【第1話】 英雄の皮を被る悪魔
血の匂いが、魔王城の謁見の間に充満していた。
踏みつけた大理石の床は赤く濡れ、冷たく乾いた空気を甘く重い鉄臭さで満たしている。その中央に転がっていたのは、人類の希望と呼ばれた男――勇者レオンの亡骸だった。
「……脆いな」
玉座に腰を下ろしたまま、私は息を吐いた。
息をつく間もなかったはずの戦いだった。剣聖と呼ばれた男の連撃、大賢者の放つ極大禁呪、聖女の張り巡らせた絶対防御の結界。人間たちの知恵と技術の結晶、そのすべてが私という存在の前に破れ去った。
勇者レオンは死に際に、血を吐きながら私を睨みつけた。
『……世界は……お前なんかに……敗けない……』
それが彼の最期の言葉だった。言葉の意味などどうでもいい。私の掌から放たれた黒炎が彼の胸を穿ち、その心臓の鼓動を止めた。ただそれだけのことだ。
静寂が戻る。
広大な城内に響くのは、私が指先で玉座の肘掛けを叩く乾いた音だけだった。
「……退屈だ」
千年の時を生き、無数の種族を平伏させ、世界の半分を統べた。
人間たちが総力を挙げて送り込んできた最高傑作の「勇者一行」でさえ、私を本気にさせることすら叶わなかった。討伐されることもなければ、己を脅かす者もいない。勝利の味など、とうの昔に忘れた。残されたのは、気の遠くなるような永遠の退屈だけだ。
冷たくなった勇者の遺体に視線を落とす。
レオンが身に着けていた白銀の鎧は、私の攻撃を受けながらも形を保っていた。神の祝福を受けたという聖剣『エルシド』は、主を失ってもなお、うっすらと黄金色の光を放っている。
そのとき、ふと妙な思いつきが脳裏をよぎった。
(もし……私がこの男のフリをして人間の国へ戻ったら、どうなる?)
くだらないと思いつつも、一度芽生えた好奇心は薄れなかった。どうせ時間は無限にあるのだ。滅ぼす前の気まぐれな余興として、人間の世界を内側から眺めてみるのも悪くはない。
私は玉座から立ち上がり、魔法の構築を始めた。
肉体を縮め、髪の色を漆黒からレオンと同じ鮮やかな金へと変える。瞳の赤を澄んだ碧色へ塗り替え、体躯を人間の青年のものへと偽装する。
勇者の血で汚れた鎧を拭い、己の身に纏った。手に取った聖剣は、私の手に触れた瞬間、拒絶するように激しく鳴動した。
「静かにしろ。砕くぞ」
低く囁くと、聖剣は恐怖に慄くように光を弱め、おとなしく私の手に収まった。
鏡のような漆黒の宝珠に映る己の姿を見る。そこには、どこからどう見ても『世界を救った勇者レオン』が立っていた。
「……よし。出かけるとしよう」
私は静まり返る魔王城を後にし、勇者たちの残した転移陣へと足を踏み入れた。
転移の光が収まると、肌を刺す空気の質が一変した。
鼻をつくのは、焼きたてのパンの香り、馬糞の匂い、そして溢れんばかりの人々の熱気だ。
そこは、グランゼル王国の首都――王都グラニアの大広場だった。
私はフードを深く被り、周囲の様子を伺った。
不意打ちで人間たちを混乱に陥れてやろうかと考えた、その時だった。
「――出たぞ! 転移陣が光ったぞ!!」
広場の警備兵が叫んだ。
一瞬にして、周囲の喧騒が止まる。何事かと眉をひそめる私の前で、集まっていた群衆が波のように割れ、押し寄せてきた。
「勇者様だ! 勇者レオン様がお戻りになられたぞーっ!」
「魔王討伐の吉報だ! 神よ、感謝いたしま
す!」
激しい歓声が、空を揺らした。地鳴りのような拍手と、歓喜の悲鳴。花びらが大量に空から舞い散り、私の足元を埋め尽くしていく。
(……は?)
私は心の中で素頓狂な声を上げた。
なぜだ。私は勇者を殺したのだ。追撃の魔族を解き放ったわけでもなく、勝利の報告など送っていない。なぜこの者たちは、私が『魔王を倒して帰還した』と思い込んでいる?
「よくぞ……よくぞご無事で、レオン様!」
駆け寄ってきた老騎士が、ボロボロと涙を流しながら膝をついた。
「魔王城の方角から放たれたあの神々しい光……そして魔王城を取り巻いていた暗雲が晴れ渡ったのを見ました! あなた様が、あの忌々しい魔王を打ち滅ぼしてくださったのだと、国中が歓喜に包まれております!」
(……あの光だと?)
私は思い当たる節を探した。
――大賢者が最期に放った禁呪の余波か。あるいは、聖女が消滅する際に破裂した結界の光か。
皮肉なものだ。勇者一行が全滅する間際に放った絶望の悪あがきが、遠く離れた人々の目には『魔王を倒した希望の光』に見えたらしい。そして、ただ一人残って戻ってきた私が、無事に魔王を倒した英雄として処理されたのだ。
「勇者様! 一行の皆様は……?」
老騎士が尋ねる。その瞳には、不安と祈りが混ざり合っていた。
私はフードの陰で笑いを噛み殺しながら、勇者レオンの声と口調を模倣して答えた。
「……仲間たちは、命を賭して私を護り、戦い抜いてくれた。彼らの犠牲の上に、私は魔王を討ち取ることができたのだ」
「おお……なんと……! 賢者様も、聖女様も……。しかし、彼らの遺志は成就したのですね! あなた様が、世界を救ってくださったので
すね!」
群衆が再び爆発的な歓声に包まれる。
「勇者レオン万歳!」「人間の勝利だ!」「魔王は滅びたぞ!」
彼らが讃えているのは、目の前で静かに微笑む男が、まさにその『滅びたはずの魔王』本人であるとも知らずに。
あまりの滑稽さに、私の胸の内で邪悪な歓喜が湧き上がった。
面白い。実にくだらないが、狂気的なほどに面白い劇場だ。
「さあ勇者様! 国王陛下がお待ちです! 城へお進みください!」
導かれるまま、私は王城へと続く赤じゅうたんの上を歩き出した。
王城の大広間は、豪華絢爛な飾りに彩られていた。
玉座に座る老王は、私が謁見の間に入ると同時に立ち上がり、王冠を戴く頭を深々と下げた。
「勇者レオンよ……いや、世界の救世主よ。よくぞ……よくぞあの恐ろしき魔王を倒してくれた。余は、我が国民は、いや全人類はお前に言葉に尽くせぬ感謝を捧げる」
王の目には涙が浮かんでいた。貴族たちも、将軍たちも、皆が惜しみない賞賛の眼差しを私に向ける。
「レオンよ、望むものを言え。この国の半分でも、姫との婚礼でも、余の持つすべての財宝でも構わん。お前の偉業に比べれば、如何なる報いも小さすぎる」
私は静かに首を振った。
「陛下、私は何もいりません。ただ……仲間たちの魂を弔い、平和になったこの世界を目に焼き付けたいのです」
「なんと無欲な……! これぞ真の英雄だ!」
王は感極まった声を上げた。
その夜、国を挙げた盛大な祝宴が催された。
最高級のワインが振る舞われ、極上の肉が焼き上がり、音楽家たちが歓喜の歌を奏でる。誰もが笑い、踊り、魔王という恐怖から解放された夜を祝っていた。
私は酒杯を手に、喧騒から少し離れたテラスに出た。
夜景を見下ろす。城下町は松明の光で埋め尽くされ、夜空には祝砲の魔法花火が次々と打ち上がっていた。
「……阿呆共め」
私は誰も聞こえない声で呟いた。
魔王は滅んでなどいない。今、お前たちが酒を酌み交わしている城の真ん中で、鎧を着て佇んでいる。私がその気になれば、この一瞬でこの街を灰にすることなど造作もないのだ。
偽りの平和に酔いしれる愚かな人間どもを嘲笑い、私は杯の酒を飲み干した。
しかし、そのときだった。
「……あ、あの……勇者様……?」
背後から、細い声がした。
振り返ると、給仕服を着た幼い少女が、トレーを抱えて震えながら立っていた。10歳にも満たないような小さな少女だ。
「なにか用か?」
私はレオンの柔らかい笑みを貼っ付けて尋ねた。
少女は意を決したように私に近づくと、深く頭を下げた。そして、小さな手で抱えていたものを私に差し出した。
それは、ヘタクソな手縫いの刺繍が入った、小さな布のお守りだった。
「これ……使ってください。あたし、勇者様にどうしてもお礼が言いたくて……」
「お礼?」
「はい……。あたしの故郷の村は、3年前に魔族の軍隊に襲われて……お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも……みんな殺されました。村も全部燃やされて……あたしだけが、床下に隠れて生き残ったんです」
少女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。しかし、その顔には悲しみだけでなく、強い光が宿っていた。
「あたし、ずっと怖かったんです。いつまた魔王の軍隊が来て、みんなを殺しちゃうんじゃないかって……毎日、夜になるのが怖くてたまらなかったんです。でも……勇者様が、魔王を倒してくれたから……」
少女は両手で私の手を握りしめた。人間の子供の手は、驚くほど小さく、温かかった。
「もう、あたしみたいに家族を殺される子供はいなくなるんですよね? もう、みんな泣かなくていいんですよね……? 勇者様……本当に、本当にありがとうございました……!」
少女はぽろぽろと涙を流しながら、何度も何度も頭を下げた。
「……」
私は言葉を失った。
私の掌の中で、小さな温もりが脈打っている。
私が気まぐれに命じた魔族の侵攻。私が『領土拡大』という退屈しのぎのために滅ぼさせた無数の村々。その一つに、この少女がいたのだ。
私が奪ったのだ。この少女の親を、兄を、故郷
を、平穏を。
私という存在が、この小さな子供にどれほどの絶望と恐怖を植え付けたのか。
そして今、その元凶である私に向かって、この子は心からの感謝と涙を捧げている。
『私を救ってくれてありがとう』と。
「……あぁ」
私の口から、絞り出すような声が出た。
「もう……誰も殺させはしない。君の家族を奪ったような惨劇は……二度と起きない」
それが、己の口から出た言葉だとは信じられなかった。
レオンのフリをした演技のつもりだった。だが、胸の奥底で、これまで感じたことのない異様な感覚がうごめいた。
熱いような、冷たいような、胸を刺すような不快感。
これが……『罪悪感』とでもいうものなのだろうか。それとも、別の何かだろうか。
少女は泣きながら笑い、「ありがとうございます!」と言って走り去っていった。
手元に残された、無格好なお守り。
私はそれを固く握りしめた。
祝宴が終わり、あてがわれた豪華な客室で、私は一人鎧を脱いだ。
鏡に映るのは、魔法を解いた、本来の姿――黒髪と赤瞳を持つ魔王の姿だ。
手の中には、少女から受け取った安っぽい布のお守りがある。
「……下らん」
私はそれを投げ捨てようとして、手が止まった。
魔王としての私は、世界を征服し、すべてを破壊する存在だった。
だが、勇者レオンとなった私は、人々から愛され、期待され、感謝されている。
魔王城の冷たい玉座で受ける服従の眼差しとは違う。
人間の瞳に含まれていたのは、熱と、祈りと、眩しいほどの光だった。
(魔族に家族を殺された者、故郷を失った者、明日を生きる恐怖に怯えていた者……)
人間どもは弱い。一突きで死ぬ。魔法一つで蒸発する。
だが、その脆弱な肉体の中に、どれほど巨大で、渦巻くような『想い』を抱えて生きているのか。
私はそれを、何も知らなかった。
虫ケラの足掻きだと思って踏みにじってきた。
「……面白い」
私は呟いた。口元が歪む。
だが、それはかつての退屈を紛らわすための冷笑ではなかった。
「魔王であるこの私が、人類の『救世主』として生きていく。……ふふ、これ以上の皮肉があるか?」
もし、私の正体がバレれば、この国は、いや世界は再び絶望のどん底に叩き落とされるだろう。
彼らが信じた英雄は存在せず、自分たちを脅かした魔王そのものだったと知った時、人間たちはどんな顔をするのか。
あるいは――このまま私が『勇者』を演じ続け、私が作り出した悲劇の裏側を、この目で確かめて歩くとしたら。
魔族の王として撒き散らした破壊の痕跡を、偽りの勇者として巡る旅。
犠牲者たちの声を聞き、彼らの怨嗟と祈りを一身に受け止める道。
「よかろう」
私は再び魔法を唱え、姿を金髪碧眼の勇者レオ
ンへと変えた。
聖剣エルシドを腰に差し、少女のお守りを懐に深く収める。
「見届けてやろうじゃないか。私という悪魔が踏みにじった、この世界の生き様を」
勇者となった魔王の、長く滑稽で、どこまでも残酷な旅が、今ここから始まろうとしていた。




