103.エルフの先生が来た ⑤
日が落ちて辺りが段々と暗くなってくる頃には、フランは部屋からいなくなっていました。演奏会の会場へ向かったのです。寝床でリンが何度も寝返りを打ち始めたので、駆け寄ってみます。うっすらと目を開けているようでした。
(目を覚ましたみたい。けど、寝ぼけてるかもしれへんから)
寝起きの彼女はなるべく刺激しない方が良いと思い、桃は瓶に移して冷ましておいた水をカップに移し、アーモンドの香りがするパン粥を椀に注ぎます。病人でも食べやすいようにといつもより小さく具材を切って、長めに煮込んでおきました。おかげでパンがドロドロになっています。
リンはゆっくりと体を起こして毛布を肩にかけたまま椀とスプーンを手に取ります。ベッドに腰掛けて椀を鼻に近づけて匂いを嗅ぎました。出された物を食べることに対し、慎重になっているみたいです。
それも無理のないことでした。「毒は入れていませんよ」と言いたくなりましたが、入っていないと信じたいのはリンも同じはず。きっとそれでも警戒してしまうのです。
小刻みに震える手で一旦かき混ぜてもう一度匂いを嗅ぎます。震える手で汁を掬って一口飲みました。ひとまず安心したようで、今度はスープを吸って膨らんだパンを掬います。緩慢な動きで咀嚼しているリンの様子を桃は伺っていました。
「あの、お口に合いましたか?」
「……美味しい」
「それは良かったです」
ほっとして桃の顔が綻びます。リンが食べ終えて椀を机に置くと、鍋をかき混ぜながら尋ねました。
「お代わりはどうしますか?」
リンは再びベッドに腰掛けて毛布を引き被り、首を振ります。
「もう少し休んでください。洗い物はします」
「ごめん……なさい」
桃は机の上にあった椀とスプーンを水の張った桶に入れます。その音にかき消されそうなほどの声でリンが呟きました。
(困った時はお互い様って言いたいけど、何て言えば良いんやろ。あんまりそういう言い方
ってここでは聞いたこと無いような気がする)
やっと絞り出したのが
「友達ですから」
という言葉。
「とも、だち…………。神よ、あなたがくださったこの食事や飲み物、そしてそばにいてくれる友、その全てに感謝します」
食後の祈りの言葉を顔が火照るような心地で、それでいて満足げに聞きながら、桃はパン粥にお肉を足してかき混ぜていました。
食べた直後に横たわるのは流石に憚られたのでしょう。リンは足をぶらつかせながら薬草の香りがする水をちびちびと飲んでいます。張り詰めていた気持ちが緩んだ桃は段々退屈になってきて、洗った食器を拭きながらリンに話しかけてみました。
「あの、嫌なら何も言わないでください」
「何?」
「お菓子を作った? 人に心当たりはありますか?」
「分からない……でも」
「でも……?」
長い間がありました。まるで話すのをためらっているかのように。待っている間に桃は食器の片付けを終え、竈や机の周りの掃除を終え、夜眠っている間に飲める水も用意し、サムの分の夕食を上の部屋に持っていく準備まで整えていました。
「……あのエルフじゃないのかな」
「そんな!」
桃はリンの顔をまじまじと見つめます。竈の炎で薄暗く照らされた彼女はカップに視線を落としていました。汗に濡れているのか少しテカリのある前髪が垂れ下がり、その表情を読み取ることはできません。
「そんなことは無いですよ。あれだけ心配していたのに」
「うん。ただ……そうだったら良かったのにって」
「どういうことですか?」
食い気味で桃が尋ねます。彼女の真意を図りかねていました。
「……もっと食べておけば良かったのかも。中途半端に迷惑かける位なら。……死にたくても死にきれなかった。死ぬ勇気すらなかった」
(何で、何でそんなことを言うん? ここにいるうちの気も知らないで。それとも、嫌やったんかなあ。嫌やって言えなかったんかなあ)
怒りにも似た悲しみが桃の胸に広がっている間にも、リンの呟きは続きます。
「何の取り柄もないし。魔法使えるじゃんって言ってくれるけど、差し引いても駄目なくらい駄目だし……あの人も、本当は僕が邪魔だったんだと、思う。小さいころふらっと出て行って、一年くらい帰ってこなくて、急に帰ってくるっていうのがざらだった。この前だって急に出て行って、学校に通えって呼び出した癖に、学校で会うこともなくて……。ずっと奔放な性格なんだって思ってたけど、もしかしたら全部全部僕への嫌がらせだったのかな」
「そんな……」
桃はそう言いかけて言葉を失ってしまいました。今朝、グレアムのお兄さんの家で、探し人がいながら一年会いに行っていなかったという話をしていたことを思い出します。あの時は、信じられない気持ちでしたが、そこに悪意があるとは思ってもみませんでした。
しかし、本当に大切に思っている人ならすぐさま探しに行くのではないでしょうか。そもそも、生き別れのような切羽詰まった状況で無い限り、今どこに住んでるのかくらいは知っていてもおかしくありません。
すぐにリンの元へ行けないような事情が女エルフの側にあるとも、どうしても思えないのでした。
「変なことばかりするのも、街の人とすぐ問題を起こすのも、僕が嫌いだからだろ。そのしわ寄せが全部こっちに来ればいいと思ってるからだろ。だから……だから、僕がさっさといなくなればあの人も解放されたんじゃないかな。解放してあげるべきだったんじゃないかな」
「それは大きな誤解だっ」
窓辺にいたフクロウが、鳥かごから飛び出して部屋の奥へと飛んでいきました。勢いよく開いた扉の向こうにいたのは、あの女エルフです。彼女は何の意味があるのか、部屋に入るなり仰向けに寝転んで、手を床につき、体を反らせながら虫のように手足を動かして桃達に近づいてきます。
「いやあ、珍しく沢山しゃべってるからついつい聞き入っちゃった。そんな友達がいつのまにかできてたんだねえ、びっくり」
驚愕のあまりその場から動けずにいる桃、話をする気はないと言わんばかりにベッドにうつ伏せになるリン。
「ほら、エリが来ると黙っちゃうんだよ。つまんないの」
「は、はあ」
ほぼ呼吸音のような声が桃の口から発せられます。
「まあ、それまでは面白かったからいいや。この際ひとつだけ言わせてよ」
エルフの女性は弓なりに反らせていた背中を下ろし、床に仰向けに寝転がる体勢になります。銀色の髪が横に広がりました。
「君を育てていたのは、他でもないエリの意志だよ。人に指図されるのは大っ嫌いだからね。そりゃあ君のお母さんに頼まれたことでもあったんだけどさ……でも、エリがそうすべきだって思ったからやったんだ。君は暗い祭壇でずっと月の女神様にお祈りする生活を送る羽目になるところだったんだよ。そんなの嫌じゃん。暗くてじめってしたところに一人でさ、どーせ毎日神様のお告げをでっち上げてエライ人に伝えたりとかしてこき使われるんだよ、お母さんもそんなのはあんまりだって言ってた。エリもやだなって思って小さな君を連れ出したんだ。誰かに追いかけられても逃げられるように強く、賢くなって欲しかったし、君は人の暮らす街の中で、自由に楽しく生きるべきだと思ってるよ。お母さんもそう願っていたんじゃないかな、聞いた覚えはないけど」
力強い調子の割に説得力のない体勢でエルフの女性は語りかけます。桃は聞いたことのない言葉の数々と勢いに圧倒されて半分位しか聞き取れませんでした。
そんな中、毛布がもぞもぞと動き、ボサボサの髪をした頭の部分だけ飛び出てきます。
「そんな話、聞いた事ない」
「だってえ、聞かれなかったもん。それにさあ、ねえ、そこの人、エリがそんなに嫌がらせしているように見える? してないよね。すっごく優しいよね」
「ええ、はあ……まあ、どうでしょう?」
寝転がったまま体をクネクネと動かして尋ねるエルフに対して、桃は曖昧に答えることしかできませんでした。




