総の蘇我
一行は、『舟橋の湊館』を出立し、次の目的地の『総の蘇我』に向けて、海沿いの道を東に進んでいた。
現在でいうところの、稲毛や幕張のあたりを馬に揺られてポクポクと進む。
寄西で馬を置いてきてしまったので、もしかしたらこれから歩きなのか、いやだなと思っていたボイだったが、使主なのか大串さんなのかはわからないが、馬を手配してくれていたようである。以前はソタイから前玉まで一日で徒歩と渡し舟を使って往復していたのであるが、人間というものは、一度楽を覚えてしまうとなかなか手放せないものなのである。
タッコボも馬に乗っているわけであるが、「乗り続けると太ももの内側の肉が痛くなる」とかボイに愚痴をこぼしていた。なお、その愚痴を務見くんと男衾くんに聞かれてしまい、少し申し訳なさそうにしていた。彼らもなかなか人間関係いろいろあるのだろうなとボイは思った。
年齢としては同じぐらいに見えるのだが、洗練されている務見くんと男衾くんに比べて、タッコボはどうしてもまだ、郷の鍛冶屋の雰囲気が抜けていない。これはどうしようもないことだし、タッコボももしかしたらそれを変える気などさらさらないのかもしれない。
そんな風に考えていると、いつの間にやら目的地に近づいてきた。
渡し舟をいくつか超えると、山を削ったのだろうか、広く平坦になっている丘の上に太い丸太の柵が建てられて、いくつもの異様に大きな建物が見える。また、その背後には西日を浴びて黄金色に輝いている大きな陵が見えてきた。
「うわ、すごい」
現代の感覚をもつボイとしても、『総の蘇我館』の大きさには圧倒された。
感覚的には、館というよりも、城郭といっても良い。
「さあ、つきました、ここが『総の蘇我館』です。」
「蘇我? 蘇我って総武線の?」
「はて? ソウブセンとは何でございますか?」
「いえ、何でもないです……」
以前から少しずつ前世の記憶がだんだんと鮮明になってきたボイであったが、この旅が始まってからというもの、かなり思い出せるようになっていた。
そのため、ついつい前世の記憶に基づいた謎のキーワードを口走ってしまうのだ。
◆◆◆
『総の蘇我館』は外から眺めるだけで荘厳さに気圧されるようだが、まさに内部も豪華絢爛だった。
宴のために通された、高床式の建物の中には香が焚かれ、床には絨毯が敷かれていた。
ボイとしては、前世で暮らしていたときには身の回りにありふれたものであったのだが、タッコボや務見くん、男衾くんなどは建物に入るときょろきょろとあちこちに目線を動かしていたので大串さんにたしなめられていた。
上座には館の主である蘇我粟備が座り、右列に使主、ボイ、タッコボ、務見くん、男衾くんが座る。
左列には大串さんが座り、その隣には、蘇我の一族だろうか、見慣れない者が座っていた。
宴の膳についても一切妥協がない。『舟橋の湊館』もとても豪華だったのであるが、『総の蘇我館』のそれはさらに贅の極みともいえるものであった。
ハマグリやアワビ、スズキなど、まさに目の前の海で揚げられたであろう新鮮な魚介類はもちろんの事、猪や鹿、根菜など、ありとあらゆる素材が使われ、丁寧に醤で味付けられているようだ。
しかし、今日のボイはちゃんと口上が終わるのを待つ。できる女なのである。
一通りの口上が終わった後食べ始めたのだが、隣のタッコボが、またこぼしながら食べているので、ご飯粒を拾ってやる。
反対側の務見くんも同じように世話を焼いていたので、ボイは拾ったご飯粒をタッコボの袴に擦り付けておいた。
そんなことをしていると、上座から声をかけられた。
「禰米から聞いたが、麻禰殿は書が読めるとのことだが、まことかな」
「はい、読めます」
ボイがそう答えると、粟備は少し驚いた表情を見せたかと思うと、すぐに柔和な表情になり、
「その齢で、さぞや大変だっただろう。どれ、明日に館の蔵を案内しよう」
(あれ、明日出発じゃないの?)と使主の方をみると、
「二晩、蘇我様のお館でお世話になり、明後日に出立でございます」
と大串さんが教えてくれた。
そのあと、粟備は使主と大串さんと話し始めてしまったので、少し量が多かった肉をタッコボのお器に乗せてあげたりしながら、ご馳走を堪能したボイであった。
◆◆◆
翌日、ボイが自分のために用意されていた高床式の建物で暇を持て余していると、使用人の女がきて、外に出るように促された。
建物を出ると、昨日の宴にいた蘇我の一族と思われる男の人がいた。
「昨日は、お名前を申し上げられませんでしたが、私、蘇我の粟菜と申します。」
「笠原の直の娘の麻禰です」
ちゃんと言えた。言えたのである。
「父上に申し付けられました故、本日は書蔵にご案内させていただきます。」
粟菜に案内されて、『書蔵』というひときわ厳重に守られている高床式の建物に入った。
建物の中には、なぜか粟備と使主と大串さんがいた。
(何でいるんだろう?使主たちも書を借りるのかな?)
書蔵の中には、前玉にあったような木簡が数多くあり、紙でできた巻物もいくつかあった。
巻物をボイがペタペタ触ったら、大串さんが「あっ」と声を上げてアワアワしだしたりしていた。
前玉と比べると、蔵書の数が多い。とても読書家のようである。
そんなことを考えていたら、粟菜が建物の一番奥の真新しい白木の台の上に置かれた、紫と赤の絹に包まれた箱を大切そうに手に取り、粟備に手渡した。
受け取った粟備が箱を両手で抱えてボイの前に立つ。
「とあるお方からの預かりものだ。麻禰殿にお渡しするように言われてな」
そう言うと、恭しく両手でボイに手渡した。
「ありがとうございます。誰からですか?」
ボイがそう言った瞬間、少し場の空気が凍った。粟備と使主が無言で視線を交わしたかと思うと、粟備は気を取り戻して、ボイに笑顔を向けて、
「そのうちわかる」
と答えるだけだった。
「えー誰からなんだろう?」
ニコニコしながら箱を開けるボイ。
「ちょっ! まっ……」
大串さんがたまらず止めに入るが、
「……ははは! 構わんぞ! 童らしくて良いではないか」
なんか、ごちゃごちゃしているがまあいいや。箱から取り出したのは一つの巻物であった。
使主と大串さんがごくりとつばを飲み込む。粟菜は目を丸くしていた。
ボイが少しだけ中を見る。
「こう、こう、き? 考工記ですか?」
粟備が満足そうな顔をして頷いている。
「大事にするようにな」
しかし、ボイは何も返事をしなかった。すでにボイの意識は、完全に書の記述に向けられ、ただの無邪気な童から、材料工学を専攻する研究者の顔へと変わっていた。
周囲の大人たちのことなど、目の端にも映らなくなっていたのである。
なぜなら、考工記とは青銅器の配合比率などが書かれているこの時代の最先端の材料工学の文献なのだ。
ボイは書蔵の中で、ひとり、過集中気味に読み始めてしまったのである。
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