【第28話】 英雄の休日と平穏なる侵食
天界の神々を打ち倒し、神罰の天輪が空から消え去ってから三ヶ月。
世界は劇的な脱皮を遂げつつあった。
魔王の恐怖も、神々の気まぐれな断罪もなくなった大陸では、人間、エルフ、そして旧魔王領の魔族たちが互いに使節を送り合い、歴史上初となる「三種族合同和平条約」の締結に向けた準備が進められていた。
そして、そのすべての中心にいるのは――王都グラニアの執務室で、山のように積まれた書類の山と格闘している私であった。
「……ふむ。魔王領からの特産品である『魔鉱石』の輸入関税を撤廃し、代わりに王国の農業技術を現地へ提供する、か。悪くない案だ」
私は羽ペンを走らせ、承認のサインを書き込んでいく。
かつて世界を破滅させようとした魔王が、いまや夜を徹して種族間の経済流通や難民支援策の書類に目を通している。このあまりにも滑稽な現実に、ふと口元が綻びそうになる。
(神々との決戦より、この書類仕事のほうがよっぽど骨が折れるな……)
溜息をつき、冷めた紅茶を一口すすったその時だった。
バァン! と勢いよく執務室の扉が開け放たれた。
「やっぱり! まだ書類仕事なんてしていたのね、レオン!」
仁王立ちで部屋に踏み込んできたのは、聖騎士団の正装ではなく、可憐な街着のドレスに身を包んだクラリスだった。
「クラリス……? どうしたんだ、そんな格好をして」
「『どうしたんだ』じゃないわよ! あなた、神々との戦いから戻ってきてから、一日も休みを取っていないでしょう!? 騎士団も文官たちも、全員があなたの体調を心配しているのよ!」
彼女はズカズカと机に歩み寄ると、私の手から羽ペンを強引に奪い取った。
「今日は全業務を私が(副団長権限で)ストップさせました! 提案書も条約草案も、すべて明日以降! いいわね!?」
「しかし、クラリス。魔王領との交流計画は一刻を争う……」
「問答無用! 今日はあなたを外に連れ出します!」
クラリスは私の腕をむんずと掴むと、拒否権を与えない強靭な(しかしどこか遠慮がちな)力で私を引きずり出した。
(くはは……聖騎士団副団長の職権乱用か。私を力づくで連れ出せる人間など、世界に彼女くらいのものだな)
私は抵抗するのを諦め、苦笑しながら彼女に引かれるまま執務室を後にした。
数分後、私はクラリスに言われるまま、地味な外套を羽織って王都の繁華街へと繰り出してい
た。
「見て、レオン! 大通りの市場がこんなに賑わっているわ!」
クラリスが少女のように目を輝かせて振り返る。
かつては第一王子の腐敗政治と魔王軍の恐怖に怯えていた王都の街並みは、見違えるほど活気に満ちあふれていた。露店には新鮮な野菜や果物、さらにはエルフの住む神樹の森から届いたばかりの珍しい柑橘類や、魔族の職人が作った繊細なガラス細工が並んでいる。
「レオン様!」「勇者様、いつもありがとうございます!」
変装しているとはいえ、目ざとい町人たちにはすぐにバレてしまう。
だが、彼らが向けてくるのは恐怖や欲望の眼差しではなく、心からの感謝と親愛がこもった温かな笑顔だった。
「ほら、レオン。口を開けて」
「ん……? むぐ」
クラリスが露店で買ってきた焼き立ての串焼き肉を、いきなり私の口へと押し込んできた。香ばしいタレの味と、ジュワッと広がる肉汁の旨味が口いっぱいに広がる。
「美味しいだろう?」
「……ああ、美味いな。驚いたよ」
「ふふっ、でしょう? あなたが作ってくれた平和なおかげで、街にはこんなに美味しいものが溢れているのよ」
クラリスは心底嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見つめていると、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。
かつて魔王城の冷たい玉座で、世界の滅亡だけを望んでいた頃には、絶対に味わうことのなかった感情。
人々の笑い声、焼き肉の香ばしい匂い、そして隣で腕に身を寄せてくる少女の体温。
(これが……『平和』というものか)
陽が傾き始め、王都を見下ろす高台の公園へとやってきた。
橙色の夕暮れが、美しく整備された街並みを柔らかく染め上げていく。
「……ねえ、レオン」
公園のベンチに並んで座り、夕空を見上げながらクラリスが静かに口を開いた。
「時々、怖くなるの。あなたがどこか遠く……私たちの手の届かないところへ行ってしまうんじゃないかって。神々との戦いの時も、あなたは一人で全部を背負って戦っていたでしょう?」
「クラリス……」
「でもね、今日こうしてあなたの隣で笑っていられて……すごく幸せ。私は、あなたが守ってくれたこの世界で、ずっとあなたと一緒に歩んでいきたい」
彼女は頬を真っ赤に染めながら、私の手を強く握りしめた。
その言葉には、一切の偽りも計算も存在しない。ただ純粋な、一人の少女の愛だった。
(……参ったな)
私は心の中で、降参するように深く息を吐いた。
かつて世界を滅ぼそうとした恐ろしい魔王。
いまやその影はどこにもない。私の中に残っているのは、世界を愛し、人々を守り、そして目の前の少女を愛おしいと感じる「勇者レオン」としての心そのものだ。
侵食されたのではない。
私はこの温かな世界を、自分自身の意思で選んだのだ。
「どこへも行かないよ、クラリス」
私は彼女の手を握り返し、優しくその肩を抱き寄せた。
「私はここにいる。君と……この世界の人々と共に、ずっとね」
「レオン……っ!」
クラリスが感極まったように私の胸に顔を埋める。
黄金の夕闇の中、偽りの救世主と彼を愛する少女の姿が、一幅の絵画のように静かに溶け込んでいった。
神々の支配が去り、魔王の脅威が潰えた今。
世界を騙し抜いた男が紡ぐ「真実の物語」は、穏やかな日常という名の一頁を、焦らずゆっくりと捲り始めていた。




