

「……行こうっ」

 顔を上げて走り出す。身体は自由に動いた。恐怖なんて知った事か。今、ボクが考えてやるべき事は一つだけ。クリスを捕まえて連れ戻す! ただそれだけを目標に掲げればいい。

 ボクの両隣をガーネットとアマランスが走る。

 今は僕に合わせているけれど、さすがに二人の方が早い。

「二人は先に行って! 見つけたら、絶対に逃がさないで!」

 ボクの声に二人は小さく頷いた。そして加速する。

 あっという間に二人は遠ざかっていった。でも悔しいとかは無い。自分がそうして欲しいと望んだと言うのもあったし、今はそんな事より少しでも早く彼女を見つけなければと思った。

 朝、クリスがいなくなってから感じている焦り。

 何となく、その正体がようやく掴めてきた気がしていた。

 同じ絵本を持っているから、伝わった。彼女の『絵本』に映りこむ感情に、クリスが飲まれかけている事が。それが狂気なのか恐怖なのか、その辺りはさすがにわからない。

 でも早くしないと、本当に取り返しがつかない事になる。それだけが、もう疲れ果てているボクの足に力をくれた。次第に遺跡の姿が見えてくる。もうすぐそこに在る。急げ急げ、ゆっくりなんてしてはいけないし許されない。足を前に進めて、ボクはクリスの長い髪を捜した。

 ボクの視界を遮る草むらを抜ける、飛び出す。そこには肩を上下させて立ち止まっているガーネットとアマランスの背中があって、ボクは勢いを抑えられず二人にぶつかってしまった。

「おっと」

「……大丈夫か?」

「ん、ゴメン。……ってて」

 鼻を打って少し痛い。視界が歪んだ。おかげでボクは転ばないですんだし、転んでしまった場合の痛みを考えたなら、この程度の痛みなんて全然平気。だからボクはそう言って笑った。

 だけど二人が足を止めているのは、どうして。

 ボクを気遣いながらも前を向いたままなのは……なぜ。

 答えなんて問う必要も無いほど簡単。

 そこに捜し人がいるから。

 ――クリス。

 寝る前に見た寝巻きのままの彼女は、その腕に絵本を抱きしめている。彼女はボクを見てびくりと身体を震わせた。何かを言いたそうな表情で、睨むようにボクを見ていた。

 ガーネットとアマランスは動かない。

 ボクが何とかすべき問題だと、彼らはわかってくれているから。

「クリス、帰ろう。みんな君を捜してる」

 ボクはゆっくりと彼女に近寄った。

 そのたびに、彼女はボクから離れていった。

 どうしてとは問わなかった。こういう時は本人にも理由はわからない。ボクはそれを嫌になるくらいに思い知っている。だからわかる。無理やりに連れ戻しても意味は無い。

 彼女が、クリスが自ら家に戻ろうと思わない限りは。

 だから落ち着くように、説得しないと。

「町中大騒ぎなんだ。君がいなくなって」

 近寄れば離れていく。これじゃ、まるで追いかけっこ。ボクは早くクリスを捕まえようと思っていて、向こうはボクから逃げようとしている。でも実際は追いかけっこじゃない。

 このままじゃいつまで経っても、変わらない。

「クリス……!」

 だからボクは間合いを詰める。小走りに駆け寄って、その腕を掴んだ。運動量としてはこっちの方が上。これでも毎日男の子に混じって、森や山の中を走り回っていたからね。

 いきなりの急接近と接触。クリスは驚いて息を呑んだ。

 その飲み込んだ息で、ボクを睨んで――一言。

「来るなバケモノ……っ!」

 最初は何を言われたのかわからなかった。耳から入った最初の情報を頭に届けて、それ以降は途中で詰まって止まって、そして大混乱している。音の響きだけが頭でぐるぐる回る。

 バケモノ。……ボク、が?

「クリ、ス……?」

「青なんて知らない赤も知らない緑って何なの橙がわからない! 知りたいなんてこれまでたった一度だって一瞬だって思わなかったのにどうしてわたしの頭の中に流れ込むの!」

 絵本を抱えて叫ぶクリス。目を見開いて叫ぶ。ボクは他人の心なんて読めない。でも今のクリスがボクに対して、憎しみにも等しい感情を持っている事が伝わった。

 でも原因が思いつかない。そりゃ、誰だって気に入らない部分の一つや二つはあったりするとは思うけど、バケモノと罵られるような嫌われ方、憎まれ方って尋常じゃない。

「こんな絵本、捨てたいの読みたくないの見たくないの触れたくもないの! だけどなぜか捨てたくなくて読んでいたくて見続けたくて触れていない事が耐えられない……っ」

 地面に叩きつけるジェスチャー。でも実際にはその手から離れる事は無い。ぷるぷると震えるくらい強く握った手が、どんなに腕を降るっても放すものかと掴んでいるから。

 口と身体、思いと身体が対立しあう。

 ぎょろりと、クリスの目がボクに向けられた。まるで全身の間際までいくつも凶器を突きつけられているような、痛くて寒くて怖くて身体が震えてしまう。こんな目をする人が実際にいるなんてボクは知らなかった。それをクリスがしているだなんて想像もしてない。

 ふっと浮かんだ、クリスの笑み。。

 それはきっと、狂喜という名の凶器と狂気。

「この本が『面白い』って言ったね言ったよね言ったでしょう!」

「……言ったよ」

「これが面白いって言った人を知ってるの! お姉ちゃんを殺したヤツ! 薄汚い下卑た笑いを浮かべてお姉ちゃんのね、あんなに優しくてかわいいお姉ちゃんの頭を鉈でめちゃくちゃにしやがった! そのバケモノも言ったのこの絵本が面白いって!」

 ボクの顔にぶつけるような勢いで、絵本をグイグイと前に突き出す。怒っているというよりも、自分が思いだしている事を必死に報告している感じ。今度はボクが離れていく。

 さっきとは逆だった。ボクが追われてクリスが追って。

 見守るつもりだったらしいガーネット達。クリスの様子を見ていてさすがにヤバいと思い始めたのか、ざら、と前に足を踏み出して力をこめた音が聞こえてきた。

 いつでも飛び出せるように、身構えているのかもしれない。

 それを見たクリスは、笑顔を一変させた。怯えと怒りが混ざった顔。もう聞き取れない奇声を上げながら、懐から果物用だと思われる小ぶりのナイフをさっと取り出す。

 それをボクに向けながら彼女は、叫んだ。

 そこにはもう、ボクが見知ったクリスという少女の面影は無い。

「来るな来るな来るな、お前らみんなバケモノなんだっ! 鉈で頭をグチャグチャのぐちゃぐちゃに叩き壊してお姉ちゃんを殺したアイツと、自分を同じように壊して壊れたアイツと同じバケモノバケモノバケモノバケモノバケモノバケモノバケモノ……っ!」

 ナイフを振り回すクリス。あああ、としか聞こえない絶叫で耳が痛い。どうやったら止める事ができるかを考える。その思考は頬をナイフの切っ先が掠めて、ぷつりと途絶える。

 瞬間的に沸き起こる恐怖。

 ボクは無意識に彼女から離れた――離れてしまった。

「わたしを同じようにしようとしても無駄っ。あんなにも醜くて汚らわしいバケモノに成り下がるくらいなら、あんなニンゲンの姿をしたシロモノに成り下がるなら……っ」

 叫んだクリスは切っ先を自分に向けた。飛び出したガーネットも間に合わない。きらりと水面のように光った鉄の板が、滑らかに滑り込んでいく。クリスの――身体の中へ。

 柔らかい寝巻きの生地と脆い皮膚を切り裂く。

 横に滑らせて、液体が零れる。

 ボクはそれを『赤』と知っている。

 ガーネットが追いついた、ナイフを抜いた。

 液体が溢れた。

 アマランスが服の裾を細く裂いて巻きつけ、ナイフが切り開いた部分を隠す。着々と応急処置が進んでいく。もうじき、二人で彼女を町まで運ぶのだろう。傷についてどんな理由を用意するのか知らないし考えたくも無いけど、森の中じゃ応急処置さえままならないから。

 それを、ボクはピクリとも動かずに見ているだけ。

 呼吸さえ止まりそうな、いっそ止まれと思うほどの、後悔と絶望……。


 数日後、ようやく意識が戻ったクリス。とても明るく笑う女の子。

 くすくす、うふふふ、笑い続ける。

 その笑顔はとても、とても幸せそうだった。

 さすがに自分で切り裂きましたとは言えなくて、お腹のケガは森の中で転んで、運悪く尖った岩で切ってしまったと説明してある。ごまかせないお医者様にだけ真実を言った。

 絵本はガーネット達が燃やしたという。ボロボロだったのは読みすぎたから、そして汚れはおそらく人間の血液。アマランスの見立てでは、クリスの姉の血じゃないかという。

 ご主人と奥さんは何度も頭を下げて、ガーネット達にお礼を言っている。

 命の恩人だって、泣いていた。二人は気まずそうな表情。当たり前だ。クリスがああなってしまった原因とも言えるのだから、お礼を言われても複雑でしかないだろう。

「クリス……」

 ボクは話しかける。バケモノと罵られない。代わりに反応も無い。クリスは薄く目頬染めて笑っている。今の彼女は、笑うためだけに存在しているに等しい『人形』。

 心が壊れたクリス。

 あの時ボクが離れなければ、あるいは。

「……ごめんね」

 これが……絵本がもたらした悲劇。こんな事が、十年前の聖都を襲った。一つ二つなんてものじゃない。その時には十個も二十個も起こってしまった、まさに最悪の出来事……。

 こんなのを見たら、確かに慎重にもなる。同じ事を繰り返したらって思う。今ならガーネット達が僕に説明をしてくれなかった、その理由が痛いくらいに悲しいくらいによくわかった。

 ねぇ、クリス。ボクは『色』を捜し続けるよ。君が壊れるくらいに否定した、否定し続けていたモノは、確かに『選ばれた者』をその資質ゆえに苦しめてしまうのかもしれない。

 君の姿を見たボクは怯えている。

 いつか同じような事になるのかも、って。

 だけどボクは行くよ。泣きたいくらいに悲しくて怖い。逃げたい。だけどもう逃げたりしないって決めちゃった、決めたんだ。泣きたいだけ泣いてきたから……もう大丈夫。

 ねぇ、クリス。ボクは『色』はこの世界の人間に、必要な物だと思う。信仰という名の贖罪なんてもう意味が無いんだよ。いい加減に自分で自分の罪を赦すべきなんだ、人間は。

 ボクは、行くよ。


     *  *  *


 旅の最中。ふいに脳裏をよぎったのは、あの子供の姿だった。

 十年前の一件以降、この世界そのものさえが異常に見えるエストが、声の主――従者以外に初めて出逢った普通に直視できる存在。言うならば『視界に優しい』容姿の子供。

 数日振りに再会した灰髪の子供は、エストを見てその顔を歪ませた。

 その、今にも泣き出しそうな表情に、さすがのエストも焦る。慌てて羽織りかけていた外套を脱いで子供にかぶせた。人前で泣くなど、余計悲しくなるだけだと思ったからだ。

 ――前に捜していた女の子とやらはどうした?

 無難な話題のつもりだった。だけど外套の隙間から覗く表情がさらに歪み、エストは選択を間違えた事を知る。けれど音としてつむぎ出した声は、もう取り消す事はできない。

 小さな、聞き取れないほどの声で、子供は呟く。

 ――間に合わなかった。ダメだった。助けられなかった。壊してしまった、救ってあげられなかった。すぐそばにいたのに何もできなかった。ボクは弱い、反吐が出そうなくらい弱い。

 小さな肩を震わせて泣く。小さな声で泣く。事情がゆっくりと語られた。

 間に合ったけど間に合わなくて、救えるはずだったのに救えなくて。何もかもが悪い方向に進んだと子供は泣いた。クリスという名のその少女は壊れて、もう戻らないと。

 ――命は助かったかもしれないよ。生きてるかもしれないよ。だけどもうクリスは元の彼女には戻れない。ボクが壊してしまった。壊れてしまった。ボクが彼女を壊してしまった。

 泣きじゃくる子供を人がいない場所へ連れて行く。そこで望むまま、泣きたいだけ泣かせてやった。共に旅をしているという者の前では、どうも泣けていないようだったから。

 その感覚はエストにも覚えがある。悩みを誰にも言えなくて、苦しさをどう伝えればいいのかがわからなくて、一人で何年も抱えていた。引きずりながら、捨てられずにいた。

 ひとしきり泣いた子供は恥ずかしそうな顔で、そっぽを向きながら小さな声でお礼を言って去っていく。その背中には、過去のエストが持てなかった『強さ』が見えた。

 あの、幼いながらも凛とした強さを持った子供。

 同じ事になってしまうのだろうか、あのクリスという名の娘と。

 あの、『悪夢の魔本』に導かれるままに……。


「あいつは……あいつは、大丈夫なのか」

『それは心配ないよ、エスト』

『そうそう、心配ないんだよ、エスト』

 独り言のように呟いたその声に、従者は答えた。

『だって彼女は不幸な娘。でもあの子は幸福な娘』

『だってエストは選ばれた者。二人は選ばれし者達』

『生半可な力じゃ己を壊すだけ。それが絵本の副作用。見えないモノ、感じる事ができないモノを無理やり知識として植えつける。それが『異界の絵本・ダークネス』だから』

『中途半端な資格なんかじゃ、自分を殺すだけ。それが『悪夢の魔本』の副作用。死んでも生まれ変わっても至れないような、遠すぎる場所に向かえと脅迫する。それが――』

「もういい」

 あまりにもくだらない、興味をもてない内容になってきたので止める。それからエストはまた歩き出す。とりあえずそろそろ聖都に帰らないと、やっかいな事になりかねない。

 しかし彼の歩みを邪魔するものがいた。彼の『従者』である二つの声だ。

『でもエストが他人を心配するなんてねー』

『しかもよりによってあの子だしねー』

 くすくすと嗤う声。

「……どういう意味だ」

『『あれー、もしかしてあの子の事、エストは全然知らないの? あの子が何なのか、誰なのかを知らないのに、それなのに、さっきからエストはあの子を心配しているの?』』

「……あぁ」

『『そっかー、知らないなら仕方が無いね。教えてあげる』』

 重なる声は不協和音。

 くすくすと嗤う声。

『『あのねぇ、初めて私=俺とエストが逢ったあの夜に』』

 十年前、エストが暮らす町に二人が『絵本』をばら撒いた、あの夜に。

『『色の簒奪者――エストが殺した《灰の娘》だよ』』

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