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不殺の包丁 ‐人斬り浪人が神田の片隅で振るう、奇跡の立て直し飯‐  作者: 葉山 乃愛


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第17話:「不殺の閃きと、夜明けの絶品茶漬け」

チャキッ……。



静寂に包まれた広間で、三年ぶりに鯉口が切られる音が響いた。



背後から迫る幻夜の双黒刃。

殺意に満ちたその一撃が陣の背中を裂こうとした瞬間、陣の身体が霞のようにブレた。



紅葉の目が驚愕に見開かれる。

かつて最強の暗殺者と呼ばれた陣の、伝説の歩法。

力みも殺気も一切ない、まるで水面に波紋を広げるような自然体の動き。



「消え……っ!?」



幻夜が焦燥の声を上げた時には、陣はすでに幻夜の懐に潜り込んでいた。

その手には、さらしから解き放たれた一振りの刀が握られている。



だが、その太刀筋は、幻夜が予想した「斬撃」ではなかった。



カァァァァンッ!!



甲高く、そして清らかな金属音が不忍池の夜空に響き渡る。

陣が放ったのは、刀の峰(背の部分)を使った、神速の打ち込み。



狙ったのは幻夜の身体ではない。彼が振り下ろした二振りの黒包丁の、目には見えない極小の「歪み」だった。



食材の繊維を見極めるように、鋼の脆い部分を正確に突いたその一撃。

直後、幻夜の誇る黒刃は、まるで薄氷が割れるように粉々に砕け散った。



「あ……あ……」



武器を失い、両腕の痺れに耐えきれず、幻夜はその場にへたり込んだ。



「お前の包丁が泣いていたぞ。人を斬るためではなく、命を活かすために打たれたはずの鋼だ」



陣は静かに刀を鞘に収め、再びさらしで固く封じた。

その横顔には怒りも憎しみもなく、ただ道具を汚されたことへの深い悲しみだけがあった。



「お、俺の負けだ……。だが、これで終わったと思うなよ」



幻夜は砕けた刃の破片を握りしめ、血を流しながら陣を睨みつける。



「闇包丁の真の頭領……『大膳だいぜん』様が江戸にいる限り、お前たちに安息はない。

あの御方は、食のことわりすべてを支配する神だ……」



その名前を聞いた瞬間、背後で控えていた氷室が小さく息を呑んだ。

だが、幻夜がそれ以上語ることはなかった。

憑き物が落ちた悪徳商人や役人たちが、自らの保身のために「この逆賊を捕らえよ!」と叫び、幻夜を取り押さえたからだ。



長い夜が明けた。

江戸の闇を一つ晴らした四人は、朝焼けに染まる神田の焼け跡へと戻ってきていた。



「陣さん、お怪我はない? 本当に、本当に怖かったんだから……」



お鈴が涙ぐみながら陣の袖を掴む。

紅葉は呆れたようにため息をついたが、その顔には安堵の笑みが浮かんでいた。



「本当に規格外の男ね。あんな峰打ち、暗殺組織の頭目でも防げないわ。

……でも、あなたの剣が人を傷つけるためのものじゃなくて、少し安心した」



紅葉の言葉に、陣は小さく微笑んだ。

そして、焼け残った土間に置かれた七輪に、静かに火を熾し始めた。



「色々と気を張った夜だった。……少し、腹に入れよう」



陣が用意したのは、一杯のどんぶり飯。

そこへ、お鈴が守り抜いた鈴屋の粗塩をほんの少し振り、軽く焦げ目をつけた鰯のほぐし身を乗せる。

さらに紅葉が集めた薬草の中から、香りの良い三つ葉と、刻んだ柚子の皮を散らした。



「お鈴殿、氷室殿。昨夜の鬼笠子の出汁が、少しだけ残っている」



陣は、土鍋に残っていたあの透き通るような出汁を、熱々に温め直し、どんぶりの上からたっぷりと回しかけた。



ジュワァァッ……。



熱い出汁がご飯と塩に触れ、えも言われぬ香ばしい匂いが神田の朝の空気に溶け出していく。

陣特製の、絶品茶漬けだ。



「うわぁ……! 陣さん、いただきます!」



お鈴がたまらず箸を取り、茶漬けを掻き込む。

その瞬間、徹夜の疲労と恐怖で強張っていた彼女の顔が、ふわりと花が咲くように綻んだ。



「美味しい……! お腹の底から、ぽかぽかしてくる。

昨日の鬼笠子のお出汁が、ご飯の甘みと混ざって……なんだか、涙が出そう」



紅葉も黙々と茶漬けを口に運び、その手を止めることができないでいる。

暗殺者として生きてきた彼女にとって、こんなにも心を満たす温かい食事は、生涯で初めての経験だった。



氷室もまた、茶漬けを啜りながら、陣の背中を深い敬意の眼差しで見つめていた。



「陣殿。この茶漬けは、天下の将軍家に出しても恥じぬ、最高の一膳だ。

……だが、幻夜が残した言葉が気にかかる」



氷室が箸を置き、重い口を開いた。



「闇包丁の頭領、『大膳』。……実は、拙者はその男を知っている。

いや、知っているどころではない。あの男こそが、拙者の師匠であり……そして、陣殿の持つその『出刃包丁』を鍛え上げた張本人なのだ」



その言葉に、お鈴と紅葉の手が止まった。

陣は茶漬けの椀を置いたまま、無言で朝日を見つめている。



「……薄々、感づいてはいた。この包丁から伝わる熱の裏側に、底知れぬ冷たさがあることを」



陣は腰の包丁箱にそっと手を添えた。



最大の敵は、江戸の食のすべてを創り上げた伝説の職人。

神田の長屋で啜る温かい茶漬けの味は、これから始まる壮絶な師弟の因縁と、本当の意味での「江戸の立て直し」に向けた、静かなる決意の味だった。



「ごちそうさまでした。……さて、今日も店を立て直すぞ」



朝日の中、陣の穏やかな声が響く。

血塗られた過去を捨てた不殺の浪人の、次なる戦いが静かに幕を開けようとしていた。

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