序章
埼玉県東松山市――緑深い丘陵地に佇む、とある古い寺の墓地。
先日の台風がもたらした猛烈な豪雨によって斜面の土が削られ、古びた龍神の石碑は、その土台を無防備に剥き出しにしていた。
大学院で材料工学を専攻する神谷麻子は、祖父の墓参りの途中でその異変に足を止めた。
「あれ……何だろう」
崩れた土台の隙間に、強い陽光を跳ね返す鋭い光が見えた。
屈み込んで泥を払うと、そこから現れたのは手のひら大の『鏡』だった。
(なんでこんなところに鏡が……?)
泥を拭い、まじまじと見つめる。
背面に施された文様や緑青の跡から見れば、間違いなくかなり古い時代のもの。だが、何かが決定的におかしい。長い年月土中に埋もれていたなら、鏡面は酸化して曇りきっているはずだ。
それなのに、この鏡はまるで現代の銀引きガラスのように、恐ろしいほど澄んだ光を放っていた。
「……表面にガラス皮膜……? いや、そんな馬鹿な」
科学的な違和感に眉をひそめ、鏡面に自分の瞳が映り込んだ瞬間――。
視界が、音もなく暗転した。
◆◆◆◆
ふと目を開けると、視界に飛び込んできたのは粗末な藁葺きの天井だった。
そして、上から私を覗き込む二つの顔。
どこか両親に似た男女が、こちらを見て優しく微笑んでいる。
(……一体、何なんだ?)
状況を尋ねようと口を開くが、声が出ない。
無理やり絞り出そうとしても、「あー、うー」と間抜けな赤子のような声が漏れるだけだった。
眼前に持ち上げた自分の手を見る。
なんだこれは。まるまるとして、小さくて――まるで赤ん坊の手じゃないか。
首を左右に振ろうにも、なぜか思い通りに動かない。
どうなっている? ここは病院? いや、病院にしては建物があまりにも粗末で不衛生すぎる。
混乱する私の体を、覗き込んでいた女性のほうが慣れた手つきで抱き上げた。
彼女の胸に耳が密着し、トクトクという穏やかな鼓動が伝わってくる。
現状を把握しなければという焦りなど、心地よい体温と心音の前に一瞬で霧散してしまう。
そして、私の視界は再び急速に暗転した。
お読みいただき、ありがとうございます!
もし本作についてご興味、ご関心いただけましたら、下記のブックマークや高評価(☆☆☆☆☆)をいただけますと、大変励みになります!




