81 それぞれの決断②
マルクスが研究所代わりにしている、ジラール邸の一室では、レオンが諦めの表情で立ち尽くしていた。
どうやら、魔導士長が行っている実験が終わるまで、声をかけても無駄らしい。
レオンは椅子を手繰り寄せ、静かに腰を下ろす。
マルクスはというと、机の上に所狭しと並べたてた実験器具に顔を寄せ、同じ作業を何度も繰り返している。
今も、緑色の液体から放たれた気泡が、細い管を通っていく様を、爛々とした目で見つめていた。
きっとこれも、魔術研究の一環なのだろう。実験結果を書き殴ったメモ書きは、床を覆うように、何十枚も重なり合っている。
普段は調子のいい男なだけに、地道に研鑽を積んでいるマルクスの姿は、なんとも新鮮だった。
こういった粘り強い性格が、魔導士には向いているのかもしれない。
もっとも、彼が“魔塔の主”に相応しいかどうかは、甚だ疑問であるが。
レオンは椅子に腰掛けたまま、右手で拳を作る。職務に復帰したとはいえ、体にはわずかな違和感が残っていた。
寝込んでいる間に落ちた体力を、早く取り戻さなければならない。レオンは反対の手で手首を掴み、右腕に負荷をかけた。
剣術大会のことは、決勝戦の途中から、記憶が朧げになっている。
激しい眩暈と吐き気に襲われ、控え室に倒れ込んだことは覚えているが、次に目を覚ますまでの出来事は、ほとんど記憶に残っていなかった。
処置が遅れていれば、危ういところだったそうだ。あの場にソフィア嬢がいなければ、ここまでは回復できていなかっただろう。
視界に飛び込んできた、彼女の不安げな瞳が忘れられない。
真犯人は、事件の当日に見つかった。
とある大会関係者の手荷物から、事件に用いられたものと同じ毒が発見されたらしい。
容疑者だったテオドールは解放され、表向きは円滑に、剣術大会が終了した。
捕えられた男は、犯行を否定しているそうだが、あとは秘密警察の領分だ。真実が明かされるまで、彼らに任せるしかない。
レオンは黙って外を眺める。眩しいほどの陽光が、部屋の中にも差し込んできていた。
とてもいい天気だ。この分だと、テオドールが雨に降られることはないだろう。
彼から届いた手紙には、今日が出立日だと書かれていた。事件の影響もあり、早期に帝国へと戻ることになったらしい。
レオンはふっと頬をゆるめた。テオドールはきっと、もっと強くなる。
「俺も負けてられないな」
言い聞かせるように呟く。彼から届いた手紙には、こうも書いてあった。
『来年こそ、お前に勝つ! そして、ルイス殿下に実力を知っていただいた暁には──』
ちょうどその頃。
フリオン侯爵邸では、長子であるテオドールが、留学先のランドサムス帝国に戻ろうとしているところだった。
「もう、お兄様ったら! ステファニー様に、悪い印象を植えつけてしまいましたわっ!」
妹であるクロエは、使用人たちの前でも声を抑えることなく、怒りをあらわにしている。
奔放な性格だが、これでいて憎めないところもあり、今もフリオン家の侍女たちは、微笑ましげにこちらの様子を見守っていた。
テオドールは妹の不満を受け流しながら、遠くを見つめる。悪い印象を残したまま、国を去らねばならないというのは、クロエの言う通りだ。
できれば帝国へ戻る前に、レオンと話をする機会がほしかった。
けれど、謝罪の気持ちは手紙に託さざるをえなかった。犯人の供述も得られていない現状では、不用意な接触を控えるべきだと両親に諭されたためだ。
それにしても、レオン・ジラールはまた一段と強くなっていたな。
テオドールは、大会のことを思い返す。全力で挑んだ自分が、身動きすらとれなくなるほどの実力差が、そこにはあった。
悔しいが、今回も完敗だ。
もちろんこの二年の間、できる限りの努力はしてきた。けれどもそれ以上に、レオンも力をつけていたのだろう。
かといって、諦めるつもりはさらさらなかった。帝国には腕の立つ剣士が大勢いて、学びとれることも多い。
まずは一年だ。留学中に強くなって、俺はトランキルへ帰ってくる。
そして、次の大会で優勝できれば。新たな夢に、一歩近づける気がした。
「お兄様!? ちゃんと聞いてらっしゃいましたか!?」
顔を真っ赤にした妹が、こちらへ詰め寄ってくる。
「なあ、クロエ。ステファニー様は、王太子妃になられるだろうか」
「愚問ですわね! ステファニー様にそのご意志さえあれば、間違いなくそうなるに決まっているでしょう!?」
突然の質問にも関わらず、すぐさま返事が返ってきた。
終始一貫している妹の発言に、思わず笑みが漏れてしまう。
「ちょっと!? いくらお兄様であっても、ステファニー様を小馬鹿にするような振る舞いは看過できませんわよ!?」
「まさか、そのように失礼な態度をとるわけがないだろう」
むしろテオドールは、ステファニーのことを尊敬していた。
意識を失ったレオンに対し、彼女がどれだけ手を尽くしたか。
それは、あの場でなにもできなかった自分が、一番よく理解していた。
毅然とした口調で情報を集め、咄嗟の判断力で周囲に指示を下す。
その行動には、彼女の父親すら驚いているように見えた。
なにより必死に魔術をかける姿が、ほれぼれするほどに美しくて。
だからこそ、こう思った。『このお方にお仕えしたい』と。
「クロエ。俺は来年こそ、レオンを倒すぞ」
「お兄様、そういうのこそ“馬鹿の一つ覚え”と言うのではないかしら?」
呆れた表情で、妹が告げる。その様子がなんともおかしくて、テオドールは大声で笑い飛ばした。
「それでもいいさ! あいつよりも強くならなければ、ステファニー様の専属騎士にはなれないのだろう?」
「それはその通りでしてよ。……お待ちください。ということは、つまり」
分かりやすく戸惑っている、妹の言葉を遮るように、声を重ねる。
「ステファニー様になにかあった時は、俺に知らせてくれ。すぐに駆けつけるから」
すると、みるみるうちにクロエの表情が華やいでいく。
「ああ、もう! 最高ですの! それでこそ私のお兄様ですわ!!」
「わっ! こら、いきなりしがみつくんじゃない!」
仲睦まじい二人の姿を、使用人たちは暖かい目で見つめている。
 




