11 公爵邸へようこそ
森にとり残された三人は、手燭の明かりを頼りに、まっすぐ歩き出す。
暗がりのなか、春落ち葉の重なる道を歩むのは難しく感じられたが、目が慣れ始めてからは、アンヌを追いかけながらも周りを見る余裕さえ出てきた。
木の幹を這っていたモモンガは、私たちの足音を聞き、慌てて寝床へと戻っていく。
満月が辺りを照らし始めたので、動物たちの気分も高まっているのかもしれない。心なしか、今夜は野生生物が多く見られる気がした。
どこからか、ナイチンゲールのさえずる声が聞こえてくる。声の主をぼんやり探していると、不意にアンヌが口を開いた。
「あれは、どこで習得したのですか」
ソフィアは、それが自分に向けられた質問だとすぐには気づけなかった。
あまりに抽象的な問いかけで、そのうえ、背中越しに投げかけられた言葉だったからだ。
「聞いているのですか」
アンヌは歩みを緩めぬまま、ちらりと後方を睨みつける。
「あの、『あれ』とはなんでしょうか?」
「先ほどの膝折礼です! 礼儀作法を学ぶ機会には、恵まれてこなかったという認識でしたが?」
彼女は目の前に伸びた枝葉を苦々しく払い、ずんずん進んでいく。
「実は、母から教わったんです」
すると、それまで勢いよく歩いていたアンヌがぴたりと立ち止まり、こちらを振り返った。
「詳しくお聞かせ願えますか」
「大した話じゃないのですが……私の母は、高貴な身分の方へお仕えした過去がありまして。基本的なマナーは、そこで一通り身につけていたみたいなんです」
話し込む女性たちを見つめ、御者は戸惑いの表情を浮かべている。アンヌは難しい顔をしたまま、ソフィアの話に耳を傾けていた。
「自分の娘にも、そういった知識が必要になる時がくるかもしれないと、幼少のころから色々と教えてもらいました。ですから私は、外で学問を学んではおりませんが、家事や裁縫、一般的な教養に限ってはある程度体得できたのです」
「そういうことでしたか。私はてっきり……」
アンヌは言葉を止め、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「まあ、いいでしょう。こちらとしては、教える手間が省けて助かります。では先を急ぎますよ」
そこからさらに歩き続け、ようやく屋敷が見えてきたようだ。
白い石造りの公爵邸は、遠目から見ても広大で、建物の壁がどこまで続いているのかさえも分からない。
「すごい、まるでお城みたい。わふっ!?」
感心しているソフィアの視界を奪ったのは、生成りの素朴なボンネット帽だった。
「あなたはこれを被って、なるべく顔を上げずについてきて下さい。ほとんどの使用人は、自室へ戻っているころだと思いますが、それでも人との接触は避けられませんので」
「分かりました」
わたわたと帽子を身につけていると、さらにアンヌが続けた。
「勘違いなさっているようですが、あれは公爵邸ではありません。ゲートハウスといって、守衛のために作られた休憩所です」
ソフィアは耳を疑った。こんなに大仰な建物が、一部の使用人のためだけに作られた施設だなんて。
さらに近づいていくと、それまで白い壁のように見えていた建物の一部に、鋳物でできた立派な門扉がはめ込まれているのが分かった。それも、私の背丈の倍はある、とても大きな扉だ。
その両脇を固めるように、男性が二人立っている。
アンヌは懐から何かを取り出すと、左側の男性に手渡した。どうやら、身分を証明する札のようだ。
「アンヌ様、おかえりなさい。そちらは?」
右側の男性は、うやうやしく頭を下げながら問いかけてくる。
「新しい侍女と荷物持ちです。身元は保証しますから、はやく扉を開けてください」
「承知しました」
二人がきびすを返すと、アンヌが耳元で囁いた。
「これは正門ではありません。いくつかある出入り口のうちの一つです。とはいえ、どの門にも警備の者が常駐していますし、安易にここから逃げ出せるなどとは思わないことですね」
にっこり微笑んでいるが、その言葉は脅しにしか聞こえない。ソフィアは無言のまま、繰り返し何度も頷いた。
それからほどなくして、金属の扉がギギギ、と音を立てて開いた。
門番たちに見守られながらアーチをくぐると、そこからは舗装された道がうねうねと続いている。
その両脇には青々とした芝生が広がり、剪定された木々が整列していた。
森は抜けたはずなのに、こんなにも緑が多いなんて。下町よりも、このお屋敷にいた方が自然を身近に感じられるかもしれないわ。
それから、十五分ほどは歩いただろうか。今度こそ公爵邸が姿を現した。
ゲートハウスと同じ石材で作られた館は、三角屋根を冠した中央部から、左右均等に背の低い建物が伸びていた。低層部とはいえ、上下に二つ窓枠が並んでいるのを見ると、少なくともツーストーリーはあるだろう。
建物の両脇には、塔のようなものも設けられている。
月明かりに照らされた邸宅は、白く輝いていて、あまりの美しさにため息が漏れるほどだった。
「さあ、こちらへ。ステファニー様がお待ちです」
導かれるままに勝手口から邸宅へ入り込んだものの、そこからステファニーの部屋にたどり着くまでが、また長い道のりだった。
途中ですれ違う者もいたが、アンヌを見ると、みなが頭を下げて道を譲っていく。ソフィアは顔を隠しながら、その様子に感服していた。
ステファニー様の筆頭侍女とは聞いていたけれども、この方はお屋敷の中でも位の高い人なのね。
それにしても、なんて素敵なおうちなのかしら。
はめ殺しの窓には、見たこともないほど大きなガラスが使われていて、それだけでもソフィアは興奮していた。
それに、ここは廊下だというのに、絨毯が惜しげなく敷き詰められていて、歩くたびにふかふかして気持ちがいい。
至るところに配置された燭台だけではなく、天井からも大きなシャンデリアが下がっていることに気づいた時は、思わずのけぞってしまった。
それにしても、同じような扉がいくつも連なっていて、どこがどの部屋か、外見だけでは分かりそうにもない。
きちんと屋敷の構造を理解しておかなければ、家の中でも迷子になってしまいそうね。
一刻も早く入れ替わりを始めるためにも、まずは部屋の配置から教えてもらわなくちゃ、とソフィアは考えていた。
そして、ようやく目的地に辿り着いたようだ。
アンヌは一際大きなドアの前に立ち、短くノックをしてから中に声をかけた。すると、勢いよくステファニーが飛び出してくる。
「よくきたわね!」
彼女は小声で叫ぶと、熱いハグでソフィアを迎えた。




