第60話 傷ついた少女と優しい嘘
放課後。今日は生徒会の集まりも無かったため、俺は昼休みの約束通り、佐々木に連れられて彼女の家へと向かうことになった。
もちろん、最近すっかり俺にべったりな姫子も「私も行きます」と当たり前のように付いてこようとしたのだが、さすがにそれはマズいと俺は止めた。
引きこもって対人恐怖症になっているような女の子のところに、いきなり複数人で押しかけたらどうなるか。
ただでさえ知らない人間が来るだけでパニックになるかもしれないのに、それが集団となれば完全に怯えて拒絶されてしまうだろう。
「ごめんな姫子。今回は俺一人で行ってくるよ」
そう言って説得すると、姫子はしばらくぷくぅと頬を膨らませてむくれていた。
だが、事情が事情なだけに最後は諦めてくれたようだ。
「はぁ……。ひよりの時もそうでしたけど、私だって兄さんの力になりたいんですよ?」
ため息をつきながら、上目遣いで俺を見つめてくる姫子。
かつての猛毒を吐いていた頃からは考えられないほど、素直で健気な言葉だ。
「うん。わかってるさ。今回は俺だけで行くけど、俺のことをいつも気にかけてくれててありがとうな」
姫子の頭を撫でて優しく笑いかけると、彼女は照れたのか少し頬を赤らめて俯いてしまった。
(……可愛い奴め)
なんだかんだ言って、やっぱり妹は可愛いものだ。
俺は少しだけ温かい気持ちになりながら、姫子と別れて佐々木と共に駅へと向かった。
佐々木は電車通学で、彼女の家は学校から電車で三駅ほど離れた場所にあった。
電車を降り、すっかり夕暮れ時になった見知らぬ住宅街の道を歩きながら、俺はずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「そういえばさ、佐々木。ひきこもってるっていう従姉妹の名前を知らないんだけど、なんて名前なんだ?」
俺の問いに、前を歩いていた佐々木はピタリと足を止め、少し考え込むように首を傾げた。
「うーん……。昼休みに、ネットで個人情報が晒されちゃったのが原因って話をしたじゃない? もし名前を教えちゃうと、翔くんが気になって検索した時に、当時の事件のことがネットに出ちゃうかもしれないから……教えたくないんだよね。出来れば、翔くんには先入観無しであの子と接して欲しいというか……」
申し訳なさそうに眉を下げる佐々木。
なるほど、そういうことか。
彼女がどんな事件を起こして、あるいは巻き込まれてネットで晒されることになったのかはわからない。
だが、今の彼女たちにとっては、もう二度と掘り返したくない過去なのだろう。
全てを捨てて「別人になりたい」と願い、VTuberのガワを被るほど追い詰められた過去ならば、俺も下手に過去の出来事を詮索せず、目の前にいる「今の彼女」だけを見たほうが良いのかもなと俺は納得した。
「わかった。とりあえず、名前はなんて呼んだら良いのかな?」
「そうだねぇ。星野が今の苗字なんだけど……まぁ、配信名の『星街セイラ』で良いんじゃないかな?」
「星街セイラ……。わかった、とりあえずセイラちゃんって呼んでみるか」
俺は素直に頷いた。もし本人がその呼び方を嫌がるようなら、その時は直接、彼女自身に何と呼べばいいか尋ねてみればいいだろう。
それから数分後、俺たちは佐々木の家に到着した。
玄関をくぐり靴を脱いでいると、奥から女性がパタパタと足音を立てて出てきた。佐々木のお母さんだろう。
「おかえりなさい、澄子。あら、初めて見るお友達ね。はじめまして。澄子の母です」
「はじめまして。一条翔と言います。突然お邪魔してすみません」
俺は失礼のないように、しっかりと頭を下げて会釈をした。
生徒会長として、保護者への挨拶は手慣れたものだ。
しかし、顔を上げた俺を見た瞬間、お母さんは「わっ」と驚き、目を真ん丸に見開いた。
「まぁ……! 凄く綺麗な子ね。アイドルかなにかの人?」
「でしょー!? マジで可愛いよね! 元が男だなんて絶対思わないよね!」
「おっ、男!?」
佐々木が自慢げに放った爆弾発言に、お母さんは素っ頓狂な声を上げ、文字通り足をもつれさせてその場で派手に転びそうになった。
「えっ? えっ!? こんなに可愛くて胸も大きいのに!? 手術!? その歳で手術したの!?」
お母さんはパニックに陥りながら、俺の顔と、制服のブラウスを押し上げている胸を交互にマジマジと見つめてくる。
しまった、と佐々木が「余計なことを言ってしまった」という顔で青ざめた。
「ち、違うの! この子は間違いなく女の子なんだけど、男ってのは……えっと、自分を男の子だと思ってる女の子なの!」
「……はい?」
佐々木よ、フォローになってないぞ。
なんだその「自分を男の子だと思っている女の子」という謎のパワーワードは。
しかし、お母さんはその言葉を聞いてハッと息を呑み、両手で口元を覆った。
「まぁ……! 性自認……ってやつね……!」
そして、お母さんはまるで菩薩のような、慈愛に満ちた温かい瞳で俺を見つめてきたのだ。
「いろいろ大変でしょうけど、頑張ってね」
ガッツポーズまで作って優しく励ましてくれるお母さん。
完全に「トランスジェンダーの悩みを抱える学生」だと勘違いされている。
「あ、ありがとうございます……」
俺は冷や汗を流しながら、引きつった笑顔でそう答えることしかできなかった。
弁解すればするほど沼にハマりそうな空気に、俺はただただやり過ごすしかなかった。
お母さんと別れ、俺たちは階段を上がり、二階の廊下の突き当たりにある部屋の前に立った。
ここが、引きこもりの従姉妹──セイラちゃんの部屋らしい。
佐々木は小さく深呼吸をすると、コンコンとドアをノックした。
「帰ったよ。入って良い?」
「…………」
部屋の中からは何の返事もない。
生活音すら聞こえず、まるで誰もいないかのようだ。
「入るよ」
佐々木は一言断りを入れると、ガチャリとドアノブを回して扉を開けた。
部屋の中はカーテンが分厚く閉め切られており、夕方だというのに酷く薄暗かった。
むわっ、と少し淀んだ空気が漏れ出してくる。
その薄暗い部屋の隅、ベッドと壁の隙間に、膝を抱えて座り込んでいる小さな人影が見えた。
パチリ、と佐々木が壁のスイッチを押し、部屋の明かりをつける。
急に明るくなった室内に、人影――ダボダボのグレーのパーカーを着た少女が、ゆっくりと顔を上げた。
伸びきったボサボサの前髪の隙間から、怯えたような視線がこちらに向けられる。
そして、彼女の視線が、佐々木の後ろに立っている『知らない女』の姿を捉えた瞬間。
「だっ、誰ぇ!?」
鼓膜を劈くような叫び声が上がった。
少女は弾かれたように立ち上がると、そのままベッドに駆け込み、頭からすっぽりと布団にくるまってしまったのだ。
ガタガタと激しく震える布団の山から、泣き出しそうな声が漏れてくる。
「澄子さん……! どうして知らない人を連れてきたの……!? 怖い……! 私を責めにきたの……!?」
パニック状態に陥り、ひたすら恐怖を口にする少女。
その想像を超えた重症さに、俺は息を呑んだ。
見知らぬ他人が視界に入っただけで、自分が責められると錯覚してしまうほどの深いトラウマ。
俺はどうしたら良いのかと激しく困惑した。
しかし、ここで引くわけにはいかない。
俺は佐々木と目を合わせ、事前に道中で相談していた『案』を試すことにした。
「怖がらないで聞いて欲しい!」
俺は布団の山に向かって、できるだけ優しく、けれどはっきりとした声で呼びかけた。
「俺の名前は一条翔。星街セイラの配信を観て、キミに会いたくなったファンの一人だ!」
「…………え?」
ピタリ、と布団の震えが止まった。
しんと静まり返った部屋の中で、しばらくの沈黙が流れる。
やがて、モゾモゾと布団が動き、隙間から半分だけ、彼女の顔がそっと出てきた。
伸びた前髪でよく見えないが、彼女の怯えきった目が、じっと俺の姿を見つめてくる。
「……配信を、観てくれた人……なの……?」
掠れた、今にも消え入りそうな声で尋ねてくるセイラちゃん。
(……よしっ!)
第1段階の成功に、俺は密かに胸を撫で下ろした。
彼女の意識を『過去の恐怖』から『現在のVTuberとしての自分』に向けさせる作戦は成功だ。
しかし、本当の戦いはこれからだ。
完全に心を閉ざしてしまったこの少女と、どうやって言葉を交わしていくのか。
これから先がきっと大変だぞと、俺は静かに気を引き締めるのだった。




