【第35話】 《勇者の休日・最終日》下町の活気と秘密の夜風
「全休計画」の最終日、四日目。
私が足を運んだのは、王都グラニアの中でも最も人々がたくましく生きる「下町・職人区」だった。重厚な石造りの本通りとは異なり、木造の家々がひしめき、焼きたてのパンや香辛料の香りが漂う活気あふれるエリアだ。
「レオン様〜! こっちこっち!」
市場の入り口で手を振っていたのは、『銀の星亭』の看板娘、エレナだった。
店でのエプロン姿とは一変し、今日は黄色いリボンで髪を束ね、動きやすい刺繍入りのベストと広がりのあるキャメルのスカートという、健康的で可憐な街娘スタイル。
「待たせちゃったかな? おはよう、エレナ」
「ううん、アタシもいま来たところ! ……ふふっ、今日のレオン様、いつもよりずっと表情が柔らかいね。クラリス様たちにいっぱい可愛がってもらったでしょ?」
悪戯っぽく笑うエレナ。その飾らない明るさに、私も肩の力が自然と抜けていくのを感じた。
(クハハ……相変わらず察しがいい娘だ。王都で一番庶民の機微を知る看板娘だけのことはある。
「さあ勇者様! 今日のアタシはガイド兼、あなたの『普通の女の子の恋人』役だからね! 下町の美味いもん、端から食べ尽くすよー!」
エレナは迷いなく私の腕に自分の腕を絡めると、弾けるような笑顔で下町の雑踏の中へと走り出した。
エレナとのデートは、これまでの三日間とはまた違う、怒涛のような賑やかさに満ちていた。
露店で買ったアツアツの肉まんじゅうを二人で半分こにし、職人たちが技を競うガラス細工の露店を見学し、広場の大道芸に子供たちと一緒に歓声をあげる。
「ほらレオン様、口元にソースついてる! まったく、勇者様ともあろうお方が抜けてるんだから」
「おっと、すまないね」
エレナが自然な動作でハンカチを取り出し、私の口元を優しく拭いてくれる。その手つきはどこか甲斐甲斐しく、熟練の夫婦のような温もりがあった。
「ねえ、レオン様。王宮の料理も素晴らしいけど、こういう下町の泥臭い味も悪くないでしょう?」
「ああ、素晴らしいよ。魔力や聖気で練り上げられた料理よりも、ずっと『生きている人間の息吹』を感じる」
「えへへ、よかった! アタシね、レオン様にこういう『普通の世界』を味わってほしかったんだ」
川沿いのベンチに並んで腰掛け、冷たい果実水を飲みながら、エレナは川面を走る小さな小舟を見つめた。
「レオン様はさ、すごすぎるんだよ。魔王軍を倒して、神様まで追い払って……世界中の人が『絶対の救世主』だって拝んでいるでしょう? でもね、アタシはときどき心配になっちゃうの。そんな大きなものを一人で背負ってたら、息が詰まっちゃうんじゃないかって」
夕暮れ時。私たちは王都を流れる大川をゆっくりと下る、小さな貸切の遊覧船の上にいた。
川面が夕陽を受けて赤金色の絨毯のように輝き、両岸の建物が影絵のように浮かび上がっている。船頭の漕ぐ櫓の音が、心地よく響いていた。
「アタシね、クラリス様みたいに剣が強いわけじゃない。セレスティナ様みたいに凄い魔法も使えないし、ミルカちゃんみたいにお兄ちゃんを癒やしてあげられる特別な力もない」
エレナは船の縁に寄りかかり、少し切なげに風に髪をなびかせた。
「酒場の看板娘でしかないアタシに何ができるんだろうって、ずっと考えてたの。……でもね、決めたんだ」
彼女はゆっくりと振り返り、まっすぐな瞳で私を見つめた。
「レオン様が世界を救う戦いから帰ってきたとき、『お帰りなさーい! 今日のおすすめは安くて旨いシチューだよ!』って、変わらない笑顔で迎えてあげられる場所を作ること。それがアタシの役目だって」
エレナは私の元へ歩み寄ると、私の大きな手を自分の胸元にぎゅっと引き寄せた。
「あなたがどれだけ遠くへ行っても、どれだけ偉い人になっても……アタシの前では、ただの『お腹をすかせた一人の男の人』でいてほしいの。アタシが、あなたの『普通の日常』の帰る場所になってあげる」
「エレナ……」
胸の奥が、熱く激しく震えた。
魔王として世界を征服しようとしていた頃、私が必要としていたのは絶大な「力」と「服従」だけだった。
だが、今の私を支えているのは、このような一見小さく、しかし決して折れることのない「人間の温かな愛」なのだ。
勇者の仮面も、魔王の威厳もいらない。
ただの自分を受け入れてくれる場所。それがどれほど救いになるか、この少女は知っていた。
「……ありがとう、エレナ」
私は引き寄せられた手の力を強め、彼女の細い腰を抱き寄せて静かに引き寄せた。
「あ……レオン、様……」
顔を赤らめるエレナの唇に、私は優しく、深く口づけを重ねた。
川面の波音と夕風の音だけが二人を包み込む。
唇が離れると、エレナは夢心地のような目で私を見上げ、照れくさそうに胸に顔を埋めた。
「……もう、全休計画の最後にこんなズルいことするなんて……アタシ、一生レオン様から離れられなくなっちゃうじゃん」
「離すつもりはないよ。……君のいる酒場は、私にとっても最高の憩いの場だからね」
四日間にわたる「勇者レオン全休計画」。
聖騎士の忠愛、エルフの聖なる誓約、魔族の無垢な信頼、そして下町の温かな愛。
四つの絆を受け取った私の体内で、魔王と勇者の魂はついに何の軋みもなく、一つの完璧な『新しき存在』として完全に結実した。
もう迷いはない。
私はこの愛すべき世界と、私を愛してくれる人々を護るため、真の救世主として歩み続ける。
夜の帳が下りる王都に、無数のあたたかな灯火が灯り始めていた。




