簡単TS浴衣〜3分で浴衣女子に変身
夏祭りの喧騒が遠くのスピーカーからかすかに聞こえてくるような、湿った風が窓から吹き込む夜だった。
画面の中で光る怪しげな通販サイトのバナー――
『簡単TS浴衣〜3分で浴衣女子に変身』。それは、ひねくれた男の好奇心を刺激するには十分すぎるほど胡散臭く、そして甘美な誘惑に満ちていた。
「どうせ着物なんて、帯の結び方ひとつで迷路に迷い込むようなもんだろ」
独り言をこぼしながらも、指先は正直だった。
ポチリ、と購入ボタンを押してから数日。
届いたのは、拍子抜けするほどコンパクトな小包だった。中に入っていたのは、深みのある藍色に朝顔が散りばめられた、一見すると何の変哲もない綿の浴衣だ。
自室の鏡の前に立ち、説明書もそこそこに、ひやりとした生地に腕を通す。
袖に手を通した瞬間、奇妙な感覚が背筋を駆け抜けた。布地が肌に触れた場所から、微弱な電流のような、あるいは氷水に浸したような心地よい冷たさが全身へ伝播していく。
「え……?」
声が、わずかに高い。
鏡の中の自分の肩幅が、目に見えて狭まっていく。鏡越しに見える鎖骨のラインはなだらかな曲線を描き、さっきまでゴツゴツしていた指先は、白く細く、頼りなげな形に変わっていた。
――ガタガタ、と膝が震える音がする。
鏡の前の男が、内側から溶けていく。
骨格が、筋肉が、皮膚の質感が。数秒前までそこにいたはずの「男」の輪郭が消滅し、代わりにそこに収まったのは、黒髪を揺らす、初々しい少女の姿だった。
浴衣の合わせ目がピタリと決まる。帯を締めてもいないのに、衣紋が自然と抜け、色香を纏った和装の美少女がそこに立っていた。
「嘘だろ……これ、本当に……俺なのか?」
戸惑いながら震える手で頬に触れる。そこには、剃り跡のない滑らかな肌の感触しかなかった。
◇
鏡の中に映る自分――
いや、見知らぬ美少女が、困惑したように同じ顔でこちらを見つめ返している。
藍色の生地越しでも分かるほどに、胸元がふっくらと膨らんでいる。以前ならただのTシャツだった場所が、今は柔らかな曲線を描く女性のシルエットに置き換わっていた。
恐る恐る、華奢な指先で自分の頬に触れる。
「えっ……この手ざわり♡」
指先から伝わる感触が、あまりにも滑らかで繊細だった。
硬さや、指の節々にあるゴツゴツとした男の面影はどこにもない。触れれば壊れてしまいそうなほどの、瑞々しい肌の弾力。それが、紛れもなく自分の顔の一部であるという事実に、背筋に痺れるような熱が走った。
思わず視線を下へ落とすと、浴衣の襟元が少しだけ開いていることに気づく。
直そうとして、ふわりと手を伸ばしたその時だった。
「うわっ……!」
自分の身体が、あまりにも柔らかい。
いつも通りの感覚で腕を伸ばしたはずなのに、関節が驚くほど滑らかに動く。腕の筋肉の抵抗感が消え去り、まるで絹のような質感を纏っているせいで、重心の取り方さえもまるで違うのだ。
浴衣の合わせを正そうと手を回した途端、腰のくびれと柔らかな腹部の感覚が指に伝わり、電流のような衝撃が脳を駆け抜けた。
「なにこれ……俺の身体……こんなに、柔らかくて……」
自分の手でありながら、まるで他人の身体を触っているような背徳感。襟を引き寄せようとすると、胸の膨らみが布地を押し上げ、自分の意志とは無関係に、華奢な肩から衣紋が滑り落ちそうになる。
慣れない身体のしなやかさに、バランスを崩しかけてふらりとよろめく。慌てて手をついた先、鏡台の端に触れた指先も、かつてよりずっと細く、頼りなげだった。
心臓が、早鐘を打っている。ドクン、ドクンという鼓動の音さえ、以前より高く、繊細に響く。
これが、魔法? それとも夢?
鏡の中の美少女は、恥じらいに頬を染めながら、困ったように眉を下げている。それが、今の自分の心境をそのまま写し鏡のように表していた。
◇
鏡の中の美少女から目が離せない。いや、違う。この「女の子」が自分自身だという事実を、理屈がどうしても飲み込めないのだ。
だが、窓の外から流れてくる祭囃子の笛の音が、不思議なほど強く鼓膜を叩く。熱を帯びた空気が、この薄い浴衣を透かして、新しい身体の肌を撫でた。
「……行くか、ちょっとだけなら」
声は鈴を転がすような響きで、自分の耳をくすぐる。男の自分が聞いたら悶絶しそうな甘い声に、背筋がゾクリと震えた。
鍵を開け、ドアの向こうへ一歩踏み出す。フローリングを歩く足裏の感覚さえ、裸足の指先の繊細さが地面を捉えていて、いちいち新鮮だ。
マンションの外へ出ると、夜風が火照った頬を冷やしてくれる。
しかし、浴衣姿で歩くという行為が、これほどまでに無防備だとは知らなかった。
路地を抜けて祭りの会場へと続く大通りに出た途端、世界が「自分」を見る角度が劇的に変わったことに気づく。
「お、あの子、浴衣似合ってるな」
「かわいい……誰かモデルかな?」
通りすがりの若者たちの視線が、チクチクと肌に刺さる。
今までなら「背景」の一部だったはずの自分に、周囲の視線が吸い寄せられていく。
男としての生存本能が「隠れろ」と警報を鳴らすが、今の身体はスカートの中を気にするように膝を合わせ、歩くたびに浴衣の裾が足首を掠め、その感触に意識が持っていかれる。
屋台の明かりが、瞳に反射する。
焼きそばの焦げた匂い、かき氷の冷たい甘さ、そして大勢の人々の喧騒。五感のすべてが、以前とは比べ物にならないほど解像度を上げて飛び込んでくる。
人混みに紛れようと少し早歩きをすれば、重心のバランスを崩しかけ、隣を歩いていた知らない誰かの肩にふわりとぶつかった。
「あ、ごめん……っ」
咄嗟に謝った声は、甘く消え入りそうで、ぶつかった相手の男性が驚いたように足を止める。相手が自分を「可憐な女の子」として見下ろしている視線に気づき、心臓が跳ね上がる。
逃げ出したいような、でも、このまま浴衣姿で祭りの夜に溶けていたいような――。
男の心を持ったまま、美少女として衆目に晒されるという、あまりに刺激的な体験に、指先が小さく震え始めた。
◇
賑やかな祭囃子が遠ざかり、提灯の明かりが薄れていく。
焦燥感は次第に高揚感へと塗り替えられていた。
焼きそばの香ばしいソースの匂い、かき氷のシロップが舌の上で溶ける冷たさ。慣れないはずの華奢な指先で手際よく箸を操る自分に、内心で驚きつつも、どこか誇らしささえ感じる。
人混みを縫うように歩くたび、柔らかな生地が肌を撫でる。裾が足首に触れる心地よい摩擦や、男だった頃には意識もしなかった「重心の置き方」を、今の身体は本能的に理解していた。
女の子として誰かに微笑みかけられるたび、心臓が跳ねる。それは困惑というより、自分がこの夜という舞台の「主役」になれたような、甘美な浮遊感だった。
気がつけば月が高く昇っていた。騒がしい熱狂を背に帰宅し、部屋の鍵を閉める。
鏡の前で浴衣を解くと、滑らかな肌が露わになった。指先で触れる自分の輪郭は、まだ夢の中にいるように柔らかい。そのままベッドに倒れ込むと、祭りの興奮と心地よい疲労が波のように押し寄せ、すぐに深い眠りへと落ちた。
◇
翌朝。
目覚めとともに、あの夢のような体験がフラッシュバックする。昨夜の甘い余韻と、自分の身体が奏でた繊細な感覚が忘れられない。
「もう一度……あの姿で、鏡を見てみたい」
衝動に駆られ、昨夜の浴衣を手に取る。生地は少しだけ温もりを帯びていた。期待に胸を高鳴らせ、再び袖を通す。
肩に生地が触れる。その感触は変わらないはずだった。
だが。
視界が歪むことも、視線が低くなることもない。肩幅の感覚は男のまま、ごわついた指先は無骨な形のままで止まっていた。
何度も襟を合わせ、姿勢を変え、深呼吸を繰り返しても、そこに映っているのは、見慣れた男の寝ぼけ顔だけだ。
鏡台に手を突くと、冷たい木の感触が直接伝わってくる。昨夜、魔法のように感じられたその感触はどこにもない。
浴衣を脱ぎ捨て、呆然と立ち尽くす。祭りの終わりの静寂が、部屋に重く満ちていた。
――けれど、喉の奥にまだ昨夜の甘い熱が残っている。
男は吸い寄せられるように、散らかったPCデスクに向かった。履歴に残る「簡単TS浴衣」の販売ページ。その関連リンクに並ぶ、別の怪しいバナーたちが目に入る。
『女子高生制服・30秒で青春を取り戻す』
『絶対領域をその手に。絶対変身ニーハイ』
画面の青白い光を浴びながら、男はマウスを握りしめる。
夏はまだ終わらない。もし、別の方法があるのなら――。
画面の中でカーソルがゆっくりと次の「夢」を求めて彷徨い始める。
心地よい蝉時雨が窓の外で鳴り響き、PCの駆動音が小さな調べとなって、物語の終わりを告げるように静かに重なっていった。
完




