88 警告夢からの足音
踏みしめた足の下から、落枝の折れる乾いた音が弾けた。
慌てて飛び去ろうとした鳥は、翼を広げたところで、鋭い弾に射られてしまう。
まだら模様のそれは、しゃがれた声でゲファ……とだけ漏らし、力なく地面に倒れる。
レオンは猟銃を下げ、ざくざくと落ち葉を踏みながら、獲物に近づいていった。
仕留められた鳥は、必死に空気を取り込もうと、全身で呼吸を繰り返している。穿たれた丸い穴からは、とめどなく血が溢れ出ていた。
かわいそうだが、こうなってしまえば、もう長くはないだろう。レオンは腰につけていたナイフを取り外し、首元を勢いよく切りつける。
「お前は本当に、なんでもそつなくこなすな」
背後から主君の言葉とともに、興奮した犬の鳴き声が届く。
「ご謙遜を。ルイス様こそ、私より狩猟の才がおありになるではありませんか」
毛並みのいい猟犬は、微動だにしなくなった黒雷鳥を、嬉しそうに咥え込んだ。
褒められたはずの王太子は、乾いた笑いでレオンに応える。
「親から受け継いだ才能など、誇るものでもないだろう」
犬はしっぽを大きく振りつつ、王太子に付き添っている護衛の元に、獲物を運んでいく。後処理は彼らに任せてもよさそうだ。
「ところで、国王陛下はどちらに?」
「さあ。他の貴族どもと、猟にいそしんでいるのではないか?」
今も方々から、銃を撃つ音が聞こえている。現王は平和主義者だが、年に一度の狩猟大会を楽しみにしているのは、周知の事実だ。
「もう十分だろう。それぐらいにしておけ」
「ご高配いただきありがとうございます」
それは、レオンがあまり狩猟を好んでいないことを知っての発言だった。
二人は肩を並べながら、ゆっくりと森の中を進んでいく。
「そういえば、最近想い人とはどうなんだ」
予期せぬ問いかけに、レオンは目をぱちくりさせる。
「あのう。想い人……とは?」
「まさか、覚えていないのか? 剣術大会の時に話していただろう。たしかソフィー、だったか?
言われてみれば、そのようなことがあったような気もする。けれども、どのような話をしたのかを、レオンはほとんど覚えていなかった。
「誤解です。彼女はそのような相手ではありません」
「そうなのか?」
「ええ。ただ私は、誰よりも一番近くで、彼女のことを支えたいと思っているだけです」
目の前の枝葉を避けつつ、レオンが答える。
「分からないな。おまえのそれと恋情は、どう違うのだ?」
王太子は納得がいかないのか、不機嫌そうに問いかけてきた。
「もしかすると、ルイス様はステファニーに、そのような感情を抱いているのですか?」
「なっ、バッ……質問に質問を重ねるでない!」
上ずった声で、王太子は叫んだ。レオンはにこやかにほほえみつつも、先の問いを思い返し、眉尻を下げた。
「どう違う、と訊かれましても」
ソフィア嬢は幼馴染の身代わりを務めてくれている恩人であって、恋人でもなんでもないのに。
すっかり混乱している近衛騎士を見て、王太子はため息混じりに続ける。
「あー、聞き方を変えようか。その娘が別の男のもとへ嫁いだ時、お前は心の底から祝福できるのか?」
「それは……」
レオンが考え込んだところで、周囲にけたたましい叫びが反響した。
「王太子殿下! その場から動かないでください!」
「な、なんの鳴き声だあ!?」
護衛たちは混乱しながらも、王太子のそばへ駆け寄り、周囲に目を走らせる。
どうやら音の発生源は、少し離れた場所らしい。続いて、木々が薙ぎ倒される鈍い音が、連続して轟く。
「あれはなんだ、レオン」
王太子がごくりと息をのんだ。粉塵の奥にうごめく、大きな影がここからでも見えたからだ。
「分かりません。ですが、あれはまるで」
レオンは猟銃を抱え、ぼそりと呟く。
「ドラゴンのようですね」
次第に視界が晴れていくと、それまで隠されていたはずの青空から、一斉に光が差し込み始める。
二人が見つめる方角には、樹木を払い倒していく、黒色の大きな翼があった。
蝙蝠の羽によく似た形をしているが、大きさは桁違いで、木々よりも高い位置にそれが見てとれる。
「なにを言う? 竜は空想上の生物であろう!?」
王太子が声を荒げると同時に、二人の間に魔塔のローブをまとった人間が現れた。
「王太子殿下! 非常事態です、急ぎ王城へ戻りましょう」
黒のフードを外したシャリエ補佐官は、王城まで転移すべく、王太子に手を伸ばす。
「国王陛下は!?」
「ひとまず王后陛下のおられる天幕に、避難されております。あちらには何人も魔導士が控えていますし、結界も張っておりますのでご安心ください」
「シャリエ補佐官。こちらを優先するのは、陛下のご判断ですか」
レオンが早口で問いかけると、シャリエはこくこくとうなずいた。
「まずは王太子を逃せとの厳命です」
けれども、王太子は補佐官の手をとらずに、ためらいながら口を開く。
「その、シャリエとやら。王后のいた天幕には、モンドヴォール公爵令嬢もいただろう。彼女は無事なのか」
「ええ、両陛下と共におられます。順番に転移させていきますので、ご安心ください。えーっと、ところでレオン様ぁ!?」
シャリエはレオンのほうへ体を向け、小声で囁きかけた。
「王后様と一緒にいたの、あれ、“公爵令嬢”じゃなくてソフィアさんですよね!? どうなってるんですか!?」
レオンは頭を抱える。そういえば、彼には身代わりの話をしていなかったか。
「今は話を合わせてくれませんか。落ち着いたら、事情を説明しますので」
「うう、分かりました。王太子様! 準備はできています、両手を私の右手に載せてください!」
王太子はシャリエのもとへ急いだが、手を重ねる前に、レオンへちらりと目を向ける。
「お前はあの竜のところへいくのか、レオン」
「はい」
自分が戦えないことに、苛立ちを覚えているのだろう。若き王太子は、ぎりりと歯をくいしばる。
「気をつけろよ。傷を一つでもつけてきたら、今度こそ許さないからな」
「承知いたしました」
レオンが胸に手を当てるのを、王太子は真剣な顔で見つめていた。
それから、王太子らが去るのを見届けた後、レオンは黒翼の見える方角へ急いだ。
先に向かったはずの、王太子の連れていた猟犬が、けたたましく吠え続けている。
怪物に近づくにつれ、辺りには異様な臭気が漂い始めた。まるで腐った生肉のような、酷い悪臭だ。
そしてようやく、レオンは全貌を目にする。その生き物は、漆黒の鱗に全身を覆われていた。
狼のような尖った鼻先。大きな口元からは牙がのぞいており、時折長い舌がチロチロと動いて見える。
そして想像していたよりも、はるかに大きな体を持っていた。それでいて、手足は細長いため、まるで巨大なトカゲのようだ。
あの薄い翼では、全身を持ち上げることはできないだろう。なんとも不恰好な外見で、とても気味が悪い存在に思えた。
周囲にいる騎士たちは、化け物へ向け、必死に銃を打ち込み続けている。弾は当たっているが、あまり効果はないように見えた。
厚みのある脂肪に覆われていて、致命傷を与えることができていないのかもしれない。
せめて、手元に剣があればよかったのに。レオンは心の中で悪態をつきながら、猟銃を構える。剥き出しの目を撃てば、あの生物も多少は怯むだろう。
けれども、レオンが攻撃を加える前に、事態が動いた。
それまで茫然と弾を受けていた謎の生物が、尻尾を地面に叩きつけながら、ずるずると正反対の方向へ移動し始める。
「まさか。そんな」
レオンは思わず銃口を下げ、呟く。
「よりにもよって、なぜそちらへ!?」
慌てて太陽の位置を確認するが、勘違いではなさそうだ。
レオンは一参加者として狩場を訪れていたが、念のため大会の開始前に、観覧スペースの配置も頭に入れていた。
黒竜が迷わずに向かっているのは、国王と王后が避難している天幕の方角──つまりは、ソフィアがいる辺りだった。




