09 家族との別れ③
弟は、ジラールへ丁寧にお礼をしてから、こちらへ駆け寄ってきた。
「姉さん! 僕はいつも、姉さんたちの優しさに甘えちゃってたけど、これからはもっと頑張るよ。姉さんが家のことをしなくても、『ケビンがいれば大丈夫』って言えような、そういう頼れる男になるから」
無垢な笑みに、またしても目頭が熱くなる。
この間まで一人で眠ることもできなかったのに。こちらが勝手に子ども扱いしていただけで、いつのまにか、ずいぶんと大人になっていたのかもしれないわ。
「だから、姉さんはうちに帰ってこなくたって平気……いや、やっぱりたまには帰ってきてほしいから、あんまり完璧にはならないでおこうかな」
「ええっ。なによ、ちょっと感動してたのに!」
軽く背中を叩くと、ケビンはけらけらと笑い声を上げる。
「ほら、姉さんのお菓子だって食べたいしさ」
「分かったわよ。じゃあ次に帰ってきたら、とびきりのキャロットケーキを焼いてあげるからね」
すると、よほど気に食わなかったのか、眉を寄せて不満げな声を出した。
「ええー! なんで、よりにもよってにんじんなんだよ!?」
「さっき、あなたが食べたいって言ったじゃない」
「それは、家にないものを適当に欲しがっておけば、姉さんを引き止められるかなーと思っただけで。……あ」
「ケービンー!」
ソフィアが掴みかかる前に、弟は身を翻す。歳の離れた姉弟のじゃれ合いを、ジラールは微笑ましげに眺めていた。
そうこうしているうちに、隣人が家の中へ飛び込んできた。
ずいぶんと急ぎ足で帰ってきたのかもしれない。彼女の丸くて広い肩は、苦しげに上下している。
「ごめんねえ、遅くなって! あらっ。この子が新しい職場の方かい?」
おばさんは荒い息を整えながら、前掛けで額の汗を拭い、ジラールをまじまじと見つめた。
「いえ、私はあくまで送迎を任された者で」
「ふーん。なかなかいい面してるじゃない」
おばさんが頬に触れると、ジラールはその場で固まってしまった。
私たち兄弟は、彼女の距離感の近さには慣れきっていたが、ジラールにしてみれば、初対面の女性からの突然なスキンシップに驚倒していることだろう。
猫の前の鼠のように、すっかり硬直してしまった近衛兵を見かねたケビンは、おばさんへ小さな声で耳打ちした。
「やめといたほうがいいよ。このお兄さん、とっても偉い人だから」
「そうなのかい? まぁいくら偉かろうが、あたしからしてみれば、まだまだヒヨッコだよ!」
カッカッカッと景気よく笑い飛ばす女性に、ジラールはようやく口を開いた。
「あ、あのご婦人。ご冗談はそのくらいで」
「ご婦人!? やだねぇ、そんな呼び方。なんだか照れちゃうよ。それにしても、意外と鍛えてるわね?」
照れると言いながらも、懲りることなくぺたぺたと体に触り続けている。青年はうろたえながらソフィアに顔を向けると、声を出さずに助けを求めてきた。
もう、仕方ないわね。ソフィアは二人の間に割り込むと、おばさんにぐい、と毛布を押しつける。
「はいこれ、ケビンのブランケット。この子、なかなか寝つけない日はこれが必要になるから。おばさんに渡しておきます」
「あら、そうなのかい。じゃあ早速、今晩から必要になるじゃないか。ほらケビン」
「はぁ!? 言っとくけど僕、姉さんがいなくたって一人で眠れるからね!? 余計なお世話だよ!」
すたすたと歩き出した女性を見て、ジラールはようやく胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます、ソフィア嬢」
「いいえ。それほどでも」
なおも噛みつく弟をなだめながら、ソフィアはゆっくりと頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしますが、明日からエリアス兄さんとケビンのこと、よろしくお願いしますね」
「なあに、私もあんた達の親にはなにかと世話になっていたからね。お互い様ってやつだよ。そろそろ出発の時間かな?」
ジラールはその言葉に、激しく頷いた。
「そうです、そろそろここを発たなければ! ソフィア嬢、荷物は預かりますので、表に出ていただけますか。ここからは馬車での移動となりますので」
何かとかさばっていた荷物を、彼は軽々と持ち上げ、逃げ出すように戸口から外へ飛び出していく。
後ろに続くと、外には質素な屋根付き馬車が控えていた。
飾り気のないものだとはいえ、このような下町では、滅多に馬車を見かける機会すらない。近所のみんなも興味を惹かれ、その周りを取り囲んでいる。
若い御者は、悪態をつきながら彼らを追い払っていたが、ソフィアの顔を見るとぎょっと目をむいた。
アンナの口ぶりでは、使用人とステファニーは親しい関係にあるようだったし、もしかすると、彼もステファニーの顔なじみなのかもしれないわ。
だとすれば、平民の装いに身を包んだ公爵令嬢を目の当たりにして、驚かないはずもないだろう。
そんなことを考えているうちに、ジラールは預けた荷物を全て積み終えたようだ。
「ねえ、お兄さん。もうちょっとだけ話を聞きたいんだけど」
ケビンは別れの前に、ジラールから戦場の話を引き出そうと躍起になっている。
その様子をうかがいながら、おばさんはこっそりとソフィアへすり寄ってきた。
「なあに、おばさん」
促されるままに耳を近づけると、彼女は楽しそうに囁く。
「ソフィア、あれはいい男よ。あたしが保証する」
「はい?」
「少し頭は固いけど、真面目で誠実そうだし、旦那にするにはあれくらいがちょうどいいわよ。ああいうタイプは、一度惚れ込んだ女のこと、ずっと大切にしてくれるから」
ケビンはジラールの二の腕にしがみつき、腕を上げ下げされるたびに、歓声を上げている。
「なにふざけたこと言ってるの。私、働きに出るのよ?」
真顔で返したソフィアを見つめ、おばさんは呆れたようにため息をついた。
「全くの冗談ってわけでもないのに。ここ数年はずっと、親父さんやお袋さんの代わりに、ケビンの親のように振る舞ってきたじゃない。それに、エリアスは馬鹿がつくほど過保護で、あんたに男を寄りつかせようともしなかったし。もういい年だっていうのに、浮いた話のひとつも聞いたことがないわよ」
「それは、確かにそうだけれども」
さすがにばつが悪くて、ぼそぼそと返事をする。
同じ年頃の友人たちのなかでは、嫁いでいった娘のほうが多い。それどころか、もうみんな、何人もの子どもをもうけている。
男女関係というものに、ソフィアも興味がないわけではなかった。ただ不運なことに、そういう機宜を得ることができなかっただけだ。
「家族から離れたところで、少しぐらい羽を伸ばしたからって、誰も責めたりしないわよ。ほら、まずはあの青年のこと、前向きに考えてみたらどう?」
ソフィアはちらりとジラールをのぞき見る。
たしかに物腰は柔らかいし、顔も整っているけれど、恵まれた貴族の跡取りが庶民になど目を向けるはずもない。
それよりも、今から二人きりで車体に乗り込むというのに、変に意識してしまうではないか。
「やめてよ、馬車の中で気まずくなるじゃない!」
「ま、無理に急ぐことはないわよ。そういうことを考えたって、罰は当たらないわよってだけ。これからソフィアも大変だろうけど、体には気をつけてね」
「うん、ありがとう! おばさんも気をつけてね」
そう言いながら、二人は力強く抱きしめ合った。
それから、最後の手荷物を座席に積みこんでいると、ジラールがそっと顔をのぞかせた。
「では、よろしいでしょうか」
こくりと頷き、ソフィアは座面に腰を下ろす。
彼が馬車へ乗り込んだ途端に、御者はさっと扉を閉める。窓から身を乗り出すと、弟とおばさんは、並んでこちらを見上げていた。
「じゃあケビン! 姉さん、行ってくるから。おばさんの言うことをよく聞くのよ」
話が終わる前に、ゆっくりと馬車が動き出した。ケビンはすぐに後ろを駆けてくる。
「姉さん、僕、待ってるから! 早く帰ってきてね!!」
「ええ、分かったわ!」
それからソフィアは弟の姿が見えなくなるまで、馬車の中から手を振り続けた。




