第拾弐話『同じ顔』
牛の引く荷台の車輪が、ガタガタと音をならしながら鎮衛所の前で止まる。
普段は暢気な門番も、その荷台に乗っている草蓆の覆いを見てぎょっとした。
「おいおい坊やたち、一体何の冗談だい?」
「突然申し訳ありません。昨日友人が人相書のことを教えてくれましてね。よく似た女性を山の川辺で見つけたので、二人で運んできました。どうかなるべく早く、ご自宅へ帰らせてあげて下さい」
紫水が剰りにも淡々と告げるため、門番は俄に信じがたく、草蓆をそっと捲り上げた。
「うっ……こりゃあ酷い。まだ若いのに、気の毒に……」
「捕吏の方々に状況のお話をしたいのです。それと、ご遺体の引き渡しを役人の担当者にお伝え頂けると助かります」
「お、おお、そうだな。遺体はこっちでなんとかしとくから、一先ず坊や……いや、あんたたちは中に入んな」
紫水は頭を下げ、隣に居た同伴者もそれに習い、塀の中へと入っていく。
門番も二人の後から牛を引き、広間の辺りに居た人間を掴まえ、どうしたものかと相談していた。
紫水はそのような光景を一旦尻目にして、真っ直ぐ建物内へ入る。
受付で入館手続きを済ませると、取調をする部署へと通される事になった。
案内される石畳の重厚な床に靴音が響き、特有の緊張感のようなものが漂っている。
ぴりぴりとしたその空気に、紫水の袖を摘まみながら同伴者は強張るが、紫水自身は感情を無の状態にまで落とし込んでいるようだ。
「お邪魔致しております。楊蘭さんの行方不明の件をご担当の方は?」
扉を開いて貰った途端、はっきりと伺いを立てる声に、各席で其々の仕事をしていた捕吏やその上官達が、ぽつぽつとこちらに注目する。
その中で一班ほどが俄にざわりとした雰囲気を纏った。
「あっ、あいつだっ!」
突如、同伴者――少年が声を上げた。
丁度妙な雰囲気を醸し出した班の方を指差している。
「な、なんだ?! 藪から棒に!」
「おや、そちらの方々には昨日お会いしたお三方もいらっしゃいますね?」
紫水は張り付けた笑顔で、つかつかと彼らの席へと寄って行く。
「昨夜はどうもお世話に成りました。貴殿方がご担当者だったのですね?」
「ど、どういう風の吹き回しだ?」
班の代表なのか、昨日紫水の胸ぐらを掴み上げた男が顔を引き吊って応答する。
「どうもこうも、こちらも混乱を極めております。貴殿方は楊蘭さん捜索を担当しながら、佑信くんの取り調べ兼、保護も兼任なさっていたのですか? 随分とお忙しいのですね? その割には楊蘭さんの捜索は打ち切り同然の扱いのようでしたけれども……」
「な、何を知った風に!」
そんなやり取りをする中で、一際大きな体躯の男が、三人の後ろで無理に身体を縮めるようにし、この場から退散しようとしていた。
「逃げるなよ! お前、父さんを殺して、俺まで殺そうとしたくせにっ!」
急な少年の怒声に、他の班や上官達がざわついた。
「な、何を言っているのだね佑信くん?」
班の代表は尚も背で大男を庇うように立つが、少年の追撃は止まらない。
「間違いない、顔は覚えてる。忘れるもんか! 見ろよあいつの剣、真新しいじゃないか! 俺を狙った時壊したんだぞっ!」
一人の真面目そうな口髭を生やした上官が、揉めている班に部下を五人ほど連れ寄ってくる。
「君は、水守の息子さんだね。確かに彼は備品を紛失し、始末書を書かせ最近新しくした。君は犯人を見たんだね?」
「うん、父さんを寺院の水槽へ沈めて溺れ死にさせたんだ! 酷い奴なんだ! 早く捕まえて!」
「い、いい加減にしろ! そんなでたらめ――っ?!」
到頭大男が痺れを切らし、反論するが、上官は部下に捕捉するよう促した。
部下も飽きれたように、大男を睨み付け、じりじりと追い詰める。
「や、やめろ! 何故そんな子供の言うことを真に受ける?!」
「君たち班はその子供に取り調べをしようとしていたのではなかったのか? 彼の証言は重要且つ詳細だ――連れて行け」
「ぬ、ぐぅ! このぉおお!?」
犯人の大男は、少年の面影に何かを見たのか一瞬凍り付く。
その隙を狙い、一斉に飛びかかった五人は、暴れる男を押さえつけるのに成功した。
「ば、化物だっ! 騙されるな! あのガキは化物だったんだ!!」
「ちっ、気でも狂ったか。情けない……」
上官は髭を触りながら頭を振る。
叫び続ける男は地下にある留置所へと引き摺られて行った。
静寂が戻った部署で、上官は続けてあの三人に目を付けた。
「お前たちからも事情を聞くぞ。暴れるなら同罪だ」
「い、いえ! 私どもは……」
「よせっ、余計なことは言うな!」
そんなやり取りに、紫水はその名をさらりと言い放つ。
「郡太子様に、貴殿方は何かを言付かったのでしょうかねえ?」
「ち、違うっ!」
「馬鹿っ! 話に乗るな!」
「……もうダメだ。おしまいだ」
上官の顔は見る見る内に険しさを増す。
三人の捕吏は言葉に出す程墓穴を掘ると自覚したのか、黙りを決め込んだ。
「上官殿、私はただ楊蘭さんと見られるご遺体を川辺で発見したので運んで来ただけです。身体のふやけ具合から見て専門の方ならもっと分かりましょうが、死後ほぼ一週間は経っていそうな様子です。行方不明の時期とも被ります。私自身は一昨日この町に入ったばかりですので、もし素性をお疑いになるなら港でお調べになれば分かりましょう」
「旅の方がご協力感謝致します。お名前と宿泊施設を示した上、お帰り頂いて結構です」
「その前に、少々其処の方々に質問がありまして――よろしいでしょうか?」
上官はあまり良い顔はしなかったが、行方不明者を発見出来ず、尚且つ殺人犯まで身内で野放しにしていた事実に少なからず負い目を感じていたのか「手短に」とだけ条件を付け、発言を許してくれた。
丁寧に拱手をして礼を述べた紫水は続ける。
「貴殿方はご自身の判断で郡太子様のためになるのではと思い、佑信くんを連れて行こうとしたということで、私の認識は間違っていませんね?」
「……あの方は大変お優しい人格者だ。気の毒な孤児を養子にしたいと仰っていた。我々もそうしてお世話になり今がある。お役に立ちたかったのだ……」
それだけ班の代表が言い残すと、他の同僚らに連れて行かれてしまう。
「怖かっただろう。大丈夫か? 迷惑を掛けたな」
少年の頭に触れようとした上官の手は、さっと避けられてしまう。
紫水の後ろから、怯えた目で見上げられ、上官は溜め息をついた。
「子供からしたら、私も奴と同列と思われていても仕方あるまいな。どうか許して欲しいと言っても難しいだろうが……本当に済まなかった」
紫水は「ふむ」と一つ考え付いたような素振りで、上官に提案した。
「試しに郡太子様の所へお邪魔してみましょうか。どう言った考えで、お子さんを養子に迎えたいという事だったのか、一応話を聞きませんと。出来れば誰かについて来て貰えると心強いのですが……」
「奴らの世迷言では? 少なくとも私は郡太子様が養子を望んでいたなんて直接聞いてはいませんし、そうしたお触れも無かった筈です」
「果たしてそうでしょうか? ここだけの話、お節介かも知れませんが、私は楊蘭さんのご遺体と水守の殺人に、何らかの繋がりを感じるのです」
上官は当然全く違う事件だと思い込んで居たため、つい話に引き込まれてしまった。
完全に紫水の思考に絡め取られるようにして、続きを聞き入ってしまう。
「考えても見てください。この私なんかが見つけられる場所に、ご遺体が流れ着いていたのに、水源そのものに普段から触れておられる水守殿が、何故報告をしなかったのでしょう? 何かに怯えていたのでしょうか? 或いは口止めされていたのでしょうか? 見つけられなかったというのには、剰りに不自然ですから、そうも疑いたくなると言うものです」
上官はいつの間にか口髭を何度も濾す様に摘み撫で、感心し頷いて見せた。
「それでいて、先程の方々の言動。郡太子様に恩義を感じていましたね? だとすれば此度の事件、全て自主的に彼らが郡太子様のためにと動いたのだとすると、楊蘭さんが見つからず、水守殿が居なくなりさえすれば、お役に立てると思っていた――とも言い換えられるのでは?」
「待ってください。そもそも話の流れに気を取られていましたが、何故郡太子様が唐突に出てきて――」
其処で初めて上官は自身の推理で閃いたように「あっ」と一つ声を漏らした。
「貴殿方とて、楊蘭さんがどういった方と親交が有ったか、世間の噂くらいご存知でしょう。しかも、それは紛うことなき事実です」
「……確かに、ご子息とは恋仲でしたな。まさかとは思いますが――しかしそんな確証の無いことで疑うなど……」
「はい、ですからお邪魔しようかと」
全く悪びれる様子なく、言葉尻にはにこりと笑顔すら見せる紫水に、上官はまばたきをいくらか繰り返すと、周囲に確認を取るために目線を配る。
先程の連れて行かれた者たちとは違い、上官を慕う者たちは、直ぐ様状況を理解し頷き合っていた。
「相手が相手です。私が代表して郡衙へ入れるようご同行しますが、その前に都尉様へ一報を入れさせて下さい」
「はい、そうなさって下さい。但し、軍を率いて郡衙を取り囲むなどは推奨致しかねます。ますます真実が隠されてしまいますし、其処までする確証がそれこそ無いでしょう」
「無論」
こうして話が纏まり、紫水たちは一路役人の集まる郡衙へ足を向ける。
遺体を運んだ牛は、そのまま置いていき、馬車を出して貰える事になった。
門番の男が言うには、責任を持って元の持主に返してくれるとの事だったので、詳しい場所を教え、紫水は髭の上官と共に馬車へと乗り込んだ。
敢えて同行者とは、一貫して一切目を合わさずに――。
――さて、いよいよ本丸ですね。
そう内心で呟くと、隣に座る少年が唾を飲み込む音だけが伝わった。
「上官殿、私は貴方を頼りにしておりますが、あくまでも施設内に入るための口実とさせていただきます。執務室に呼ばれましたら、貴方は扉の前辺りに居てはいただけないでしょうか」
「それは構いませんが……」
「ありがとうございます」
心配げな上官を他所に、粛々と自身が成すべき事だけを考え、外を見る。
少し曇天の色が濃くなりつつある景色に、ふと、一雨来そうだなとだけ頭に浮かぶ。
だがそれは、今後の展開には寧ろ好都合である。
「着きました」
御者の声を合図に地に降りれば、直ぐ様上官が門番へと取り次いでくれ、館内の受付も速やかに行われた。
「ご案内致します。郡太子様は佑信さんが訪ねて来たら、直ぐにお通ししなさいと仰ってましたから、緊張なさらなくて大丈夫ですよ」
柔らかな表情で案内役の女官が応対する。
物腰からして、高官の娘あたりであろうかと推察するが、郡衙で女性が働いているのは珍しい。
紫水の意外そうな顔に答えるように、女官は歩きながら、地元郡守の自慢をする。
「郡太子様は慈善事業にとても熱心で、孤児の教育や将来の職業取得など、様々な面で支援活動をなさっています。また、私のような女官制度も独自に築き上げてくださいまして、大変勉強になっておりますの」
嬉しそうに話す女官は実に幸せそうである。
公人としての信頼と地位は盤石であり、それを成り立たせているのは私人としての度量とするところが大きく感じる人物であるようだ。
そのような人物をこれからなに食わぬ顔で疑って掛からねばならない状況であるのだから、我ながら市民役人にとっては災厄の目であるような気分に陥りそうになる。
――しかし、皆の幸せの為に、個人の未来や生命を揉み消し続けるような事になっているようなら、私は喜んで台風にでも地震にでもなって見せましょう。
紫水は馬車での約束通り、髭の上官を廊下へ残し、郡守の執務室へと入る。
床一面朱色の絨毯が敷かれ、辺りは硯で擦った墨の匂いが漂い、重厚で知的な空気が漂っていた。
奥には文書や帳簿を管理する主簿の席が右の側に位置され、反対側には応接用の机と椅子が有る。
そのさらに奥正面に、郡守宗歡、その人が鎮座して居た。
――やはり、あの時星鸞殿が言い当てた通りでしたね。
紫水は居酒屋で和気藹々と酒を飲み交わし、水守を嬉々として席へ招き入れた、とても高官とは思えない素朴な黒い冠の中年を思い出していた。
今目の前に居るのは、まさにその男であったのだ。
紫水たちの事を先程の女官からある程度聞いたのか、宗歡は柔和な顔で二人の客人を迎えた。
「これはこれは、初めまして。わざわざ手順を踏んで会いに来てくれたそうで。僧侶修行の方とお話出来る機会なんて滅多にありませんから嬉しいですねえ」
自らさっさと立ち上がり、応接用の椅子を引きながら、主簿には「丁度良いから休憩を取ってきなさい」と命じる振る舞いは、ここに来るまでに至った様々な思考を霧散させてしまいそうになるほど穏やかなものだ。
「さてさて佑信くん、今回はとても大変な思いをしただろう。私もお父さんとは仲良くさせてもらっていてねえ。それだけにとても残念だ。この町としても、貴重な水守を一人失ってしまい痛恨の極みと言える。君は一人ぼっちになってさぞ不安だろう。家から消えたと報告を受けた時には心配で堪らなかったよ。まさか旅の方に保護して頂いているとはねえ。いやはや、これも何かの縁、紫水さんと言いましたか? 感謝の念に堪えませんよ。是非近々食事でも――」
皆が席についた途端、つらつらと言葉を紡ぐ様子は正に政治を担う者といった印象だ。
きっと放って置いたら半日は喋り続けることが出来るのではないかと思い込んでしまいそうになる。
「郡太子様、とても嬉しいお誘いですが、今後の佑信くんのご相談について――」
「ああ、それはご安心下さい。私はこう見えて孤児の支援に力を入れていましてね。実の息子もそろそろ巣立つ頃ですから、いっそ私自身の邸宅で面倒を見てやれるだろうと思っていますよ。生前の水守にも、自分に何かあったらまだ小さな息子を頼みますと、そう言付かっていましたからねえ、ええ」
調子良く話続ける宗歡に、紫水は会話の隙間を狙って鋭く差し込む。
「実の息子さんは、とある中央貴族の娘さんとご婚約したとか? お目出度いですねえ」
その言葉に、机上にある茶器に触れようとした手が、ぴくりと一度止まったように見えた。
「ははは、噂に敏感ですなぁ。お恥ずかしながらその通りで、果報者ですが、どうにも気弱なところが中央でやっていけるか不安でもありますよ」
「おや? そうは仰いますが、楊家の娘さんとの事を諦めたあたり、てっきり貴方様が中央の話を持ち込んだと思っておりましたが?」
宗歡のシミの目立つ太い指が、茶器の蓋から僅かにずれる。
「あちち! あはは、いやぁ、参りましたなぁ……随分と個人の家を嗅ぎ回るのが好きなお坊様でいらっしゃる」
湯が漏れた机を自身の手拭いで拭きつつ、笑顔はかなり引きつり始めた。
「いえいえ、政治なんてものは私になんてかなり縁遠い世界ですから、貴方様にも色々と常人にはわからない戦略があるのでしょう」
「ええ……それにあちらの娘さんは息子から逃げてしまったようなので、もはや関係はないでしょう」
「そうなのですか? 行方不明と聞きましたが?」
宗歡はあからさまに溜め息をつき「まだ小さい子の前でやめましょう」と、話を遮る。
「さて、佑信くん。ここから私の家が近いから、是非案内させておくれ。広い敷地で沢山遊べるから、きっと満足出来るはずだよ」
「お茶はよろしいので?」
意地悪く要らぬ確認をするが、それでも宗歡は基本の柔和さを崩さず「見た通り下手くそなので、家の下男にでも頼みましょう」と、移動を促した。
扉を開けると、捕吏の班を束ねる上官、校尉の存在に気付き、宗歡はやや驚く。
「おや、貴殿がお二人を届けてくれたのか?」
「ええ、貴方様にとって大切なお客様だと、下士官らから聞いたもので」
室内の好戦的な紫水の対話を、しっかり聞いていたのだろう。
それに習ったのか、髭の端を吊り上げたまま、宗歡の触れられたくない部分をつつくような発言であった。
「馬車が外で待っております故、送らせて下さい」
遠慮しようとする宗歡を、紫水と校尉でもって挟むように馬車へと乗せてしまい、さっさと郡守邸宅へと向かわせる。
その間、一切喋らない少年は、唯々じいっと正面から、気まずそうな宗歡を見つめていた。
「さ、さあ着いたよ佑信くん。ここが今日から我が家だ。今下男を呼ぼう」
家の門が見え、馬車が止まった途端、そわそわと降り立ったこの地域最高位であるはずの男の背中は、何やらひ弱に見える程縮こまってしまっている。
「これ、帰ったぞ?」
宗歡が玄関先で下男を何度も呼ぶが、返事がない。
しかし、その代わりに姿を表したものが居た。
「……父上、お待ちしておりました」
玉砂利を敷いた庭先に、ぽつんと一人立っていたのは、郡守の息子、宗俊であった。
「なっ、え? お前……どうして?」
冷や汗を隠しきれない額に、汗とは違う冷たいものがポツポツと降ってくる。
「下男には暇を言い渡しました。もうこの家には帰ってきません。それよりも父上……」
ジャリ……ジャリ……と、青白い顔をした青年は、段々と濡れて黒くなる小石を踏みしめ、父を睨め付けながら近寄る。
雨脚は次第に早くなり、遠くでは雷が轟き始めた。
「星鸞という旅の方と、水守の息子さん――佑信くんから聞きました。貴方は到頭やってはならないところにまで、手を伸ばしてしまったのですね」
その言葉に首を捻っていると、実の息子の背後から、背のすらりと高い金髪の男と、恨みを込めた瞳を向けてくる、自身の後ろにいる筈の少年――佑信の姿に気付き、宗歡は仰天した。
「は?! な、なぜそこに?! 先程まで君は此方に――」
しかし後ろを振り向けば、紫水と校尉以外に人は居なかった。
同じ顔を持つ少年が、そこには確かに居た筈であるのにと、宗歡の混乱は極まる。
「校尉殿、確かに此方側に佑信くんはいたはずでは?!」
「はい? 貴方様に着いて行くように降りて行って、今そちらに居るのでは?」
校尉は何故郡守がこうも取り乱しているかが理解出来なかった。
実のところ校尉は、御者や紫水とほんの少しだけやり取りをしていたため、同行者の行動を一瞬だけ見ていなかったのだ。
つまり、距離からしても、少年がさっさと歩いていけば、宗俊の背に居たところで何ら不思議ではないのである。
当然、宗俊からしたら今までずっと佑信とは話をしていたのだから、自分の側に居るのが当たり前だ。
寧ろ、その話の内容からして、決して父の元になどいる筈はないので、佑信が此方に居るのは自然だと考えているであろう。
この場で何やら恐れ戦いて、眼球が震えているのは宗歡たった一人だ。
「し、紫水殿! あ、貴方はこの少年が二人居たように感じていますよね? 私と一緒ですよね? 丁度貴方と私の間に居ましたよね?!」
必死な形相の郡守に、紫水は恰も奇妙そうに、首をかしげて見せる。
「いいえ?」
「――へっ? いやいや、何を言って!」
「ですから、私は見ていませんから、貴方様が何を言っているのかさっぱり……」
郡守宗歡は愕然とし、完全に狐や狸に化かされた人のような顔をしている。
確かに一貫して紫水は同行者と目を合わさず、佑信と見られる少年に話しかけてはいなかった。
思い返せば、紫水にだけ、隣の少年の姿が見えていなかった様に想像が広がり、宗歡は半狂乱気味に紫水の両肩を掴み揺する。
「わ、私を馬鹿にしているのか?! 一体全体何だと言うんだ!!」
「父上!!」
宗俊が叫ぶとほぼ同時に、星鸞が素早く動き、宗歡の両腕を掴み上げた。
「この期に及んで癇癪を起こすな。仮にも郡守たるもの見苦しい」
「き、貴様は誰だっ! 放せ! 無礼であるぞ!」
「父上、いい加減になさって下さい!! その方の話から事の顛末は全て把握しております。もう無駄な足掻きはやめて、我々は親子揃って罪を償わなくてはならないのです!!」
血反吐を吐くような息子の絶叫は、雷雨すら引き裂くような衝撃を、父宗歡に与えた。
宗歡は力なく地に膝を着くと、頭を抱え、嗚咽を漏らす。
「宗俊様、私は都尉の代理で調査に参りました。その事の顛末とやらを、此方で伺いましょう」
「はい、宜しくお願いします。父上、参りましょう」
息子も地に膝を着け、父の顔を見ながらそっと両手を包むように握り説得する。
「ぐっうぅ……どうしてだ阿俊、私は、お前は悪くないと……守ってやるからと言ったのに……これでは莉優に顔向け出来ん……」
涙なのか、雨なのか、すでに分からぬくらい顔をずぶ濡れにした男は、もはや良政に取り組んだ地方長官の面影はない。
そこには息子に介護されるように背中を宥められ、亡くなった妻の名に詫び続ける中年がいるだけであった。




