35.魔女の瞳 ②
前回のあらすじ:気になるあの人へ会いに行こう
夜が明けると、籠を持って一階下の部屋に向かい、声を掛けてみます。
「Seu batec.(おはようございます)E us Momo.(私は桃です)E kaic crad phindau.(貴方の荷物を持っています)」
まだ朝早いせいか返事がありません。本来なら扉の前に置いておくこともできますが、生憎の雨。ひさしは一応ついているものの、中に吹き込んでくることもあれば、小さな穴から雫が滴りおちることもあります。置けば荷物が濡れてしまうでしょう。
(夕方まで待ってもらおうかな。でも、もし急ぎの荷物だったら?)
できるだけ今のうちに直接渡してしまいたかった桃は何度も扉を叩きました。
(まだ寝とるのかも。やっぱり帰ってからにしようかな?)
諦めて家に一旦戻ろうとした時でした。扉のきしむ音がして振り返ると少し空いています。吸い込まれるような暗闇に、赤い何かがちらついていました。背筋の凍るような心地がして、籠を抱えている手を離してしまいます。雨水の染みがついた地面に籠が落ちたのを見て我に返り、慌てて拾おうとしますが、手が震えて力が入りません。
その時、隙間から覗いているのが瞳だということにようやく気がつきました。視線が鋭く桃を刺し、体が震えてきます。恐怖に突き動かされるまま階段を駆け下りますが、足がもつれて階段を踏み外し、転げ落ちてしまいました。
服の汚れも、足の痛みもお構いなし。ただあの場所から離れたいという気持ちが彼女を突き動かしていました。
それから桃に次々と災難が降りかかるようになったのです。
すねに擦り傷を作りながらどうにかグレアムの家に辿りつきます。いつも通り仕事に取りかかろうとして、通常であればついたままになっているはずの竈の火が消えていることに気がつきました。薪が小さくなっています。外の物置から新しいのを持って来て火をつけ直そうとしました。ところが、いくら火種を作っても火が大きくなりません。雨で木が湿っていたのです。
(火をつけるだけで仕事終わってまうやん)
乾いたところを何とか探し出して火を大きくします。安定し始めた頃には、お昼近くになっていました。そろそろグレアムのお父さんが絵筆を置いて、台所を覗きに来るでしょう。
(急いでご飯をつくらんと)
慌てて料理をするあまり、カブの皮を剥いている最中にナイフで手を切ってしまいます。痛みを我慢しながら食材に血が付かないように手を洗って布を当てました。しかし、今度はスープの具材を継ぎ足した鍋をひっくり返してしまいます。床が揺れるほど大きな音を立てて落ちる鍋。
「熱っ」
竈の上に置いてあったのですがバランスが悪かった様子。お湯が足にかかったので飛び上がるように逃げていきます。少し場所がずれていたら、足が潰れてしまうところでした。
異様な物音に気がついたのか、グレアムのお父さんが台所に顔を出しました。
「大丈夫か?」
桃はうんうんと首を縦に振って鍋を拾い上げます。手に持ったまま頭を下げると、彼は何度か振り返りながら仕事場へ戻っていきました。
雑巾で床を拭こうとしたら、まだ中身が熱くて火傷しそうになります。冷めて掃除ができるようになるまで、水に浸した雑巾を足に当てることにしました。
(また汁物作り直しやなあ。勿体ないことしてまった)
肩を落として大きなため息を吐きました。胸が痛み、鳥肌が立ってきます。
夕方になるとグレアムが帰ってきました。出迎えようと玄関まで行くと、タイミングが会わず、扉が桃の顔に激突してしまいます。
「ごめん! 大丈夫?」
桃は首を縦に降りますが、額と鼻がジンジン痛みました。触ってみても血は出ておらず、骨にも問題はなさそうです。グレアムが荷物をその場に置いて奥へと入って行きます。荷物を運んで彼を追いかけると、居間で薬箱をあさっていました。
「こんな時に限って切らしているんだよなあ」
中身を全部出した後、グレアムがすまなさそうに手を合わせたことから、薬が無かったということが分かりました。桃は台所に行き、一応患部を冷やします。
その日もサムの帰りが遅いと聞いていたので、一人で家路についていました。夜道は危ないから、という優しさなのか、方向音痴で道を覚えていないと思っているのか、今でも時々迎えに来てくれるのです。
大通りを渡ったすぐ後のこと。誰かが叫んでいる声が聞こえるので振り返ると、馬が迫ってきていました。この辺りを滅多に通らない馬車が来ています。道の真ん中を走るはずなのに、桃のいる道路の端へと何故か寄っていました。
道に面している家の壁に背中をくっつけるようにしてどうにか避けます。少し気がつくのが遅ければ、轢かれていたでしょう。車輪がはね飛ばした泥が、桃の服にべっとりと付きました。馬のいななきや、車輪の大きな音に気づかなかった自分自身を不思議に思う桃。帰ってきたときサムに呆れられたことはいうまでもありません。
肌寒い中、息を切らしながら庭で服を洗いました。仕事に着ていける服は2枚しか持っていないので、早く泥を落としておかないと洗い替えが無くなってしまいます。
部屋の中で服を干した後、顔が火照っているような気がした桃は、夜風にあたろうと庭の見える窓から顔を出します。すると、大きな羽を広げ、丸い瞳と、刃物のように鋭い爪を光らせた鳥が、桃めがけて飛んで来ました。桃はその場にしゃがみ込みます。何もしていないのに呼吸が乱れていました。もう一度よろめきながら立ち上がります。庭の木に止まっている金色の目がありました。暗闇に目が慣れてくると、うっすらと羽が見えてきました。
(なんだ、鳥さんやった)
ほっとして深く息を吐きます。しかし、じっと桃の様子を伺っているその姿がどことなく見張られてい
る様で、手を震わせながら窓を閉めました。
***
翌朝、桃は激しい頭痛で起き上がることができずにいました。こめかみの辺りが締め付けられているようです。耳元では誰かの囁く声がします。はっきりとは聞こえませんが、身の毛もよだつような不気味な言葉に感じられました。いくつもの声が重なって妖怪の歌のように響き合っています。
今日は仕事の日。サムに揺さぶられ、どうにか体を起こしました。すると額に向かって手が伸びてきます。鳥肌が立ち、避けようとすると体がぐらりと揺れ、鈍い音と共に更なる衝撃が頭を走りました。壁にぶつかってしまったのです。
サムは当惑した様子で首を振ると、机に麦の粥を一杯置いて出かけていきました。グレアムの家に行ける状態ではないことを悟ったようです。
「行ってらっしゃい」
彼に聞こえるか聞こえないか位の、か細い声で見送ります。静かになった部屋の中で
(ああ、サムさん熱を測ろうとしていたんやなあ。悪いことしてまった)
と、ぼんやり思っていたのでした。
ご飯を食べられるようになったのは、お昼過ぎになってからでした。せめて家事を少しでも片付けておこうと思い、洗濯籠を持って立ち上がります。胸元に刃物を突きつけられているような痛みがまだ残っていました。
どこかをぶつけてしまわないように、恐る恐る扉を開けます。すると、目の前に丈の長い服を纏った少年と思しき人が立っていました。相手が頭に被っているフードを外している時、一瞬赤い光が煌めきます。それを目にした桃は、背中に汗が噴き出してくるのを感じました。お客様を前にして、逃げ出すのは流石に失礼なので、必死でその場に立ち続けます。
黒い髪は肩の辺りまで伸びていますが、ところどころ毛先が跳ね上がっています。眠たそうな細い目は、赤にも黒にも見えました。片方の瞳は前髪に隠れており、よく見ようとすると、目を逸らしてしまいます。顔は青白く、目の下にうっすらと隈ができていました。
(具合が悪いんかな?)
「あ、あの。こんにちは」
勇気を振り絞って挨拶をしてみます。相手は何も言わなければ、表情すら変えることなくそこに佇んでいました。ところが暫く相対していると、身を翻して階段を降りていってしまいます。桃は手すりに身を乗り出してその様子を伺いました。その人は一階下の部屋に入っていきます。
(あの人やったんや……。一階下に住んどるの。何しに来たんやろ?)
訳が分からないまま部屋に戻ろうとします。すると、筒状に巻かれた紙が落ちているのに気がつきました。それを拾い上げ、部屋の中で開きます。想像以上に紙は長く、文字のようなものがびっしりと書かれていました。
(手紙、かなあ? サムさんに見せたら読んでくれるやろか)
文字の読めない桃は、紙を元通りに丸めると、洗濯をしに河へ行きました。
年末年始ということで、今日から1月4日まで毎日投稿します。19時過ぎを目安にUPするので、良ければ覗いていって下さい!




