69 既知感の正体
急ぎ足で王族席から離れようとしたところ、幕の後ろにはレオンが控えていた。
「レオンさまっ……いいえ、レオン! どうしてこちらに?」
王太子らには聞こえぬよう、あくまでも小声で問いかける。
「こちらにいらっしゃると、事前に伺っていたものですから。お勤めご苦労様でした」
彼は流れるように頭を下げた。
試合前だというのに、私のことを気遣ってくれているのだろう。
嬉しいやら申し訳ないやらで、複雑な心持ちになる。せめて今日ぐらいは、自分のことだけを考えていてほしいのに。
共に過ごしたあの夜を境に、レオンはソフィアの願いを聞き入れ、明るいうちからバルコニーで剣の練習をするようになった。
突然の変化に、使用人たちは「二人の距離が縮まった!」とはしゃいだものだ。
まあ当然のことながら、私とレオン様の関係は、変わらず『身代わり令嬢と護衛騎士』でしかないのだけれども。
昨年の優勝者であるレオンは、いつもの白い制服姿で試合に挑むらしい。
普段と違うところといえば、手首の飾りボタンに、ソフィアがプレゼントしたハンカチーフを巻きつけているくらいだろう。
こちらの視線に気づいたレオンは、白い布を指差して、嬉しそうに微笑んでいる。
けれども、ソフィアは知っていた。それまで『伝統行事』に縁のなかったレオンが、初めてハンカチーフを纏ったという事実が、場内の話題をさらっていることを。
「さあ、そろそろ観覧席へ参りましょうか」
噂の中心にいるはずの彼は、私に向けて呑気に手を伸ばしている。どうやら、注目を浴びている自覚はないらしい。
周囲の様子には、誰よりも目を光らせているはずなのに。なぜ、この異常事態を認識できないのだろうか。
まあ、女性の視線に疎いところが、レオン様らしいと言えばらしいのだけれども!
「あの、どうかなさいましたか?」
ソフィアにじっと見つめられたまま、レオンは困惑している。
「いーえ、なんでもありません!」
強引に“幼馴染”の腕をとったソフィアは、公爵の後を追うように、客席へと向かったのだった。
会場となる王立競技場は、石灰質の岩で作られた楕円形の建物だ。
中央に設けられたフィールドを囲むように、屋根のない一般席が、すり鉢状に広がっている。座席の数でいうと、全体の八割ほどを自由席が占めているだろう。
その上部に半個室の貴族席が並んでいて、一番日の差し込まない南側のあたりに、広々とした王族観覧席が設けられている。
王太子たちのいる空間からほど近いところに、モンドヴォールのための席も用意されていた。
公爵とソフィアが布張りの椅子に腰掛けると、すかさず給仕役がぶどう液を差し入れる。
「どうぞ、冷たいうちにお飲みください」
女性は、恭しくお辞儀をした。
ここに出入りのできる大会関係者は、王太子の許可を得た者だけだと、事前に聞かされている。
憲兵らに目を向けると、彼らは私たちを安心させるように、ゆっくり頷いてみせた。
公爵は銀色のグラスを勢いよくあおり、そのまま彼女に器を手渡す。
ソフィアも慌てながら、そっと唇をつけてみた。
濃厚な香りのあとに、強い甘味と程よい酸味が喉元を通り過ぎる。ぶどうそのものの味がして、とても美味しい。
快い風が吹き抜け、爽らかな気持ちになった。今この時も、会場では真向勝負が繰り広げられているというのに、なんと優雅なひとときだろう。
民衆たちの声を遠くに感じながら、ソフィアは目を細めた。
差し入れを堪能していると、公爵が剣術大会のあらましを話し始める。
「少年の部では、参加者全員が木刀を使用することが、規則に定められている。予選を勝ち抜いた選手たちとはいえ、剣の腕は未熟だからだ」
必死に戦う子ども達を見つめながら、彼は語った。
それにひきかえ、成人の部では真剣を用いる決まりらしい。
レオンの長剣をのぞき見すると、彼は公爵から言葉を継いだ。
「私は警護担当も兼ねていますので、今は自分の剣を持っていますが、試合参加者は武器を持ち込むことを禁じられています。混雑している会場内で、騒動があれば困りますからね」
そこで初めて、不思議な観客たちの正体に気がついた。どうりで、防具だけを身にまとった武人が、客席にちらほら見えるわけだ。
「私たち参加者は、運営側の用意した剣を、試合直前に支給されます。使い慣れていない武器を用いて、実力を発揮できるかどうかが腕の見せどころですね」
「あのう、レオン? 準備を始めなくても、大丈夫なのですか?」
少年の部も、終盤に差し掛かっている。第二王子の記念試合が終われば、すぐに成人の部が始まるはずだ。
「ええ。私は一回戦を免除されているので、多少は余裕があるのです」
前回の覇者は、気楽そうに告げた。
そもそも今日のレオンは、警護担当から外れる予定だったのに。
心なしか、ここに配属されている憲兵たちも、戸惑っているようだ。近衛のエリートが居座っているのだから、彼らもやりづらいことだろう。
なにより、今日の試合に集中してほしいのだけれども。
こちらの気持ちなど知らないレオンは、笑顔のまま続けた。
「試合には全力で挑みます。ですが、私はあなたの護衛騎士なので、できる限りおそばにいますからね」
ソフィアはため息をつく。本当に真面目なんだから!
それからしばらくして、珍しい客がモンドヴォールの席へやってくる。突然現れたのは、すっかり興奮しきったフリオン侯爵令嬢だった。
モンドヴォール公爵や憲兵らは、事前申請のない訪問客を警戒したが、“ステファニー”の説得によって入室が許される。
「ステファニー様っ! 見ておりましたわ! もう……もう! あそこまで仲がよろしいだなんて、聞いていませんでしたわよ!?」
クロエはソフィアの両手を掴んで、一気にまくしたてる。
「王国中のみなが、思い知ったことでしょう。王太子様の寵愛を受けているのは、他ならぬステファニー様だと! やはり私は、リリーの入り込む隙などないと感じましたわ」
「そういえば、リリーの様子はどうですか? あれからフリオン家で、教育を受けているのですよね?」
ソフィアは“未来の聖女”の動向を尋ねた。
王太子はこれから、リリーのことを深く愛するようになる。
けれども、私が処刑されたころの“聖女”は、貴族らしい振る舞いはおろか、王族に輿入れする心構えすらできていなかった。
だからこそ、運命の出会いを迎える前に、彼女には最低限の礼儀作法を仕込んでおく必要がある。
たとえそれが、急ごしらえであったとしても。
やがてクロエは、苦々しい面持ちで口を開いた。
「ええ。逞しいですよ、あの子は。まだまだ時間はかかりますが、意欲的に勉強しています。もう少しすれば、人前に出せるくらいにはなるでしょうね。もちろん、私語を一切口にしないことが、大前提ですけれども!」
クロエの金切り声に、彼女の従者らしき人物が眉をしかめる。
おそらく彼は、大会の参加者なのだろう。がっちりとした筋肉質の体に、革でできた鎧をまとっている。
なによりも、レオンのことを先ほどから強くねめつけているのが、挑戦者の証だった。
「あらやだ! 私ってば、すっかり本題を忘れるところでしたわ。お兄様!」
それからクロエは、武人の腕を力いっぱいに抱き寄せる。
「こちら、兄のテオドール・ラ・フリオンです。昨年よりランドサムス帝国に留学しておりますので、ぜひ国にいる間に、ステファニー様へご紹介させていただきたくて」
どうやら、彼は付き人ではなかったようだ。言われてみれば、明るい赤髪はクロエのそれとよく似ている。
ただ、華やかな侯爵令嬢とは、あまり外見が似ていないように感じられた。
鋭い一重の瞳に、日焼けした褐色の肌。おまけに、むっちりとした逆三角形の体つきをしている。
侯爵家の跡取りというよりも、戦場を駆け回る軍人と言われた方が、納得のできる風体だ。
「お初お目にかかります。クロエの兄の、テオドールと申します。妹がいつもお世話になっております」
なぜだかむすりとした顔のままで、礼儀正しく頭を垂れる。
そこでソフィアは動きをとめた。彼の声色に、なんとなく聞き覚えがあったからだ。
けれどもテオドールは、挨拶もそこそこに部屋から出ようとしてしまう。
「お兄様!? いくらなんでも、ステファニー様に失礼でしょう!?」
慌てて手を握った妹に対し、侯爵令息は激しい剣幕を見せた。
「いいか、クロエ! 俺は第一試合で戦わなきゃいけないんだ。レオンみたいに、こんなところでのんびりしてる余裕はないんだよ!」
名指しされたレオンは、状況がのみこめずにきょとんとしている。
「『こんなところ』だなんて! すぐに謝ってください、お兄様!」
クロエが声を荒げると、警戒を強めた憲兵たちが、携えている長剣に手を添えた。
もう! なんだって『こんなところ』で、兄弟喧嘩を始めちゃうのよ!?
警備の人員を配置した国王らに、変な報告が上がっても困ってしまう。
ソフィアはにらみ合う二人を引き裂くように、そばへと近づいていった。
「落ち着いてください、クロエ様。試合に遅れてしまっては、元も子もありませんわ。テオドール様も、お忙しいのにご挨拶にいらしてくださって、ありがとうございます。初戦を楽しみにしておりますね」
丁寧に語りかけると、クロエも兄も冷静になったのか、ばつが悪そうに離れていく。
「こちらこそ、焦るあまりに失礼な物言いとなってしまいました。大変申し訳ありません。公爵令嬢に楽しんでいただけますよう、精一杯励みますので、ぜひご覧ください」
テオドールが伝統的なお辞儀をする。
その際に、胸元に掲げられたアームガードを見て、急に記憶が蘇った。そこに刻まれた紋様を、私は見たことがある。
カビ臭い匂いのこもる、冷たい牢獄に訪れた秘密の訪問客。
あの時、“稀代の悪女”に付き従っていた男の正体は、フリオン家の長子、テオドールだったのだ。
動揺するソフィアに気づくことなく、二人の兄弟は部屋を去っていった。
その後、テオドールは人影のない廊下を早足で歩きながら、妹に語りかける。
「あれが、モンドヴォールのご令嬢か。お前が執心するほどの、特別な点は感じられなかったが」
「それはまだお兄様が、ステファニー様の魅力をご存知ないだけよ!」
クロエもスカートの裾をあげて、兄の後を颯爽と追っていく。
「挨拶の必要があったのか? 何度も言うように、俺の目標は、この国一番の騎士になること。有力貴族に根回しなどしなくとも、この大会に勝ちさえすれば、ルイス殿下も考えを改めて、私をそばに置いてくれるかもしれない」
「だから、その短絡的な思考はどうにかなりませんの!?」
クロエは足の速度を緩めることなく、甲高い声を上げた。
「いいですか? ステファニー様は、王太子殿下が愛してやまないお方です。彼女が王太子妃になられたら、殿下は誰を護衛につけると思いますか? きっと、一番信頼できる相手に役目を託すでしょう。なぜなら、剣に覚えがある自分とは違って、ステファニー様には身を守る術がありませんもの」
自信ありげに語る妹を横目に、テオドールは吐き捨てるように続ける。
「だが、あの女が王太子妃になるのだろう? ほら、うちで行儀見習いをしている」
「リリーですね。仮にそうなったとしても、彼女はフリオン家に恩があります。護衛にはお兄様を指名するよう言い含めておけば、どうとでもなるでしょう。それに、もしもステファニー様が王太子妃とならなかった場合は……」
クロエがぴたりと足を止める。振り返ると、妹は得意げな笑みを浮かべていた。
「その時は、お兄様がステファニー様に求婚すればいいのよ! モンドヴォールは一流の家柄ですから、お兄様がフリオン家を去ることになっても、誰も文句は言わないでしょう。ああ、その際は私が名を継ぎますので、どうぞご心配なく!」
突拍子もない提案に、テオドールはあんぐりと口を開ける。
「そうすれば、晴れて私は、ステファニー様の義妹になれるわ! 期待してますからね、お兄様! ……お兄様ぁ!?」
見切りをつけた騎士は、大声で叫ぶ妹を一人残し、試合へと向かっていったのだった。




