86 プリンス・チャーミング
「……ですから、この子は初めて、殿下のご尊顔を拝したというわけです」
落ち着きを取り戻したクロエは、この部屋を離れてからのあらましを述べていく。
どうやら、王城へ戻ろうとしている王太子の姿が、マルクスの実験室からは見えていたらしい。
クロエの隣には、恍惚とした面持ちのリリーがたたずんでいる。
「ええと。その様子では、王太子殿下の第一印象は悪くなかったようですね?」
「もちろんでございます!」
ソフィアの問いかけに、食い気味な言葉が重なった。
「悪くなかったどころか、あのお方は絵本に出てくる、白馬の王子様そのものじゃないですかっ!」
おとぎ話のような呼び名を唱えたリリーは、うっとりと目を輝かせている。
前世で読んだタブロイド紙には、王太子とリリーのことが『出会った瞬間、恋に落ちた二人』と描かれていた。
読者の目を引くために、ロマンティックな見出しをつけたのかと思っていたが、どうやら彼女にとっては、ずいぶんと王太子の外見が魅力的だったようだ。
「王太子様のお相手を務めるなんて話、正直あまり信じてなかったんですけど。お姿を拝見して、思ったんです。私にも可能性があるなら、ちゃんと頑張ってみたいって!」
胸を張るリリーのすぐ隣では、クロエが苦々しげな表情を浮かべている。
ステファニーが王太子妃候補の筆頭であることは、もはや口にする気もないらしい。
「リリーさんは前向きなようですし、これからもフリオン家での淑女教育を続けていただけますか?」
クロエに微笑みかけると、彼女はどぎまぎしながらもうなずいた。
「もちろんでございます! けれど、ステファニー様はそれで本当によろしいのですか?」
浮かない表情が、ソフィアに向けられる。
「いいもなにも、王太子殿下の婚約者は、国王陛下がお決めになられるものですからね」
「それはそうですけれども」
満面の笑みに、クロエはたじろいでいるようだ。
ステファニーと王太子が結ばれることを願ってきたクロエは、複雑な心持ちなのだろう。
ソフィアとしても、ステファニーの恋を応援したいと考えていた気持ちを、忘れてしまったわけではない。
けれども、リリーと王太子が結ばれるはずだった未来を、自分が軽々しく壊していいとは思えなかった。
それに、ステファニー様が王太子様と良い仲になりたいなら、自分の力でどうにかしてもらわないと!
実のところ、ソフィアは少し拗ねていた。
先日の剣術大会には、“モンドヴォール公爵令嬢”として参列したのだから、ソフィアが身代わりを務めていることは、家出中のステファニーにも伝わっているだろう。
なのに、彼女から届いた手紙の中に、私へ宛てた言葉はただの一つもなかったらしい。
それなりに、仲良くなれたと思っていたのに。ソフィアは唇にぐっと力を込める。
いいわ。早く戻ってこないと、困るのはステファニー様だもの。なんてったって、この子は強敵ですからね!
密かに憤るソフィアを横目に、リリーはそわそわと身を震わせる。
「ほらほら! ステファニー様もこう言ってくださってますし、次こそは王太子様に会わせてくださいよ。ねぇ、クロエ様!?」
「あなたはもっと、身の程をわきまえなさい!」
興奮気味のリリーを前にして、侯爵令嬢は悲鳴に近い叫びを上げる。
「まあまあ、意欲的でいいじゃないですか。ですが、どのように二人を引き合わせましょう。王太子殿下はご多忙なお方ですし」
「でしたら、狩猟大会にリリーを伴うのはいかがですか」
クロエがさらりと告げたのは、ソフィアが初めて聞く単語だった。
「狩猟大会ですか?」
平静を装ったまま尋ねると、彼女は満足そうに言葉を継いだ。
「ええ。モンドヴォール家はいつも不参加でしたから、あまり馴染みがないと思いますが。まもなく社交シーズンも終わりを迎えますし、この機を逃す手はないと思いますよ」
クロエの話によると、大会と呼ばれてはいるものの、極めて小規模な行事らしい。
「夏の頭の狩猟解禁日、招待を受けた貴族だけが、国王の遊猟地に足を踏み入れることができます。レオン様も、毎年参加されていますよね?」
「はい」
離れたところで控えていたレオンが、小さく頷いてみせた。
「もちろん猟をするのは男性ですが、付き添いという形をとれば、私たちも参加が可能です。ですから、そこへこの子を連れていけば」
「リリーさんが、王太子殿下と出会えるかもしれない……ということですね」
「本当ですか!?」
喜ばしい提案に、少女は飛び上がって歓声を上げる。
「とはいえ、平民のリリーには参加資格がありません。私の縁戚ということにして、会場まで連れて行きますね」
クロエの申し出に、ソフィアはうろたえた。平民を手引きしたのが彼女だと発覚すれば、間違いなく厳罰に処されるだろう。
フリオン家がリリーの教育係を請け負ってくれたことには感謝しているが、そこまで深入りさせるのは、さすがに忍びなかった。
「やめてください。そんな嘘をついたら、フリオン家にまでご迷惑がかかります」
「大丈夫ですよ! いざという時は、この子を養子にでもすればいいんですから」
軽快に笑いながら、なんとも大胆な提案をしてくる。
確かに彼女は、貴族社会の均衡を崩さないためにも、リリーが王太子妃候補となる前に、名門家へ養子入りさせるべきだと以前から語っていた。
フリオン侯爵家であれば、不足はないだろう。
もしかすると、クロエの代わりに王太子妃となる一族の人間を、フリオン家も欲しがっているのかもしれない。
その一方でリリーはというと、すっかり夢心地のようだ。
「ああ、どんなことをお話しすればいいのかしら……」
ふっくらとした小さな唇から、熱い吐息がこぼれた。
「いいですこと、リリー?」
クロエはため息混じりに、夢見がちな少女へ語りかける。
「王族の方々と、自由にお話ができるわけないでしょう」
「えー!?」
目の玉が飛び出るのではないかというほどに、少女は驚きの表情を浮かべた。
「ただでさえ、その言葉遣いなのですよ? 話す内容はこちらで考えますから、くれぐれも粗相のないようになさい」
「でもぉ。そんなのって、つまらなくないですかあ?」
「殿下に気に入られれば、好きなだけ話ができるようになるのですから! それまでにもう少し、貴族らしさを身につけておきなさい!」
煽るような物言いを、クロエはぴしゃりと跳ねのけたのだった。
「そもそも、殿下がモンドヴォール邸を訪れたのも、狩猟大会へステファニー様を招くためではなかったのですか?」
「いいえ。そういった話は、一切出てこなかったです」
ソフィアが否定すると、侯爵令嬢はおかしいわね、と首をひねる。
「では、なんのためにご来訪されたのでしょう」
「レオンのお見舞いですよ」
「「え?」」
女性陣から視線を注がれたレオンは、ゆっくり頭を下げた。
「まさか。その程度のことで、臣下の屋敷を訪れるとは思えないのですが」
「きっと、思いやりのあるお方なのですよ! 家来のことも心配してあげるなんて、ますます憧れちゃいますっ」
クロエとリリーは、全く違った反応を見せている。
ソフィアとしては、どちらの言い分も分かるような気がしていた。
平時であれば、一家臣の身体状態になど興味を示さないだろう。
けれども相手がレオンだからか、はたまた自分の代わりに犠牲となったからか、王太子の声色は、いつもよりも硬く感じられた。
だからきっと、“ステファニー”に用があったわけではないと思うのだけれど。ソフィアはそっと、耳元に咲いた薔薇に触れる。
少しぐらいは、ステファニーのことも気にかけているのかもしれない。
その考えが合っているかどうかは分からないが、王室からステファニーに宛てた、狩猟大会への招待状が届いたのは、王太子来訪の翌日のことだった。




