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不殺の包丁 ‐人斬り浪人が神田の片隅で振るう、奇跡の立て直し飯‐  作者: 葉山 乃愛


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第16話:「黒炎の灼き網と、雪解けの鬼笠子」

料亭「黒水」の広間に、轟々という異様な音と熱気が渦巻いていた。



幻夜の陣取る調理場。そこには、通常の炭の何倍もの熱を放つ「黒炭」が山と積まれ、文字通り黒い炎が噴き上がっている。



「見よ! これが食材の魂すら焼き尽くし、我が意のままに染め上げる『黒炎こくえん』だ!」



幻夜は二振りの黒包丁を巧みに操り、宙に放り投げた巨大な伊勢海老や高級魚を、落ちてくるまでに完璧な一口大へと解体していく。

そして、それらを黒炎の上に置かれた鉄網へ乱暴に叩きつけた。



ジュワァァァッ!!



暴力的なまでの脂の弾ける音と共に、広間全体に濃厚で、どこか頭の芯を痺れさせるような香りが充満する。

幻夜が仕上げに刷毛で塗っているのは、阿片にも似た強い依存性を持つ特殊な香辛料を煮詰めた「黒だれ」だった。



上座に座る悪徳商人や役人たちの目が、その匂いだけでトロンと濁り始める。



「……おお、たまらん匂いだ。これぞ我らが求める、民を支配するための『至高の味』よ」

「あの浪人が何をしようと、この刺激の虜になった舌には水のようにしか感じられまい」



審査員たちが下卑た笑いを漏らす中、お鈴はあまりの熱気と異臭に袖で鼻を覆った。



「なんて乱暴なお料理……。あんなの、食材が可哀想だよ」



「あれが奴のやり方だ。極限の刺激で舌を麻痺させ、食う者の思考を奪う」

氷室が忌々しそうに吐き捨てるように言った。



だが、当の陣は、そんな幻夜の派手な調理を一瞥だにしていなかった。



陣のまな板の上には、三日三晩の寒晒しと薬草漬けを経て、見事な白銀色を取り戻した「鬼笠子」の身が置かれている。

猛毒と腐敗臭は完全に抜け落ち、そこにあるのは、死の淵から蘇った純粋な「命の結晶」だった。



陣は、出刃包丁を静かに置いた。



「……陣さん?」

紅葉が訝しげに声をかける。



陣が次に手に取ったのは、刃物ではなく、一枚の分厚い「昆布」と、氷室から託された「氷」だった。



「炎で支配するなら、こちらは水と氷で『開花』させる」



陣は、鬼笠子の身を昆布で包み込むと、それを水を張った土鍋の中央に置いた。

そして、鍋の周囲に氷を敷き詰め、極端に温度を下げていく。



「なっ……! 陣殿、それでは火が通らんぞ!」

氷室が驚愕の声を上げた。



「いいえ、氷室殿。お主が教えてくれた西の隠し出汁……それを応用させてもらった」



陣は、氷で冷やされた土鍋を、炭火の最も弱い部分、「遠火の弱火」にかけた。



氷がゆっくりと溶け、水温がごく僅かずつ上昇していく。

急激な熱を加えず、氷が溶ける速度と同調して熱を伝えることで、鬼笠子の極めて繊細な細胞を一切傷つけることなく、旨味だけを極限まで抽出する技法。



名付けて、「雪解けの蒸し煮」。



広間が幻夜の放つ黒炎の喧騒に包まれる中、陣の鍋の周りだけが、まるで深雪の降る静かな森のように澄み切った空気を纏っていた。



やがて、幻夜が高笑いと共に巨大な漆塗りの皿を審査員たちの前に叩きつけた。



「食らえ! これが神田を我が物とする、絶望の味だ!」



黒だれに塗れた海鮮の炙り焼き。

審査員たちが我先にと箸を伸ばし、一口食べた瞬間、全員が狂ったように歓声を上げた。



「美味い! なんだこれは、血が沸騰するような強烈な旨味だ!」

「もう他の料理など食えん! 幻夜、お前の勝ちだ! あの浪人の料理など待つ必要はない!」



理性を失い、手掴みで料理を貪る役人たち。

それを見て、幻夜が勝利を確信したように陣を嘲笑う。



「無駄な足掻きだったな、浪人。奴らの舌は、すでに俺の毒に侵された。お前の薄味など、もはや泥水と変わらん」



「……泥水か。それは、舌が濁っている者の台詞だな」



陣は静かに土鍋の蓋を開けた。



その瞬間だった。

幻夜の放っていた濃厚な香辛料の匂いが、信じられないほど透き通った、一陣の「潮風」によって完全に掻き消されたのだ。



「な、なんだ、この香りは……?」



貪り食っていた役人たちの動きがピタリと止まる。



陣が膳に並べたのは、透き通るような美しい椀。

中には、昆布の薄緑色が微かに移った透明な汁と、まるで真珠のように輝く鬼笠子の身が、静かに横たわっていた。



陣は椀を一つずつ、審査員たちの前に置いていく。



「神田の長屋で仕込んだ、雪解けの鬼笠子にございます。……どうぞ」



役人の一人が、幻夜の料理で麻痺したはずの舌を疑いながら、その透明な汁を一口、啜った。



「……あ」



役人の目から、大粒の涙が溢れ出した。



口内に広がったのは、強烈な刺激ではない。

幼い頃、初めて海を見た時に感じたような、優しく、そしてどこまでも深い「命の温もり」だった。

紅葉の薬草が内臓を労わり、お鈴の塩が素材の甘みを引き立て、氷室の技法が極上の出汁を生み出している。



「俺は……俺は、こんなにも美味しく、優しいものを食べたのは、母上のお吸い物以来だ……」



次々と椀に口をつけた悪徳商人や役人たちが、幻夜の黒い料理を床に落とし、まるで憑き物が落ちたように泣き崩れていく。

彼らの心にこびりついていた強欲と悪意が、陣の「解毒の料理」によって浄化されていく光景。



「馬鹿な……! 俺の完璧な支配が、こんな透明な汁に負けただと……!?」



幻夜の右半分の火傷が、怒りで赤黒く腫れ上がる。

彼は完全に理性を失い、鞘から二振りの黒包丁を抜き放った。



「ふざけるな! 食材も、客も、俺が力でねじ伏せる! この腐った舌共ごと、貴様をここで細切れにしてやる!」



幻夜が、陣の背中へ向かって凶刃を振り下ろす。

審査員たちの悲鳴が響き渡る中、陣は振り向きもしなかった。



チャキッ……。



三年間、さらしに封じられ、決して抜かれることのなかった陣の腰の「刀」。

その鯉口こいくちが、初めて切られた音が、広間に静かに響いた。



「……お鈴殿、紅葉、氷室殿。少し、目を瞑っていてくれ」



不殺の誓いを立てた男が、大切な者たちの心を、そして江戸の食を守るため、ついにその刃を抜く。

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