43 行方をくらませた令嬢
ミモザの束をそっと籠に入れ、ソフィアは花売りの少女に手を振る。
小さな娘が去ったあとには、爽やかな春の香りが残されていた。
モンドヴォール邸を去ってから、ソフィアとステファニーは何度か文を交わしている。どうやら王太子と顔を合わせた後も、ステファニーは元気にやっているらしい。
届いたばかりの手紙には、本格的な王太子妃教育を受ける前に、先行して異国語を学び始めたことが書かれていた。『童話を読んで勉強しているのよ』と、笑顔で語る姿は容易に想像できる。
このまま意欲的に励み続ければ、かつての彼女のように、知識も教養も備えた淑女となる日も近いかもしれない。
それにしても、あのステファニーと文通をすることになるとは、なんとも不思議な巡り合わせだ。
こうやって愛らしい花を買いに出たのも、次に手紙を送る際は、押し花のしおりを同封したいと考えたからだった。
黄色の小さな花序に、ソフィアは優しく触れる。庶民的な贈り物にはなるものの、彼女を応援する気持ちが伝わりさえすればいいと思えた。
ほどなくして、ソフィアは自宅の前に人影を認める。その人物の手には、桃色の可愛らしい封筒が握られていた。
返事を出す前に、次の手紙がきてしまったようね。なにか、急ぎの用件でもあるのかしら。
気楽に考えていたソフィアは、振り返った相手を見て、はっと息を止める。身をやつしていたとしても、その顔を見間違えるはずもない。
「公爵閣下……!?」
「突然押しかけて、申し訳ない。ステファニーが、あなたのお宅でお世話になってはいないだろうか」
うつろな目つきのモンドヴォール公爵が、ゆらりと近づいてくる。
「いいえ。お手紙は先日受け取りましたが、ステファニー様はいらっしゃってません。まさか、また姿を消してしまわれたのですか?」
彼が無言で差し出した手紙を、慌てて受け取る。それはソフィアに宛てたものではなく、父親への置き手紙のようだった。
「ええと、拝見しますね。『しばらく家を離れます。殿下との婚約については、正式なお申し出を受ける前に辞退していただきたいので、手続きをお願いできますでしょうか。気持ちが落ち着きましたら、必ず屋敷へ戻ります。どうかそれまで、ご自愛くださいませ』……!?」
「心当たりのある場所は全て捜索したが、ステファニーはどこにもいなかった。屋敷に残されたマルゴーたちも、必死に探し続けてくれている。ここへくれば、なにか手がかりが掴めるかと思ったのだが」
「どうぞこちらへ。ステファニー様から受け取ったお手紙をお持ちします」
それから急いで弟を部屋に戻し、肩を落とす公爵を招き入れる。
「ステファニー様はなぜ、辞退などと言い出されたのでしょうか」
真剣な顔で手紙を読む公爵に、ソフィアはそっと問いかけた。
「確かなことは分からないが、今回の家出には、なにか原因があるのかもしれない。ステファニーは昨日、一人で王城を訪れている。城外で待っていたモンドヴォールの人間によると、戻ったときにはすでに暗い顔をしていたらしい」
「王太子様から、叱責などを受けられたのでしょうか」
「いいや。ステファニーは五日後に開催される、舞踏会の打ち合わせに赴いただけで、王族との接触があったとは聞いていない。それに、うちの者が付いていない場でも、そばには王城に勤める者が控えていたはずだ。異常があったという報告は、私のところには届いていない」
「では、打ち合わせの最中に『なにか』が起こったと、閣下はお考えなのですね?」
手紙からは有力な情報が得られなかったのだろう。公爵は残念そうに封筒を束ね、ソフィアの言葉に同意する。
「ああ、おそらくそうだろう。可能性が高いのは、フリオン侯爵令嬢との接触になるだろうか。王后と王太子の意向により、ステファニーが婚約者となることが有力視されているとはいえ、国王がうなずかれたとは聞いていない。とすれば、ステファニーと同様に、クロエ嬢も候補者の一人として城へ招かれていたはずだ」
「左様ですか!? てっきり、婚約は本決まりだと思っておりました。ステファニー様が婚約者に内定されたという話は、下町にまで広まっていますし。とすれば、クロエ様には不本意な状況だったのかもしれませんね」
それにしても、ステファニーが家を飛び出すほどの衝撃を、周囲の人々には気づかれぬままに与えるなど、容易にできるものだろうか。
疑問に思ったところで、ステファニーには確かめようがない。
「……あ、そうか。クロエ様にお尋ねすることはできますね」
「なんだって?」
ソフィアの突飛な提案に、公爵は度肝を抜かれたようだ。
「自分でも、とんでもない発言をしているのは分かっています。ですがもう、これぐらいしか策もないですよね? クロエ様が当事者だとするなら、きちんと話してもらいましょう。昨日、王城でなにがあったのかを! ええと、公爵様にお力添えいただき、私が舞踏会に参加することはできますでしょうか?」
「『ステファニー』として向かうのであれば、大丈夫だとは思うが。しかし、本当にいいのか? ステファニーの代わりをするのは、一度だけだと決めていただろう」
彼は戸惑いながらも、もごもごと反問してきた。
「そうしたいところですが、緊急事態ではありませんか。仮にクロエ様の企みであるとすれば、彼女が望むのはおそらく、ステファニー様を候補者から外すことです。であれば、手紙のとおりに王室へ辞意を申し入れるのは、相手の思う壺でしょう。少なくとも私は、ステファニー様のお心が分からないまま、話を進めるべきではないと思いますし、それに……」
言い淀んだソフィアを、公爵は急かすことなくじっと見つめ続ける。
続きを口にするのは躊躇われたが、大きく深呼吸をしてから囁いた。
「私にできることをしたいのです。ステファニー様は、私の……お友達ですから」
しかしその発言を、すぐに後悔することとなる。
ステファニーのふりをしながら、公爵とともに屋敷へ向かったソフィアは、使用人たちから歓待を受けた。
すぐさま全身を整えられ、豪華な食事を提供されたあと、今は一人、ステファニーの部屋で頭を抱えている。
目の前には、高く積み上げられた分厚い冊子が、勉強机のほとんどを覆っていた。
「こんなの、聞いてないわ……!」
前世では、華やかな場を好むステファニーが勧んでパーティーに参加していたため、ソフィアは貴族階級の子女や子息たちと交流する機会がなかった。
けれども、今回はそういうわけにもいかない。
公爵も同じことを考えたのか、あらかじめ用意されていた資料には、当日顔を合わせるであろう面々の姿絵や特徴、さらにはどこから調べたのかと思えるほどに、細かな趣味嗜好に至るまでが網羅されており、膨大な情報量にソフィアはめまいを覚えていた。
ちょうどその時。
「あの、大丈夫でしょうか?」
「わあ!?」
驚きのあまり立ち上がったソフィアを、その男性は慌てて片腕で支える。
「ジ、ジラール卿!?」
「すみません。何度かノックさせていただいたのですが、お返事がなかったものですから」
「ごめんなさい。思いのほか大変そうで、混乱してまして」
軽く笑ってみせると、ジラールは冊子を一つ手にとり、中身をあらためた。
「これはまた、ずいぶんと詳しく調べあげたものですね……」
「あの、ジラール卿。お気づきかもしれませんが、私はステファニー様ではなく」
「分かっていますよ、ソフィア嬢。再び力を貸していただき、本当にありがとうございます」
ジラールは丁寧に資料を戻し、そしてこちらに頭を下げる。
「ご安心ください。当日は、会場まで私がご一緒します」
「あの! 王太子の婚約者候補が、未婚の男性とともに行動するのは、まずいのではないでしょうか!?」
ソフィアが勢いよく尋ねたところ、彼は意外そうに声をあげた。
「もしかすると、舞踏会に参加するのは初めてですか?」
「もちろんです!」
「それもそうか。ああ、すみません。あなたが貴族育ちのご令嬢だと思えてしまうことが、たびたびあるものでして」
「大丈夫ですよ。こんな顔をしてますし、ステファニー様と私が重なってしまうのも、無理もない話です」
ソフィアの返答に、ジラールは少しばかり困ったような表情を見せたが、すぐいつも通りの真面目な顔つきに戻る。
「入場する際のパートナーは、友人同士でも問題ありません。それにこの舞踏会は、暗に婚約者候補のお二人を示す場となっていますから、ソフィア嬢とクロエ嬢は、真っ先にルイス様とダンスを踊ることになるでしょう。ですので、変な噂を立てられることもないはずです」
「へえー。そういう仕組みなのですね」
「ところで、ダンスの心得はありますでしょうか」
ソフィアはぎくりとした。
もちろん、かつての時間軸で、最低限の修練は重ねている。しかし、それを表舞台で実践することもなければ、年ごろの相手と踊った経験すらないのだ。
「覚えはあるのですが、自信は……」
すると、ジラールは飾られていた陶器人形に手を伸ばし、静かに土台を回し始めた。
「あの。ジラール卿?」
「一度、お相手をしていただけますか?」
袖机に立たされたドールは、繊細な音を奏でながら、その場で踊り始める。
彼女に導かれるように、ソフィアもジラールの手をとった。
体幹がしっかりしているからか、彼のホールドには安定感があり、とても踊りやすい。
「お上手ですね、ソフィア嬢」
「まさか。必死ですよ、ついていくだけでも」
閉じ忘れたカーテンの隙間からは、ちらちらとまばゆい星がのぞいている。
「それに、ここまで動きやすいのは、ジラール卿のリードのおかげです。ダンスがお得意なのですね」
「小さいころから教え込まれてきましたから、単純に慣れているだけです。ところで、ソフィア嬢」
「なんですか!?」
余裕のないソフィアは、ジラールの足元を凝視しながら、必死に叫ぶ。
「私のことは、レオンでいいですよ」
「え?」
反射的に顔を上げると、セピアの瞳とまっすぐに目が合う。
「気を遣わないでください。ほら、ステファニーもそう呼んでいますし」
「あ、そ、そうですね」
ソフィアはどぎまぎしながらも、平静を装った。この人はあの頃と同じで、勘違いしてしまいそうな台詞を、平気で言ってのけるのね!
「では、レオン……様。私のことも、気軽にソフィアとお呼びください。丁寧に話しかけられるのも、なんだかくすぐったいですから」
気づけば伴奏曲もないままに、二人は踊り続けていた。




