蹴首管領矯正録
※観応の擾乱における高師直の襲撃主体については諸説ありますが、本作は能憲説に拠りました。また、本作はW杯とは何の関係もございません。
一 高師直、転がる
上杉能憲(十九歳)は迷わず急坂を駆け降り斬りかかった。
憎き仇・高師直が倒れた。
ほんの一瞬、辺りの音が消えた。首に刃が入る。骨を断つ鈍い音がした。次の瞬間、師直の首が宙へ跳ねた。
「――っしゃあああああああ!」
能憲は叫んだ。天地がひっくり返るような声だった。
宙に飛んだ首がやがて泥の上に落ち、跳ね、転がった。前夜の雨が、武庫川の堤をぬかるませていた。師直の首は泥を撥ねながら、思いのほかよく転がった。能憲は首を追って駆け出した。
「若殿!」
誰かが呼んだが、聞こえなかった。師直の首しか見えなかった。養父を殺した男。眠れぬ夜ごとに、その喉を搔き切り、腹を裂き、何度も何度も殺してきた男。それが今、地面を転がっている。
生きていたころには、将軍の執事だった。軍勢を動かし、国を動かし、養父・上杉重能を殺した。だが、首だけになれば。
「軽い!」
能憲の右足が、師直の頬を捉え、首が飛んでいった。泥を跳ね上げ、二間ほど先へ転がっていく。
「入ったああああ!」
能憲は両腕を突き上げながら膝スライディングした。何に入ったのかは、誰にも分からなかった。周囲の兵も、つられて鬨の声を上げた。
「おおおおお!」
「高師直、討ち取ったり!」
「重能公の御無念、晴らしたぞ!」
能憲は走った。止まった首を、また蹴った。
「もう一つ!」
今度は爪先が顎の下へ入った。師直の首は高く浮き、くるくる回って落ちた。
歓声が上がった。
能憲の血が沸騰した。気持ちが軽い、身体も軽い。甲冑なのに何日でも走れそうだった。
師直を殺した、自分が。やっと。
自分の足で、重能の仇が、今、自分に蹴られている。
「見ましたか、父上!」
能憲は天に向かって叫んだ。
「師直です! 師直が転がっております!」
笑いが止まらなかった。息ができないほど笑いながら、首を追った。師直の顔はもう泥まみれだった。片目が半ば開いている。能憲には、それがまだ自分を睨んでいるように見えた。
「何だ、その目は」
胸の奥で、何かが弾けた。ぐつぐつとした何かが一瞬で噴き上がった。
「まだ偉いつもりか!」
蹴った。
「父上を殺したからか!」
蹴った。
「天下の執事だからか!」
蹴った。
「もう首だぞ!」
蹴った。
「お前は、ただの首だ!」
蹴るたびに兵たちが声を上げた。最初のうちは。
「若殿、お見事!」
「もっとやれ!」
「仇討ちだ!」
しかし、五度、六度と続くうち、歓声がまばらになった。
七度目には、誰も声を上げなかった。
能憲だけが笑っていた。
「逃げるな!」
首が石に当たり、向きを変えた。
「そちらではない!」
スルーパスのように追いかけて蹴った。
「若殿」
「次はどこへ入れる!」
「若殿、もう十分にございます」
「何がだ!」
能憲が振り向いた。顔は笑っていた。目は血走り、口元は大きく裂け、歯がすべて見えていた。声をかけた兵が後ずさった。
「師直を討ち取りました。御本懐は、すでに」
「師泰は」
「は」
「師泰の首はどこだ」
「すでに討たれたと」
「持ってこい!」
能憲は再び両腕を上げた。
「二つでやるぞ!」
「何をでございますか」
「知らん!」
自分でも分からなかった。ただ、もっと蹴りたかった。もっと転がしたかった。もっと皆に見せたかった。
重能を殺した者たちが、今は自分の足元にいる。この快感を終わらせたくなかった。
「若殿、お鎮まりください」
背後から腕を取られた。能憲は激しく振りほどいた。
「放せ!」
「もう死んでおります!」
「知っている!」
「死者をそれ以上いたぶるのは」
「死んでいるからできるのだ!」
場が静まり返った。
能憲は肩で息をしていた。何がおかしいのか分からなかった。生きていれば抵抗するし、武器も持つ。こちらを殺す。だが、死ねば抵抗しない。いくら蹴っても、能憲を傷つけない。だから安心して蹴れる。
「父上――重能殿は」
能憲の声が震えた。
「何もできぬまま殺された!」
目の前が赤かった。
「ならば、こいつにも何もさせるな!!」
また首へ向かおうとしたところを、今度こそ三人がかりで押さえ込まれた。
「放せえええ!」
能憲は地面を蹴った。
「まだ終わっていない!! 師直をこちらへ戻せ! もう一度だ! もう一度、蹴らせろ!!」
泥の中に組み伏せられても、笑っていた。高師直を討った喜びが、身体中から噴き出して止まらなかった。
その日、上杉能憲は養父の仇を討った。
同時に、味方の者たちは初めて知った。この若者は、敵に回すよりも、味方として抱えておく方が恐ろしい。
*
二 名将の鉄拳
「父上」
能憲は、信濃の隠れ家へ入るなり膝をついた。
「重能殿の仇を――」
最後まで言えなかった。憲顕の拳が頬へめり込んだ。能憲の身体が横へ飛んだ。肩から柱へぶつかり、崩れ落ちる。一瞬、何も見えなかった。口の中に鉄の味が広がった。
「……父上?」
能憲の実父・憲顕は答えなかった。大股で近づき、息子の襟を掴んで引き起こす。もう一発。今度は腹だった。
「ぐっ」
能憲は膝から落ちた。息ができない。床へ手をつき、咳き込む背中へ、憲顕の平手が飛んだ。
「この!」
一発。
「大!」
もう一発。
「馬鹿者が!」
能憲は床に転がった。手で頭を庇う。
「お、お待ちください、父上!」
「待てと言われて待ったか、お前は!」
「誰にです!」
「師直にだ!」
「師直は敵です!」
「降人だ!」
憲顕の足が能憲の尻を蹴り上げた。
「痛い!」
「師直の首もそう言ったか!」
「何も言いませんでした!」
「死んでおるからだ!」
さらに蹴られた。能憲は這って逃げた。
「兄上!」
部屋の端に憲将が座っていた。
「止めてください!」
「私も父上に賛成だ」
「では、せめて口で言ってください!」
「父上は先ほどから口でも言っている」
「拳の方が多い!」
憲顕は能憲の後襟を掴み、そのまま引き戻した。
「師直を殺したな」
「はい!」
拳骨。
「師泰も殺したな」
「私一人ではありません!」
拳骨。
「一族を皆殺しにしたな」
「敵ですから!」
拳骨。
「首を蹴ったな」
「それは私です!」
ひときわ重い一発が落ちた。能憲は額を床に打ちつけた。
「なぜ今のが一番痛いのです!」
「当たり前だ!」
「敵将の首です!」
「だから何だ!」
「蹴りやすい形をしておりました!」
憲顕は無言になった。憲将も無言になった。能憲は顔を上げた。
二人が、信じられないものを見る目でこちらを見ていた。
「……丸いでしょう」
憲顕が息を吸った。
「憲将」
「はい」
「戸を閉めよ」
「父上」
「外へ逃がすな」
憲将が静かに立ち、戸を閉めた。能憲は後ずさった。
「兄上?」
「観念しろ、能憲」
「待ってください。私は仇を討ったのですよ」
「知っている」
「重能殿の」
「皆、知っている」
「ならばなぜ」
憲顕は能憲の前へしゃがみ込んだ。
「お前は一人を殺した」
「高一族ですから、一人では」
「黙れ」
額を小突かれた。
「一人を殺すために、尊氏殿の面目を潰した。直義殿の和議を踏みにじった。今後、降伏しようとする者へ、降っても殺されると教えた。上杉は約を守らぬ一族だと思わせた。そして、自分を処罰せねば尊氏殿が収まらぬところまで事態を悪くした」
「ですが、師直は死にました」
「そこしか見えぬのか!」
「一番大切なところです」
憲顕は、もう一度拳を握った。憲将がその腕を取った。
「父上。これ以上は、話を聞けなくなります」
「今も聞いておらぬ!」
「頭蓋が割れれば、もっと聞かなくなります」
憲顕はしばらく息子を睨み、ようやく拳を下ろした。能憲は胸を撫で下ろした。
「まず、お前には」
憲顕は低い声で言った。
「敵を殺してよい時と、殺してはならぬ時があることを教える」
「殺してはならぬ敵などいるのですか」
憲顕の拳が再び上がった。
「父上」
憲将が止めた。
「今日は長くなります。腕を温存なさってください」
*
三 よりによって、こちらが残った
憲将の死を知らせる文を、憲顕は三度読んだ。
一度目は父として。
二度目は一族の長として。
三度目は、自分の残りの息子を思い浮かべながら。
読み終えると、憲顕は文を膝へ置いた。
長い沈黙があった。
「父上」
能憲が声をかけた。憲顕は答えなかった。
「兄上は、何と」
「死んだ」
「……そうですか」
能憲は俯いた。
憲将は、何でもよく分かる男だった。父の命令は一度で理解した。命じられていないことまで整えた。相手の言い分を聞きながら、その裏にある利害を読み取った。能憲が怒って人を斬ろうとすると、父より先に止めた。
言葉で。
それで止まらなければ、父を呼んだ。
兄が死んだ悲しみは、能憲にもあった。ただ、それをどう表せばよいか分からなかった。
「父上」
「何だ」
「私がおります」
憲顕はゆっくり顔を上げた。
能憲を見た。長く見た。上から下まで見た。特に右足を見た。師直の首を蹴り飛ばした足だった。
憲顕の顔から、わずかに血の気が引いた。
「……お前か」
「はい」
「お前が残ったのか」
「はい」
憲顕は両手で顔を覆った。頭を振りながら、深い息を漏らした。それはため息というより、負け戦の最中に最後の退路まで塞がれた将の息だった。
「父上」
「少し黙っておれ」
「ですが」
「頼む」
頼まれたので、能憲は黙った。憲顕は顔を覆ったまま動かなかった。肩が、目に見えて落ちていく。
能憲はさすがに少し傷ついた。
「そこまでですか」
「何がだ」
「私が残ったことが」
憲顕は手を下ろした。
「憲将は、言えば分かった」
「私も分かります」
「お前は殴っても分からなかった」
「最終的には分かりました」
「首を蹴ってはならぬことを覚えるのに、三日かかった」
「今は蹴りません」
「蹴りたいとは思うのだろう」
「時には」
憲顕は天井を仰いだ。そして蚊の鳴くような声で呟いた
「憲将……なぜお前が先なのだ」
憲顕の頬を雫がつたった。
「父上、それは私に失礼では」
「お前にしか言っておらぬ」
「聞こえております」
「聞かせておる」
能憲は黙った。
憲顕は顔を改めてから息子を見返した。
普段は温厚である。礼儀も身についた。使者への応対も丁寧になった。文書の読み書きにも不足はない。相手の弱みを見抜くことにかけては、むしろ憲将より鋭い。
だが、その弱みを見つけたときの目がいけない。
喜ぶのだ。
人が何を失えば最も苦しむかを考え、それを正確に言い当てるたび、能憲の奥で何かが尻尾を振っている。
政治家として使える。
使えるが、油断すると人を追い詰めること自体を楽しみ始める。
憲顕は頭を抱えた。嫡男が死んだ。そして残ったのは、よく切れるが、時々ひとりでに鞘から飛び出す暴れ刀だった。
「兄上の代わりにはなれません」
能憲が言った。
「当然だ」
即答された。
「そこまで早く否定しなくても」
「お前を憲将の代わりにしようとは思わぬ」
「では、どうなさいます」
憲顕は答えなかった。能憲を政治から遠ざけることも考えた。寺へ入れるとか、所領だけ与えて地方へ置くとか、戦場でのみ使うとか、考えた。
しかし、どれも駄目だった。
寺に入れれば僧兵を率いる。地方へ置けば隣領と揉める。戦場だけで使えば、勝手に敵将の首で遊ぶ。
目の届かぬところへ置く方が危ない。
ならば……
憲顕は、戦場で何度もしてきたように、手持ちの兵を数えた。良い兵を望んでも、いないものはいない。残った兵で勝つしかない。
「能憲」
「はい」
「お前を後継者にする」
能憲は目を見開いた。
「本気ですか、大丈夫ですか」
「儂が一番聞きたい」
「父上がお決めになったのでしょう」
「他におらぬ!」
憲顕は怒鳴った。怒鳴ってから、頭を抱えた。
「よりによって……」
「まだ言いますか」
「お前は自分がどれほど手のかかる息子か分かっておらぬ」
「今は、かなり行儀よくしております」
「行儀の話ではない!」
「では、何が問題です」
「今その顔で聞けるところだ!」
能憲は首を傾げた。憲顕は机を叩いた。
「まず、人が困るのを見て笑うな」
「笑っておりません」
「目が笑う」
「目は仕方がありません」
「仕方なくない!」
「では目を閉じます」
「交渉中に目を閉じるな!」
「難しいことばかりおっしゃいますね」
憲顕は机へ突っ伏した。能憲はしばらく父を見ていた。
「父上」
「何だ」
「お疲れですか」
「お前のせいだ」
「まだ何もしておりません」
「これからするであろうことを考えて疲れておる」
能憲は少し考え、父の向かいに正座した。
「何から覚えればよいですか」
憲顕が顔を上げた。能憲の顔に笑いはなかった。憲将の代わりになれるとは思っていない。だが、逃げようともしていない。それだけは救いだった。
憲顕は長い息を吐いた。
「まず、怒ったときに歯を見せるな」
「そこからですか」
「そこからだ」
「政治の話では」
「お前の場合、それが政治の第一歩だ」
能憲は口元を手で覆った。
「こうですか」
「手も下ろせ。不審だ」
「難しい」
「儂もそう思う」
憲顕は再び深く息を吐いた。
足利直義に名将と呼ばれた男は、その日、生涯で最も難しい戦を始めた。
敵は息子だった。
勝利条件は、息子を殺さず、息子にも誰かを勝手に殺させず、しかも関東を治められる人間にすること。
兵力は拳一つ。
援軍だった憲将は、もういない。
憲顕は、心の底からげっそりした。
*
エピローグ
上杉能憲はその後、父・憲顕の跡を継いで関東管領となり、都鄙の交渉に力を尽くした。
物腰は丁寧、判断は慎重。怒声を上げることもなく、相手の面目を保ちながら話をまとめる名管領であったという。
ただし、ときおり微笑みから覗く白い歯だけは、若き日の武庫川での伝説と相俟って、関東の武士たちから大いに恐れられた。
後年、能憲は国を懸けて首の代わりに鞠を蹴るようになったという。観衆の前で得点を決めても、敵将の首を要求することはなかった。
父・憲顕の教育は、長い年月を経て、ようやく実を結んだのである。
もっとも、得点のたびに歯を剝き出していたかどうかは、伝わっていない。また、敵陣深くへ切り込む癖だけは、生涯改まらなかったという。




